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日光江戸村

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死刑あれこれ

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死刑(死罪)

ただ殺すだけではすまない、江戸時代の死刑あれこれ。

現在の日本の死刑といえば、絞首刑のことをさす。しかし、この絞首刑が取り入れられたのは明治以降であるため、江戸時代には絞首刑という刑罰は存在しなかった。では、江戸時代の死刑はどのように行われていたのだろうか。じつは、江戸時代の死刑をひと言で説明するのはむずかしい。なぜなら、江戸時代の死刑は現在のように一種類だけではなく、何種類もあったからである。
そのなかから、罪人の罪の重さに応じて、死刑方法が選ばれたのだ。

たとえば、もっともおだやかな死刑は「下手人」と呼ばれるもので、斬首の刑に処された。
これが「死罪」という死刑になると、斬首のあとの試し斬りが追加される。
また「磔刑(たつけい)」という死刑では、町中を引きずりまわされたあと、十字架に体を縛りつけられ、左右から槍で突かれて絶命させられた。

そんななか、もっとも残酷だと思われる死刑は「鋸挽(のこびき)」と呼ばれるものだった。
日本においても戦国〜江戸期に成文化されたことがある。わが国における鋸挽きは頚部切断であるケースが多く、また江戸時代以降の近世においては形式上の付加刑であった場合が殆どで、実際に鋸で頚部切断を執行した例は中世〜戦国乱世期である。

江戸期以前においては罪人を埋めてから鋸でひき殺し、そのまま4, 5日晒した。受刑者の苦痛を増幅させるため鋸には切れ味の悪い物や木製竹製の物が用いられることがあった。織田信長を狙撃した杉谷善住坊が、これで処刑されている。

江戸期においては尊属殺や主殺しの重大犯罪に対して行われた。鋸挽きの刑に処すと決まった者は、市中を引き回された後、首から下を埋められ首が地上に出る状態にして晒し者にされた。受刑者の首の側には鋸が置かれた。本来の規定では通行人等が自由に鋸を引いて良いという事になっていたが、実際には引かれることは滅多になかった。その後、受刑者は磔により絶命させられ、数日間晒し物とされた。つまり、江戸期の法制における鋸挽きは死刑に対する付加刑であり、晒し刑の変形であったといえる。

明治期に至っても、一部では私刑のような状態で行われていたらしい。明治中期、北海道新十津川町で、樺戸の監獄から脱獄したものの捕らえられた囚人が、見せしめとして橋のたもとに埋められ、鋸挽きに処せられていたとの証言がある。

また、これらの死刑は江戸中期以降、世の中が比較的平和な時代の方法であり、それ以前はさらに残酷な死刑が横行していた。たとえば、釜に罪人を入れて下から熱する「釜煎(かまいり)」や釜のなかで煮殺す「釜茹(かまゆで)」、それぞれの足を二頭の牛に反対方向へ引かせて体を引き裂く「牛裂」、牛の代わりに車を使う「車裂」、ムシロで体を巻いて水中に投げ込み溺れさせる「簀巻(すまき)などがあった。

絞首刑(こうしゅけい) 絞首刑は囚人の首を絞めることによって死に至らしめる刑。絞首と縊首は厳密には違う事だが、現在、絞首刑の規定されている国において一般的に行われているのは、縊首により縊死に至らしめる方法である。歴史的には純粋な絞首による処刑も行われており、その為の装置も作られている。一般的には、囚人の首に縄を掛け、または穴のあいた板に首を通し、高所より吊るす刑。絞首台が使用される。 また、首にかけた縄をねじって絞首する方法も用いられた。受刑者は縄によって頚動脈がふさがれて脳への血流を阻害(縊死)され、または気道が塞がれて呼吸ができなくなる(窒息死)。現在の日本で行われている処刑方法でもある(刑法第11条第1項「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。」)。 イギリス式は縄の結び目をあごに掛けるので、落ちたときに、てこの原理で頚椎を骨折させる効果がある。現在の日本の処刑はイギリス式同様に頚椎を骨折させ即死効果を狙っていると言われている。縛り首(しばりくび)ともいう[1]。イスラム諸国では、地上で首に縄をかけ、クレーンで吊り上げる。 アメリカでは、1862年のクリスマスの翌日に、ミネソタ州で38人のダコタ・スー族インディアンが特別誂えの絞首台で同時執行され、最大数の絞首記録として残っている。これはエイブラハム・リンカーン大統領の署名によって執行された。

