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世界遺産(中尊寺)

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中尊寺月見坂入り口から、地下道または横断歩道を渡ってすぐのおやすみ処です。2階「レストラン源」・1階「フードコート門」のレストランと大ショッピングコーナーがあります。

漆器等の地元の伝統工芸品や県内の名産品等を揃えるおみやげ処

大型駐車場(大型バス50台・乗用車200台)を備えたおみやげ処。漆器や鉄器などの地元の伝統工芸品をはじめ、岩手県内各地の名産品などを幅広く揃えている。実演販売もある。


中尊寺門前 平泉レストハウスの基本情報

店名
平泉・中尊寺門前 平泉レストハウス

住所
〒029-4102 西磐井郡平泉町平泉字坂下10-7

最寄り駅
東北本線 平泉駅

道順
徒歩20分 前沢ジャスコ行きバス中尊寺バス停から5分

電話
0191-46-2011

FAX
0191-46-2088

営業時間
08:40〜17:00
12月〜3月9:00〜16:00(要確認)

定休日
年中無休(12月〜3月は要確認)

クレジットカード
利用可

利用できるクレジットカード
visa master DC diners AMEX nicos etc.

お店のURL
http://www.hiraizumi2011.jp/

街のお店情報
http://hotpepper.omisenomikata.jp/shop/5044066/

その他
売店コーナーでは、平泉名物「ささきの三色手焼きせんべい」はもちろん、岩手の御土産品を多数取り揃えております。

また「萩の月」「伊達の牛タン本舗」松かま「むう」「かんのやの家伝ゆべし」といった東北の土産品も取り揃えております。

1階レストラン「フードコート門(110名様収容)」では、名物もち料理はもちろん!そば・ラーメン・丼物・定食といった手作りお手軽メニューをお楽しみ頂けます。お肉は、岩手のブランド豚「白金豚」を使用。

いわて地産地消レストラン!2階レストラン「レストラン源(50名様収容)」!名物「もち料理」「前沢牛」料理をお楽しみ頂けます。

団体・グループ様向けレストラン

御予約専用です
売店2階レストラン 束稲たばしね(360名様収容)

本館2階レストラン みやこわすれ(360名様収容)

文化史館併設
別館食堂(400名様収容)

本館1階和室
芭 蕉(80名様収容)イス・テーブル席にしました。

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岩手四大戦役の碑

阿弖流為の役

アテルイ(? - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。

史料にみるアテルイ

アテルイは、史料で2回現れる。一つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。

前九年の役

前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役である。この戦いの結果、安倍氏が滅び、清原氏が東北の覇者となった。

この戦役は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』『愚管抄』『古今著聞集』などにはその名称で記されている。ところが、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。これは源頼義が本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、「奥州十二年合戦」が「後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解され、12年から3年を引き、前段について「前九年の役」と呼ぶようになったなどの説がある。また戦乱を13年間としている書物もあり、年数計算については諸説ある。

さらに、「役」の表現には「文永の役」「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。また、今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。

後三年の役

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、東北地方に覇を唱えていた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。

11世紀、東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という強大な豪族が勢力を誇っていた。しかし陸奥国の安倍氏は陸奥国司と対立し、1062年(康平5年)に前九年の役と呼ばれる12年間の戦いの末に滅び去った。この時、戦役の最終局面で参戦して国司側戦勝の原動力となったのが、清原氏の清原武則である。

その後、1083年(永保3年)に後三年の役が始まるまでの東北地方の政治状況ははっきりしないが、清原氏の当主の座は前九年の役当時の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、武則を経て武則の息子の武貞、さらにその嫡子の真衡へと継承されていた。

武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻を自らの妻としていた。この女性は前九年の役で戦死した安倍氏の当主、安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた息子がいた。この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞とその女性の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。

奥州平泉の役

奥州合戦は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。

鎌倉側の兵力動員に関わる古文書の多くはこの戦争を奥入、奥入り(おくいり)と呼んでおり、奥州追討(おうしゅうついとう)、奥州合戦と記した文書もある。鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』は奥州征伐(おうしゅうせいばつ)とするが、奥州合戦と記す箇所もある。

明治以降の歴史学では『吾妻鏡』を踏襲して奥州征伐と呼ばれていた。1978年(昭和53年)に歴史学者の入間田宣夫が、鎌倉幕府の側に立った呼び方を問題視し、当時の様々な呼び方のうち「奥州合戦」がどちらがわにも偏らないとして、「文治五年奥州合戦」という呼び方を提唱した。これにより、20世紀末までにほぼ「奥州合戦」が用語として定着し


棚瀬軍之佐(さくらいぐんのすけ)写真9→11

憲政会(総裁加藤高明)の党員で、大正8年12月に
憲政会幹部として選出されている。

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平泉世界遺産巡り・中尊寺「平泉文化史館」

平安朝様式の建物。平泉文化の歴史上における意義を正しく理解できるように、「縄文期の生活」に始まり、平安時代の藤原文化を経て、江戸時代に至るまでを模型や人形などを使ってわかりやすく展示している平泉の栄華と伊達時代の平泉を紹介する私設博物館。

