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東武スクエアワールド

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東武ワールドスクエア・タージ・マハル

タージ・マハルは、インド北部アーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟。インド=イスラーム文化の代表的建築である。

観光
インド観光の目玉的存在で、年間400万人(うち外国人は20万人)の観光客が訪れる。デリーからは約200Kmあり、車でハイウェイを行くと5時間ほどかかる。

日帰りにはアーグラ駅まで特急列車シャターブディー急行を利用したほうがアクセスが容易である。環境保護のため付近への車両の乗り入れが禁止されており、駐車場から入口までは歩くか電動自動車に乗り換えねばならない。

また、保安上の理由で大きな荷物は入口で預ける必要がある。入場料は以前は15ルピーと安かったが、2000年より外国人の料金は750ルピー(2011年9月のレートで約1150円)に値上げされた。インド人料金は20インドルピー(約30円)と低額に据え置かれている。

霊廟であるので内部は撮影が禁じられている。夜間の入場は本来できないが、満月の夜前後2日間のみ人数制限はあるものの夜間入場が許可される。

1632年着工、1653年竣工と言われる。

謀反を起こした臣下ハーン・ジャハーン討伐に付き従っていたムムターズ・マハルは、遠征先のブルハーンプルで[1]産褥病のため1631年6月7日に死亡した。彼女は遺言のひとつに、後世に残る墓を所望した[2]。彼女はブルハーンプルのザイナ・バードの庭園に葬られ、毎週金曜日には訪れるまだ39歳のシャー・ジャハーンの髯はすっかり白くなっていた。

霊廟の計画はブルハーンプル滞在時には着手され始めたと考えられる。1632年の初めにムムターズ・マハルの遺体は都アーグラに送られ、ダルール・キラファト・アクバラバードの庭園に安置されたが、ハーン・ジャハーンはデカン討伐を続けた。

これも6月には終えるとアーグラに舞い戻り、ムムターズ・マハルの一回忌追悼式典が催され、霊廟建設が開始された。基礎工事を経て1636年には白い霊廟がほぼ完成し、さらにこれを挟んでモスクと集会場、尖塔、そして大楼門が建設された。大楼門北側には「神のご加護により、1057年竣工」という文字が刻まれている。

イスラム暦1057年は西暦1648年であり建設開始から17年を経ているが、その後には付帯設備が5年間をかけて整備され、すべての工事は1653年に完了した。

名前の由来は不確定ながら、王妃ムムターズ・マハルのムムが消えターズがインド風発音のタージになったという。ムムターズ・マハルはペルシャ語で「宮殿の光」、「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号である。

彼女の本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーガム(ベーグ)という。タージ・マハルを言葉どおりに訳せば「王冠宮殿」もしくは「宮殿の王冠」という意味になる。

また、地元では親しみを込めてピーピー・カ・ロウザと呼ばれていた。ピーピーは親しみを込めた貴婦人への呼びかけ。カ・ロウザは「(その貴婦人)の廟園」を意味する。

1983年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、2007年に新・世界七不思議に選出された。

構造

敷地
タージ・マハルは南北560m、東西303mの長方形の敷地にある。南端の約1/4部分は前庭があり、その北端にある大楼門を挟み広がる庭園は一辺296mの正方形であり、水路と遊歩道によって東西南北それぞれに2等分され、さらにそれぞれが4つの正方形で区分されている。その北には敷地の約1/4を占める基壇の上に、廟堂を中心に西側にモスク、東側に集会場がある。

南の大楼門はダルワーザー、ムガル式四分庭園はバギーチャー、西側のモスクはマスジド、東側の迎賓施設はミフマーン・カーナー(ジャマート・カーナー)、そして高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟はマウソレウムと言う。

タージ・マハルの基本設計は、ムガル帝国の墓廟方式の伝統を踏襲している。しかし、例えばフマーユーンの廟やアクバルの廟とは異なる点もある。これらは正方形の庭園の中心に廟堂があり、四方のどの門から入っても同じ景色が目前に広がるように設計されている。それに対し長方形構造と墓廟を北の端に配したタージ・マハルはこの例に倣っていない。また、敷地内にモスクを持つ事も独特である。

