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兵庫県姫路市は18日、平成の大修理中の国宝・姫路城の最上層(6階)で、壁の中に塗り込められた窓枠が計8個見つかったと発表した。現状では南・北各面に5個、東・西各面に3個と計16個の窓があるが、新たに各面で2個ずつ確認した。使った跡はなく、築城中に計画を変更したらしい。専門家は「大地震に備えて強度を高めたのではないか」などと推測している。
“幻の窓”は各面の角側にあった。窓の敷居や鴨居(かもい)が、外側は土などで塗り固められ、内側には板壁がはめ込まれていた。高さ1.5メートル、幅1.6メートルで引き違い式と、他の窓と同じ形状だった。敷居は後から取り付けられないことから、24個の窓を設置する設計で着工し、大天守の骨格がほぼ完成したころに16個に変更したと考えられる。
現在の姫路城は、池田輝政が1601〜09年に築いた。姫路城大天守保存修理検討会長の多淵敏樹・神戸大名誉教授(日本建築史)は、1605年に起きた慶長大地震に注目、「築城中の姫路城も揺れたはずで、急きょ計画を変更したのではないか。四隅の窓を壁にしたことで今も6階の耐震性は確保されている」と指摘する。
窓を復元するとほぼ360度の眺望が確保できるが、市は復元せず大修理前の状態に戻す予定だ。【渕脇直樹】
毎日新聞 11月19日(土)から。
姫路城は、兵庫県姫路市(播磨国飾東郡姫路)にあった城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、ユネスコの世界遺産や日本国の特別史跡となっている。日本さくら名所100選に選定されている。
姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山に築かれた平山城である。日本における近世城郭の代表的な遺構である。
この歴史は中世に赤松氏が姫山に城を築いたことから始まる(異説もある)。戦国時代後期には羽柴秀吉が居城し、江戸時代には姫路藩の藩庁として最初は池田氏、のち本多氏や酒井氏などの譜代大名が入城した。明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第十連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、大小天守群、櫓群が当時の陸軍省の働きかけによって名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられ、太平洋戦争においては空襲に見舞われたものの、天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となるという幸運もあり奇跡的に焼失を免れた。
天守が国宝指定された所謂『国宝四城』の一つであり、近世以前の建造物が多数現存する。そのうち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993年(平成5年)、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
江戸時代や戦国時代を舞台とした時代劇を始めとして映画などのロケが行われることも多く、しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されてい。
名称の由来と別名
姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。
別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来は以下のような説が挙げられている。
姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
黒い壁から「烏城」とも呼ばれる岡山城との対比から。
白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもあるが、日本の城郭の異称は音読みするのが普通である。
他にも以下のような別名がある。
出世城 羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる。 不戦の城 幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃しているものの築城されてから一度も大規模な戦火にさらされる事も甚大な被害も無かったことから。
姫路城の築城者は南北朝時代・1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範とする説が有力であり、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代は砦と呼ぶべき小規模なもので、「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もある。
安土桃山時代、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城には黒田氏や羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城主として入り、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる城郭に改修された。輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので担当する大名が頻繁に交替している。池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた酒井忠邦まで約270年間、6氏31代の城主によって治められた。
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