斬首刑(ざんしゅけい)
囚人の首を切り落とす刑。実際に切り落とす方法はいろいろで、江戸期日本の下手人・死罪・獄門では当番同心(または山田浅右衛門)が日本刀を用い、中世ヨーロッパでは死刑執行人が両刃の斬首刀を用い、立ったまま、あるいは中腰にさせて斬首する場合と、樹から逆さ吊りにして斬首する方法があった。古代中国やイギリスでは斧が用いられた。また古代ローマでは、首をはねる前に罪人を鞭で打った(鞭で打ち殺した後に首をはねることもあった)。 斬首刑は基本的に苦しみを与えない処刑法であり、また不可触賤民である処刑人に触れられずに死ねる、ヨーロッパでは貴族にのみ許された名誉ある処刑法である。平民に対する処刑法は、恥辱を伴う絞首刑だった。しかし、立ったまま、あるいは中腰の受刑者の首を刎ねるという手法は、執行吏の熟練と技術、体力を必要とし、その腕前によっては失敗し、首が落ちるまで何度も斬りつける羽目になるなどの危険も高かった。切り損ねで受刑者を無駄に苦しめた場合、群衆の怒りを買って殺された処刑人も記録に残っている。

牢屋敷

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江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設である。

所在地は日本橋小伝馬町(現在の日比谷線小伝馬町駅周辺)一帯に設置され、2618坪(約8639平方メートル)の広さがあった。

常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。

周辺は土手で囲まれ、堀が巡らされており、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。

高野長英や吉田松陰らも収容されていた。

牢屋敷内の構成

牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は大番衆の石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人〜80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理が行われていた。

囚人を収容する牢獄は東牢と西牢で分けられ、また身分によって収容される牢獄が区別されており、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏が収容されていた。

また独立の牢獄として揚座敷が天和3年(1683年)に設けられ、御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容するため、ほかの牢より設備は良かったようである。

大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者による有宿者(人別帳に記載されている者)への悪影響を避けるため、宝暦5年(1755年)に東牢には有宿者、西牢には無宿者を収容し、安永5年(1775年)には独立して百姓牢が設けられた。

女性は身分の区別なく西の揚屋に収容された(女牢)。

収容者の総数は大体300〜400人程度だったようである。

牢内の慣習

牢内は囚人による完全自治制が敷かれており、牢屋役人ですら権限の及ばない世界であった。

また、幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれており、平囚人には牢内で体を伸ばす権利すら与えられていなかった。

食事は1日朝夕の2度。玄米5合(女性は3合)と汁物が支給された。漬物は牢内でこしらえていた。

牢内の人員が増え、生活するのに支障をきたすようになると「作造り」と称する殺人が行われた。主に牢内の規律を乱す者、元岡っ引や目明し、いびきのうるさい者、牢外からの金品による差し入れのない者などが標的にされた。暗殺後は「病気で死にました」と届け出て、特に咎めが来ることはなかった。

牢獄には窓がなかったため、風通しも悪く日光も入ってこなかった。栄養状態も悪くトイレも牢内にあったため、内部の環境は非常に劣悪であった。医師はいたが、いい加減な診察しか行わなかったため、飛び火や疥癬を主とする皮膚病に罹患する者が後を絶たず、主人や親を傷つけた者(逆罪)以外で体を壊した者は溜に収容された。

使い捨ての武器

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手裏剣は、武器の一種で、小形の刀剣・針様などの形状を持つ武器である。しばしば忍者の主要武器として喧伝される。敵の戦闘力を減退させるため相手に打って使用される。投剣、手裡剣、打剣、撃剣、修理剣、修利剣、手離剣、削闘剣、流星、花ち弁ともいわれる。

敵に武器を投げつけて、傷つけたり、自分の危難を逃れようとする技法は古くからあったが、その際に使う武器は飛礫(つぶて)や短刀、打根、打矢、針などだった。

使い捨ての武器としては短刀や打根はやや高価で連続使用に難があり、打矢は携帯するにはかさばり、針は安価だが威力に乏しい。そういった欠点のない投げ捨て専用の手頃な武器としての手裏剣が、現代に連なる形態で登場したのは室町時代末期である。また、形状だけではなく、手裏剣という語自体の登場もこの時代とされる。