前庭部と大楼門

大楼門の南には前庭や車だまりおよび従者が控える建物がある。大楼門は赤砂岩づくりで高さ約30m。イスラーム建築で多用される大きなアーチを持つイワーンであり、両側には八角形の太い塔がある。イワーンの上には、ファテープル・シークリーの寺院にも見られる白い鍾乳石の型体をした11個の丸屋根がある。

庭園
大楼門をくぐった先に広がる庭園には天井の4本の川をあらわす4本の水路が四方に流れ、この水路が交わるところには天井の泉を表す池が配置されている。これはペルシャ様式のチャール・バーグ式を踏襲している。

水の供給には直径約23cmの管路から行われる。庭園植物への灌水の他、これはさらに細い管を通して水路の南北にある計24基と、中央の泉にある5基の噴水へ水の供給が行っている。通常ならば取水口から遠い噴水には水圧が低下するが、タージ・マハル庭園ではそれぞれの噴水の下に壺が埋め込まれ、ここに一度水を貯めることで各噴水の高さに差が現れないよう工夫されている[1]。

ムガル朝の霊廟形式では、本来庭園の中心に墓廟があり、四方いずれからも同じ景色をつくる。タージ・マハルの庭園の中心には、墓廟の代わりに一辺23mの四角い白大理石づくりの基壇がある。中央の泉は一辺13mの方形であり、池と基壇の各辺の比は、墓廟とその基壇の比とほぼ一致する。

霊廟の庭園は、イスラム教徒にとって砂漠の中の楽園を意味する。タージ・マハルも同様に列柱回廊で囲まれ、東西には門の代わりにバルコニーを備えた二階の楼台(バラダリ)がある。その中には豊かな花々や果樹が植えられ、季節によってバラ、チューリップ、ユリ、マリーゴールド、水仙などが咲き、マンゴー、オレンジ、レモン、ザクロ、リンゴ、ブドウなどが実を結んでいた。現在の庭園は糸杉の並木と芝が一面に植えられ、大樹がところどころにあるが、これは19世紀にイギリス人が作り変えたものである。

基壇と尖塔
庭園奥には中央に高さ5.5mの基壇の上に立つ白亜の墓廟があり、四隅には4本の尖塔が建っている。向かって左(西)にモスク、右(東)に集会場がある。基壇を昇る階段は庭側から見えない場所に設置されている。ムガル帝国の霊廟では、この基壇周囲にはアーチ状の列柱とその後ろに小部屋が据えられ、一族や縁者の墓石を置く例が主だが、タージ・マハルの基壇にあるアーチは単なる浮き彫りであり小部屋も無い。これは、タージ・マハルがあくまでムムターズ・マハルだけのために建設されたことを表している。

4つの尖塔は「皇妃に仕える4人の侍女」に喩えられる。しかしその形は灯台と小さなバルコニーを備えただけの単純で、イギリスの小説家オルダス・ハックリスは「人類が手がけた中で最も醜悪な建築物のひとつ」とさえ形容した。ただしこれらは主役の墓廟を際立たせるとともに、全体で視覚的なバランスに寄与している。

墓廟
墓廟は横と奥行きがどちらも57mの正方形を基本に、四隅が切られた変形八角形をしている。対して高さは丸屋根上部までが58m、上に据えられた頂華の長さを加えると更に高くなる。この比率はタージ・マハルが目前から見上げられる際に威容を感じさせるためのである。しかし遠目から見るとバランスに欠ける。そのため基壇の端に塔を置き、視覚的な重心に配慮している。

最上部にムガル建築の様式であると三日月と水差しを重ねてあしらった頂華を備え、繋ぐ部分には蓮の花弁を象った飾りパドマコサを持つ丸屋根は、建物本来の高さ約23mから持ち上げるため下に長い円筒が置かれ、その総重量は12,000トンにもなる。この重さは内部にある八角形の石積みの柱が支え、ずれや傾きを防ぐために工夫された楔で固定されている。

建物の屋上には丸屋根を囲む四隅に小さな丸屋根を持つ小楼(チャハトリ)が配される。建物の正面を含む4つの面には大きなアーチ型飾り門があり、その両隣と切られた四隅にはそれぞれ上下2段の小さなアーチ飾り窓がある。さらに八角形の建物のそれぞれの角と飾り門の両端には飾り柱があり、先端は建物の上に伸びている。飾り門や窓は意図的に深い奥行きを持たせており、太陽や月の光がつくる濃い影を作らせ、建物の微妙な表情を演出させる。

墓廟の内部に入ると丸天井は24mしかない。これは二重殻ドームという形式で、外観上の丸屋根と内部の天井の間に空洞が置かれ、屋外から見るデザインと屋内の空間とのバランスを両立させる形式であり、この工夫は16世紀の西アジアで考え出された。内部中央の八角形のホールには、その中心に白大理石にコーランの章句や草花の連続文様が装飾された衝立が囲うムムターズ・マハルの墓石がある。そしてその横(庭から入ると向かって左)には一回り大きな墓石があるが、これは夫のシャー・ジャハーンのものである。中央ホールを取り囲む四隅には本来は親族を葬るために造られる八角形の小部屋が4つある。しかしそこへ至る通路はすべて閉じられ、事実他の誰の墓部として使われていない。

タージ・マハル墓廟には地下室がある。庭側入り口の脇には狭い階段があり、そこを下ると基壇内に造られ床は庭と同じ高さになる玄室がある。ここにはホールの真下にムムターズ・マハル本来の墓石が安置されている。ホールの墓石はあくまで象徴的な参拝用のものであった。なお、その横には同様にシャー・ジャハーンの本来の墓石がある。この地下室は閉じられていたが、現在[いつ?]は観光用に見学ができる。

モスクと集会所

墓廟を挟むモスクと集会場は、対称な形で向かい合い、いずれも赤砂岩づくりの外観である。しかし、内部は大きく異なる。モスクには礼拝のために聖地メッカの方向を示すアーチ形のミソラーブがあるのに対し、集会場の内部には迎賓などのための広い空間だけがある。このようなモスクや集会場がある霊廟は、他のムガル帝国廟にはない。

周囲

周囲にはムムターズ・マハルの侍女サティ・ウン・ニサー、シャー・ジャハーンの他の妃であったサルヒンディ・ベーガムやアクバラディ・ベーガムといった縁者の墓がある。

北側はヤムナー川に接し、かつてはアーグラ城塞から船でタージ・マハルの北から廟内に入っていたが、現在では訪問客は南から大楼門をくぐって訪れる。その南にはかつてはムムターズバード、今はタージ・ガンジーと呼ばれる街区があり、商業や宿泊施設などが広がっている。

タージ・マハルと対面するヤムナー川の北岸には、対応するように胸壁があり、この中央には楼台、左右には望楼が置かれ、これらの北にも庭園がある。

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東武ワールドスクエア・崇礼門

崇礼門(すうれいもん)は、大韓民国のソウル特別市中区南大門路4街29にある門である。一般に南大門(なんだいもん)の通称で知られる(写真7から13は現地にて撮影)。

2008年2月の放火により、花崗岩製の石造の門を除いた木造楼閣の大部分が焼失した。2010年2月10日から、2013年4月まで復元工事が行われ、同年5月4日に復元記念式典が行われた。

大韓民国の国宝第1号に指定されている。管理者はソウル市中区庁。

城壁都市であった当時の漢城(かんじょう)には門が4か所あったが、最も規模が大きいのはこの崇礼門である。一般的な懸板(扁額)が横書きであるのに対し、崇礼門の懸板は縦書きであるが、これは炎の形に似ている冠岳山からの火気を阻むため、文字を縦に書いて城門を塞ぐという風水的措置による。

ソウル二大市場のひとつ南大門市場は崇礼門を起点に広がっているが、その名称は崇礼門の通称である南大門に由来する。

歴史
1392年に李氏朝鮮を建て漢城に遷都した太祖・李成桂は、1395年に都の城門の建設に着手し、1398年に完成。南側の主要な門である崇礼門は、俗に南大門と呼称された。

世宗治世の1448年、および成宗治世の1479年に大きく改築され、冠岳山の火気を遮るようにと二階建てになった。讓寧大君が書いたとされる懸板は、火気を遮るために縦に書かれた。

その後、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)や丙子胡乱など幾多の戦乱を経るも、長い間、都の正門としての役割を果たしてきた。