裏の字にはウラとウチの両方の意味合いがあり、手裏剣の裏とは「オモテ/ウラ」のウラではなく、内裏の語に見られるような「ソト/ウチ」のウチと解するべきである。手の内に隠されたその剣は、手を離れて敵を伐つ剣、との意味から、時には手離剣とも表記された。

手裏剣の術は、時には武芸十八般に含まれることもあるが、剣術などと異なり、毒を使った暗殺術に使えるため、あまり表立って行う武芸としての隆盛を見たものではなかった。

手近な投擲物で代用できるその技術は、現代においても護身の目的で使用し得るものである。ただし現在の日本においては、自分で用意していた殺傷用武器の護身使用は「正当防衛」にはならない可能性が高く、またこれを用いて暴漢等を殺害した場合「未必の故意による殺人罪」もしくは「傷害致死罪」の適用となる可能性がある。また、手裏剣は所持しているだけで銃砲弾刀剣類所持所持等取締法もしくは軽犯罪法に抵触する可能性がある。

なお日本刀のうち、打刀や脇差の刀装具として鞘に格納される小柄(こづか)や笄(こうがい)を、緊急時に手裏剣として用いる描写が時代劇によくある。これについて、小柄は日用の刃物として用いる片刃のナイフ、笄は髪などを整えるヘラであり、高価な上に手裏剣のように重心調整がなされていないため打剣するのは非実用的であるとする批判が広く知られているが、手裏剣に熟達した者には何ら問題なく手裏剣の代用として用いることが可能であり、誤りとはいえない。

形状
手裏剣には大きく分けて留手裏剣と責手裏剣の種類がある。留手裏剣は忍者専用の忍手裏剣、静定剣、乱定剣がある。手裏剣の大半は忍手裏剣で細かく分けて平型手裏剣(風車型手裏剣)と棒手裏剣の2種類がある。平型手裏剣(風車型手裏剣)は十字形の鉄板に刃をつけたもの、棒手裏剣は鉄でできた小棒の片方または両方をとがらせたものである。静定剣は短刀等を手裏剣代わりに使う技で、乱定剣は緊急にその場をしのぐための技で、ちゃぶ台返し等がある。責手裏剣は匕首等に毒を塗って相手を殺傷することを目的としており、火勢剣、薬剣、毒剣がある。

平型手裏剣(風車型手裏剣)は投擲時の回転により飛行が安定するため、比較的短期の修練によって命中精度が向上するといわれる。その一方回転音があって相手に勘付かれやすい、携行に不便、などの欠点がある。また、対象に深く突き刺さるわけではないため殺傷力が不十分なこともあり、刃に毒物を塗布することでその欠点を補完することがある。この用途の場合、刃に銅合金を用いることもある。放射状に突出した剣の数により三方剣、四方剣(十字剣)、卍字剣、五方剣、六方剣、八方剣、十方剣、三光剣、糸巻剣、鉄環型手裏剣、折畳十字手裏剣、組合十字手裏剣、車剣、火車剣、鉄毯などがある。

一般に、またメディアにおいて、「手裏剣」と言うと車剣のイメージが強いが、これはその形状が想像力を強く喚起するためと言えよう。また、折り紙における手裏剣もこの形状である。

棒手裏剣は単純な形状の武器ではあるが、流派によって長さや重心などに様々なバリエーションがある。携行、殺傷力、投擲音のなさなど平型手裏剣(風車型手裏剣)の欠点を克服しているが、より高度な投擲技術が必要である。携行を容易にするため、両端を刃とする2本の棒手裏剣を中央でハサミのように留め、携行時は閉じて棒状、使用時は開いて十字にする、という形式も見られる。根岸流は前重心の、重めの手裏剣を使うが、これは剣の飛行を安定させるとともに威力を追求しているらしい。針型手裏剣(火箸型手裏剣)、筆型手裏剣(槍穂型手裏剣)、短刀型手裏剣、独鈷型、平板型、楔型、丸棒型、切出型などがある。

矢じりの形の手裏剣「鏢」(中国式ともいわれる)や、異常に重たい巨大な手裏剣も存在し、術者しだいで様々なものが「手裏剣」に変化する。

テレビから生まれた手裏剣
「卍」型の手裏剣は、テレビ時代劇『隠密剣士』で、同作のプロデューサー西村俊一が、忍者の小道具として発案したものである。その形状も、「先が尖っていては危ないから卍にした」というもので、西村は「後から出てきた番組などで、さもそういう物が昔本当にあったように描かれたものが多くて、おかしなことだなと思って観ていました」とコメントしている[1]。