大韓帝国時代の1907年、日本の皇太子嘉仁親王の行啓を機とする街路整備のため両側に続いていた城壁が撤去され、門だけが道路に孤立する形で残された。門の前に開業した京城駅(現在のソウル駅)は1905年から1922年の間「南大門駅」と呼ばれた。

日本統治時代(1910年 - 1945年) 、1925年から1926年にかけて門を挟むように、南に京城駅のレンガ駅舎、北に京城府庁舎(現在のソウル広場に建つソウル市庁舎)が建てられた。1934年、朝鮮総督府が、朝鮮の主要文化財を保護する目的で宝物第1号に指定した。

1948年の大韓民国建国後、朝鮮戦争ではソウルの大部分が破壊されたが、崇礼門は一部の損傷にとどまり焼失を免れた。破損した部分の大規模な解体、改修工事が1962年に行われた後、同年12月20日に改めて同国の「国宝第1号」に指定された。元々日本が勝手に決めた国宝であり、日本統治時代の烙印であるとして、韓国国内の一部には「国宝第1号」を朝鮮の文化的な「独立宣言」である訓民正音等に変えるべきであるとの意見もある。

ソウルで最古の木造建築であり同国の象徴のひとつともなっていたが、2008年2月の放火によって石造の城門を除いた大部分が焼失した。

門への立ち入り
韓国統監府による門周辺での路面電車(京城市電)軌道敷設に伴い立ち入り禁止となった様子を撮影した1907年の写真が残っているが、一方で派出所による警備や自由通行の様子を撮影した1910年の写真も残っている。朝鮮戦争後の1961年に大規模な補修工事が行われ、工事が終了した後、2006年まで門の立ち入りは禁止されたままで、大きな車道に阻まれて近づくことも困難であった。しかし2005年5月、門の南側に芝生の広場が造成されたのに伴って門間近までの観光客の訪問が可能となり、2006年3月3日からは門をくぐることもできるようになった。

また、ホームレスによる不法侵入は2005年以前から常態化しており、それを受けて、崇礼門を管理する中区庁は2005年に業者に警備を依頼した。しかし、警報を受けた警備員が現場に向かわないなどずさんな警備が浮き彫りとなった。

崇礼門放火事件

2008年2月10日20時40分(現地時間)ごろ、崇礼門で火災が発生し、石材部分を除く木造楼閣部分の大部分が焼失、崩壊した。

消防当局は5時間以上にわたる消火作業にもかかわらず崩壊を防ぐことができなかった。 消防当局は通報を受け、ポンプ車やはしご車など消防車32台と消防隊員128人を現場に向かわせ、消火作業に着手した。楼閣2階の屋根から発生した火により木材が焼け、周辺が白い煙で覆われたが、消防隊員らは「国宝第1号」という文化財の棄損を懸念し、積極的な消火作業を行えなかった。いったんは消火したと思われたが、初期消火の失敗から消え残った火が再び燃え広がり、全焼という事態に至った。

消防側は文化財庁に「消火は慎重にやってくれ」と言われ躊躇(ちゅうちょ)したと語るが、文化財庁側はそのような指示はしていないと語り、韓国メディアから責任のなすりつけ合いと批判された。また、焼け跡からライターが2本発見されている。国宝

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東武ワールドスクエア・世界遺産・景福宮

景福宮(けいふくきゅう、キョンボックン)は、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮。現在の大韓民国のソウル特別市にある(写真10と11の光化門は再訪問時(2008年)復元再建体工事中でした)。

李成桂により1395年に現在の大韓民国ソウル特別市鍾路区世宗路1-56に置かれた朝鮮王朝の王宮である。近代では、大日本帝国に併合された後に朝鮮総督府の庁舎が置かれた。

大韓民国が建国された後は、敷地の一部に大統領官邸(青瓦台=写真10から20は2008年に撮影)が置かれている。現在は景福宮の中心部に1867年に興宣大院君によって再建された勤政門や勤政殿などが現存し、建物の復元事業が行われている。

歴史

朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定。無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まった。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。

1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成した。その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失した。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失した。

その後は離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。

朝鮮王朝末期から日本占領時代

朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が再建し、1868年に国王の住居と政務を昌徳宮から移したが、1896年に高宗はロシア公使館へ逃げ込み、そこで政務を執るようになり(露館播遷)、宮殿には王が不在となった。その後正宮は1897年に慶運宮(徳寿宮の当時の名称)に、1907年に純宗の即位で昌徳宮に移る。