打法
手裏剣は「投げる」ではなく「打つ」というが、聞き慣れないことから小説などでは作者の配慮で「投げる」と表記されることもある。また、「手裏剣を打つ」ことを打剣ともいう。たとえば棒手裏剣の場合、打剣の方法は大きく分けて3種類ある。
直打法 尖端が上を向くように構える。手から離れた後、尖端がそのまま的を指向して飛翔する投擲法。まっすぐ飛ぶわけではなく、剣で切りつけるように弧を描いて飛翔する。 反転打法(半転打法) 尖端を逆にして持った状態から、「打つ」瞬間に剣を反転させ、「直打法」のように飛翔する投擲法。反転させながら打つが、回転させるわけではない。 回転打法 手から離れた後、回転して的に刺さる投擲法。 これは車剣や西洋のナイフ投げなどに多くみられる投擲方法で、車剣の投擲では剣に回転を与える動作が必要とされる。回転による威力、刺中率の増加などを図った多回転方式である。大型の十字剣(四方剣)の場合、1本の剣を握り、他の1本の剣に指をかけ、腕を打ちおろすように剣を打つことで回転を与える、などの投擲法がある。 一方、ナイフ投げの場合は、対象との距離により、投げ出す速度と回転の掛け具合を変えて、刺中させる打法となる。 日本の手裏剣術の場合、「直打法」が最も基本的な打剣方法だが、世界的にみれば特異な技術である。4
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

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花魁道中は、花魁が禿や振袖新造などを引き連れて揚屋や引手茶屋まで練り歩くこと。今日でも歌舞伎や各地の祭りの催し物として再現されることがある。

関連用語
 
忘八(ぼうはち) 遊女屋の当主。仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠の8つの「徳」を忘れたものとされていた。

禿(かむろ) 花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である。

番頭新造(ばんとう しんぞう)
器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。ひそかに客を取ることもあった。「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。

振袖新造(ふりそで しんぞう)
15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。

留袖新造(とめそで しんぞう)
振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。
振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。しかし、まだ一人立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。

太鼓新造(たいこ しんぞう)
遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。後の吉原芸者の前身のひとつ。

遣手(やりて)
遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役。誤解されがちだが当主の妻(内儀)とは別であり、あくまでも従業員。難しい役どころのため年季を勤め上げた遊女や、番頭新造のなかから優秀な者が選ばれた。店にひとりとは限らなかった。

廓詞(くるわ ことば)
遊女達は全国から集められており、訛りを隠すために「 - ありんす」など独特の言葉を使っていた。廓詞は揚屋によって異なっていた。里詞、花魁詞、ありんす詞とも。

三枚歯下駄(さんまいば げた)
花魁が履く黒塗りの下駄。重いこともあって、普通に歩くことが出来ないため、吉原の「外八文字」、嶋原の「内八文字」などと呼ばれる独特の歩き方をした。きちんと八文字で歩けるようになるには3年かかったともいわれる。

八文字(はちもんじ)
花魁の道中での歩き方。「内八文字」(嶋原・新町)は、踏み出す足が内側を回り、「外八文字」(吉原)は外側を回る。

伊達兵庫(だて ひょうご)
花魁の格式に相応した壮麗絢爛な髪型。横兵庫の派生形。文金高島田の髷を大きく左右に張り、そこに松や琴柱をあしらった簪を左右に計六本、珊瑚大玉の簪を二本、鼈甲の櫛を三枚挿したもの。歌舞伎『助六由縁江戸櫻』の三浦屋揚巻や『壇浦兜軍記』の阿古屋に見ることができる。

身請(みうけ)
花魁に限らないが、客が遊女の身代金や借金を支払って勤めを終えさせること。大見世の花魁では数千両[3]にものぼったという。

吉原細見(よしわら さいけん)
郭ごとに遊女の名を記したガイドブック。当時のベストセラーの一つであったといわれる。 二階回し (にかいまわし) 遊郭で、遊女と客が寝る部屋の全般を取り仕切る役の人。遊女が特別な用事が無い時に部屋を抜け出した事が分かると、部屋へ連れ戻す事も役目の一つ。