1910年、韓国併合条約により大韓帝国の統治が終了すると、王宮としての役割をなくした景福宮に代わり、朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が景福宮敷地で1912年から始まり、1925年に完成した。これらは日本時代に敷地内の建物の多くが破却された。

また光化門は正面から移設された。この結果、宮殿は正面から見えなくなった。李氏朝鮮以来の景福宮の景観変化と敷地への朝鮮総督府庁舎建設は独立後の韓国人にとって歴史的屈辱の象徴とされている。

現在

韓国独立後、景福宮内の旧朝鮮総督府庁舎は1986年から1995年まで博物館に利用されていたが、景福宮復元計画により賛否両論の中で1996年に解体された。現在は光化門を正門、勤政殿を正殿とし、それを結ぶ線に対して左右対称に建物が配置されている。これは北京の紫禁城などの様式を倣ったもので、儒教の思想や伝統にかなったものである。また中には優雅な庭園が配されており、宮殿の中にいながら山河に遊ぶことができるようになっている。

現在は宮殿北側にある部分が大韓民国大統領官邸(いわゆる青瓦台)に使用されている。光化門は1968年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたが、総督府庁舎があったため正確な位置ではなかった。そのため2006年に撤去され、2010年、正確な位置に復元された。景福宮は1990年から復元事業が行われており、2010年の光化門復元は第一次事業の最後を飾るものであった。

第一段階事業によって89棟が復元され、これは1865年再建当時の25%水準となる。第二次復元事業は2011年から始まり2030年に終える予定である。第二段階復元事業により379棟を復元し1865年再建当時の75%の水準を回復する。第一次復元事業では主だった建物が復元されたが、第二次復元事業では付属の建物の復元も進められる

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東武ワールドスクエア・雲崗石窟

雲崗石窟は、中華人民共和国山西省大同市の西方20キロメートルに所在する、東西1キロメートルにわたる約40窟の石窟寺院。「雲岡石窟」としてユネスコの世界遺産 (文化遺産) に登録されている。雲岡と表記する事も有る。

元は霊巌寺といい、現在では石仏寺などとも呼ばれる。北魏の沙門統である曇曜が文成帝に上奏して460年(和平元年)頃に、桑乾河の支流の武周川の断崖に開いた所謂「曇曜五窟」 (第16窟、第17窟、第18窟、第19窟、第20窟) に始まる。三武一宗の廃仏の第一回、太武帝の廃仏の後を受けた仏教復興事業のシンボル的存在が、この5窟の巨大な石仏であった。

その後も、第1・2窟、第3窟、第5・6窟、第7・8窟、第9・10窟、第11・12・13窟と大規模な石窟の造営が続けられ、雲岡期(460年-494年)と呼ばれる中国仏教彫刻史上の一時期を形成した。

様式上は、最初期の「曇曜五窟」には、ガンダーラやグプタ朝の様式の影響が色濃い。その後の石窟ではギリシア様式の唐草文様に代表される西方起源の意匠も凝らされており、当時の建築様式を模した装飾も豊富に見られる。しかし、洛陽へ遷都する494年以降の末期になると、初期の雄大な質感は姿を消し華奢で力強さの感じられない造形が増加する傾向が顕著となる。そして、この傾向の延長線上に、続く龍門期が待ち受けている。

また、その影響関係で言えば、雲岡の様式は涼州 (甘粛省) の石窟にその淵源を持つとも考えられるが、雲岡の影響は龍門・天龍山・南北の響堂山などの広範囲な石窟寺院に及んでいる。

世界遺産・高雄龍虎塔

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東武ワールドスクエア・世界遺産・高雄龍虎塔

蓮池潭(れんちたん)は、台湾の高雄市左営区にある人造湖。観光スポットになっている。

敷地内にある春秋閣は1951年に、龍虎塔は1976年に、建てられたという。

ワールドゲームズ2009では、幾つかのウォータースポーツ競技の会場となった(写真6から19は現地にて撮影)。

蓮池潭(リャンチータン)
「蓮池潭」は左營区内最大の池で、いくつかの中国らしい独特な建物が湖面に映り、ため息が出るほど神秘的な絶景をつくりだしています。
 池の南側には、色鮮やかな春秋閣、五里亭、龍虎塔などがあり、旅行ガイドブックなどにも載せられているため、毎日多くの観光客で賑わっています。