廻し部屋(まわしべや)
一晩に2人以上の客の相手をするような、位の高くない遊女のいる部屋。

有名な花魁
薄雲太夫(江戸吉原)
高尾太夫(江戸吉原)

外八文字と内八文字

■内八文字(うちはちもんじ) 京都の道中は、内八文字という歩行方法でした。
外側に足を踏み出す外八文字と異なり、内側に足を踏み出す方法です。
江戸吉原においても、元吉原〜明暦の頃までは内八文字を行っていました。

■外八文字(そとはちもんじ) 明暦の頃出現した勝山という遊女が行ったのが始めといわれています。
伝承によるとかなり男勝りの人物であったらしく、それまでおしとやかに内側に踏み出していた八文字の足を外側に踏み出し、かなり大胆な歩き方で評判をとったとあります。

外八文字
■歩行方法

基本の外八文字です。外を回って、足が地面に八の字の形で置かれることから、「八文字」の名がついたと言われています。
内文字は逆に内を回ります。
図は基本の足運びです。これに下駄の運びなどの装飾的な動きが加わるようです。
腰を落とし、かなり足を開いて踏み出すので、時には素足が見えることもあったようです。
高下駄を履いての外八文字にはかなり修練が必要で、美しく八文字を踏めるようになるまで三年かかると言われるほどでした。
道中で躓いたり、下駄を外したりすることは大変な恥とされ、下駄を外してしまった遊女は、茶屋についたら大盤振る舞いをしなくてはいけなかったそうです。

■外八文字の変化
現在、歴史関係の催し物で行われている外八文字は、かなり装飾過剰で、当時のものとはかなり異なっています。
天保年間あたりから、基本の外八文字の習慣が崩れだし、次第に現在の外八文字に変化していったと言われています。
私見ですが、道中の形態などもかなりの変化があるようで、芝居などの過剰演出が逆に本来の習慣を変化させていったのでは…と考えています。

花魁道中

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花魁道中って、何の為にどんな意味合いで行ってたのですか?

吉原風俗を代表する「花魁道中」は、もともと客に呼ばれて遊女が揚屋(あげや)入りすることをいい、
遊女が花魁と呼ばれる宝暦(1751〜64)以前からずっと行われていました。
揚屋とは、宝暦頃まで存在した客と遊女の遊びを取り持つ見世のことで宝暦以後は引手茶屋へとかわっていきます。

この「道中」という言葉について『吉原大全』は、「道中といふ事は、女郎揚屋又は中の町へ出るをいふ。

たとえば江戸丁の女郎京屋へ至り、京丁の女郎江戸屋へ出るなど、各々遠方へ旅立をする心持に比して、道中の名ここに起る」と記しており、遊女の一行が、江戸(町)からも京(町)からもやってくることを、東海道の上り下りに擬して「道中」と呼び慣わしたものだそうです。

自分専用の寝具や、着替え、客の接待用具など、いってみれば、旅行に行くような大荷物を運びますので、「道中」なんですね。「道中」手形とか東海「道中」膝栗毛などにも見られるます。

吉原の場合、「おはぐろどぶ」という堀に囲まれたたて245m・横328m、20,760坪の世界です。外八文字で這うように歩いてもたかが知れています。中央通のすぐ右側にある七軒が高級な茶屋(揚屋)で、「七軒茶屋」と呼ばれていたそうです。

花魁道中はいわば、ファッションショーのようなものだったそうです。手の届かない庶民に自分の美しさを誇る為に、今で言うモンローウォークで見せびらかすのです。

また、プライドの塊だったそうですし、気に入らない客は断ることもあるくらいですから、呼ばれてホイホイ出かけていっては舐められてしまいます。
上客といえども、わざとゆっくり歩いて、焦らすのも目的ではないでしょうか。

道中の時刻は点灯頃からで、先頭に若い者が箱提灯を持って歩き、次に二人の禿(花魁見習い雑用の稚児)が行き、禿の次に主人公の花魁が外八文字(そとはちもんじ)を踏みながら歩を進め、
そのあとに二人の新造がついて行きます。
この他、遣手(世話役)が道中に加わることもあったといいます。
出典・花魁道中に関するQ&A-Yahoo!知恵袋・ベストアンサーに選ばれた回答frogman03544さん。

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