「蓮池潭」は左營区内最大の池で、いくつかの中国らしい独特な建物が湖面に映り、ため息が出るほど神秘的な絶景をつくりだしています。
 池の南側には、色鮮やかな春秋閣、五里亭、龍虎塔などがあり、旅行ガイドブックなどにも載せられているため、毎日多くの観光客で賑わっています。 カテゴリ みどころ
住所 高雄市左營區蓮潭路
アクセス KMRT紅線左營駅からタクシーで約7分
電話 07-588-3242 #231
営業時間 7:30-18:30 (入場料:無料)
定休日 年中無休

湖面に映る神秘的な絶景

高雄市の少しはずれ左營區にある「蓮池潭」は、周囲約5km、水域面積は約75ヘクタールと、区内最大の淡水湖です。昔は池の中にはたくさんの蓮の花が植えられており、夏の暑い時期になると、湖には蓮の花が満開となり、すがすがしいさわやかな香りが溢れ、とても美しい景色を見ることが出来たことから、「蓮花潭」とも呼ばれていました。

夕ぐれ時になれば、湖に建てられているいくつかの中国らしい独特な建物は、美しく湖面に映り、ため息が出るほど神秘的な絶景をつくりだしています。 池の南側には、色鮮やかな春秋閣、五里亭、龍虎塔などがあり、旅行ガイドブックなどでもよく載せられているため、毎日多くの観光客の方達で賑わっています。

みどころ案内●龍虎塔

蓮池潭の最南端にあり、1976年に建てられた龍と虎が大きな口を開けて待っている塔です。高雄へ来たら、ほとんどの人がまずはここを見に行くというほど人気スポットとなっています。龍と虎の塔はどちらも7層建てとなっており、仏家の七級浮屠を表しています。

 まずは右へ左へとくねくね何度も曲がりながらようやく龍と虎に近付きます。悪魔は真っ直ぐには歩けても、このように曲がりながら進むことは出来ないと言われていたことから、悪魔が入って来られないように、このようにくねくねとした入口となっているそうですよ。

 牙をむき出しに、大きく口を開けた龍と虎の中はそれぞれ空洞となって通る事ができ、さあどちらの口から入ろうかと悩んでしまいそうにもなりますが、それは迷ってはいけません。必ず左側の龍の口から入るのをお忘れなく!しかし、そればかり気にしなくても大丈夫ですよ。

入口直前では、間違えるなよと言わんばかりに、矢印で表示がありますので、それを見て進めば大丈夫です!台湾の考え方では、龍は最も善良な動物、虎は最も凶暴な動物とされており、この龍の口から入り、虎の口から出てくることにより、自分のこれまでの悪戯が清められ、出てきた時には気分もすっきり、さらには災いも消えて無くなっているのだそうですよ。

 龍と虎の中の空洞壁には、カラフルな色彩で中国独特の風格が表現されています。龍塔には、中国での孝行の模範とされている二十四孝子や、罪人が死後地獄へ行き十人の閻魔王から受ける審判と罰刑の図が描かれており、また、虎塔には、十二賢人や、天国の極楽生活を代表する玉皇大帝の三十六宮将図が描かれているのです
 まずは龍の中を通り、七層建ての塔へ登ってみましょう。塔の中央には螺旋階段があり、階段部分の天井にも色鮮やかな模様が施され、観光客を飽きさせません。塔の上からは、湖が一望でき、とても気持ちの良い風を感じることも出来ます。

さっき歩いてきたくねくね道も綺麗に見ることが出来ますよ。再度1階へ戻り、今度は虎側へ進みましょう。虎塔へも上がっていくことも出来ますが、ほとんどの人はすでに足が疲れ気味・・・、なかなか虎塔へも上がる人は少ないようですね。まだまだ体力が有り余っている方はぜひ虎塔へもチャレンジしてみてくださいね。そして、今度は虎の中を通り、出口へと出てきます。さあ、また新しくなった素晴らしい人生の始まりかもしれませんよ!

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