黄金の仏都・平泉の栄華と伊達時代の平泉を紹介する中尊寺表玄関の資料館です。

東大名誉教授・藤島亥治郎氏がライフワークとした学術調査に基づき復元した毛越寺・無量光院・二階大堂の模型出資資料、絵図など数多くの貴重な文化財を展示しております。

岩手県西磐井郡平泉町平泉坂下10−7

0191-46-2011

通年 無休(冬期は臨時休あり、年末年始休)

9:00〜15:30(閉館16:00)

JR東北本線平泉駅から岩手県交通イオン前沢行きバスで5分、中尊寺前下車すぐ

駐車場あり(無料)
GW、盆時期、年末年始のみ有料、400円

入場料
大人310円、
高校生150円、
小・中学生100円

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薬師堂は案内板によると「この薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。

その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。

堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されております。

また薬師如来の分身または化身とも言われる十二神将が併置されているのは中尊寺山内の薬師堂としては当座しかありません。・・・(中略)この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心にさかんに行われました。

特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。またこの御堂には子安地蔵が安置されている。

その由来は出産や育児のための信仰で、神道では木花咲耶媛を祭神としている神仏習合で、子安観音が祀られている。」とあります。
出典・薬師堂(中尊寺) - 岩手県の町並みと歴史建築百科事典。

御本尊 薬師如来
薬師如来 (やくしにょらい)、あるいは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は、大乗仏教における如来の一尊。大医王仏とも称する。

薬師如来が説かれている代表的な経典は、永徽元年(650年)の玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(薬師経)と、景竜元年(707年)の義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(七仏薬師経)であるが、そのほかに建武〜永昌年間(317〜322年)の帛尸梨密多羅訳、大明元年(457年)の慧簡訳、大業11年(615年)の達磨笈多訳が知られている。

薬師本願功徳経では、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説かれる。

瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として、如来には珍しく現世利益信仰を集める。

密教との関係

密教経典としては「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」「薬師七仏供養儀軌如意王経」等がある。

薬師経に説かれていることから、真言宗(東密)では顕教系の如来とされ、本来あまり重視されない。

ただし、「覚禅抄(東密)」において胎蔵大日如来と同体と説かれている。雑密系の別尊曼荼羅では中尊となる事も多いが、純密の両界曼荼羅にはみられない。

一方で伝統的に皇室と結びつきが強かった天台宗(台密)では、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の帝たる天皇と結び付けられもした。

「阿裟縛抄(台密)」で釈迦如来・大日如来と一体とされているが、顕教での妙法蓮華経に説かれる久遠実成の釈迦如来=密教の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方による。

東方の如来という事から五智如来の阿閦如来とも同一視される。

チベット仏教(蔵密)でもよく信仰されており、しばしばチベット僧により日本でも灌頂(かんちょう)が執り行われる。

像容

像容は、立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例である。

ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たないものも多い。

これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられている。

単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。

また、眷属として十二神将像をともに安置することが多い。薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容がある。

これは七仏薬師といって薬師如来とその化身仏とされる。

薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられている。

国分寺のほとんどは現在は薬師如来を本尊としている。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

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阿弥陀堂(写真1)

中尊寺阿弥陀堂。中尊寺の阿弥陀堂は縁結びの御利益があるとされ、多くの若い女性が御札を結びつけていた。

春になるとお堂の後ろの竹林が生い茂り、左脇には桜が咲き阿弥陀堂をより一層引き立てる。

阿弥陀堂とは阿弥陀仏を本尊にもつお堂の総称です。また阿弥陀仏とは大乗仏教における諸仏のなかでもっとも代表的で重要な仏様です。阿弥陀如来(にょらい)ともいい「無限の光をもつもの」、「無限の寿命をもつもの」の意味を持ちます。

人々が死後行 くという極楽浄土を支配する仏様で、極楽往生を 願って南無阿弥陀仏と唱えれば必ず極楽へ行けると説いた浄土宗、浄土真宗の本尊となっています。なお「南無阿弥陀仏」の念仏は「阿弥陀仏さまにおまかせします」とか「阿弥陀さまに帰依・帰順します」という意味。


弁財天堂

中尊寺の弁財天堂。桜の花がとても綺麗な事でも知られます。

弁財天堂は金色堂の丁度向い側にあたり、茅葺の寄棟造りの屋根で間口3間の建物です。

弁財天を祀っている場所にふさわしく廻りを池で囲まれた小島の上に建立され、基礎束が高くなり湿気から護ると同時に印象深い容姿になっています。案内板によると「当堂は宝永2年伊達家寄進の堂宇にて弁財天十五童子像を安置す。

弁財天はインドの薩羅我底河より生じたる神にて水に縁深く池、河の辺に祀られる。又、妙音天とも称し河水の流るる響の如く能弁にして悩める衆生を救い悦ばしむる。・・・(後略)」とあります。

弁財天(弁才天)は七福神に登場し琵琶を弾く妖艷な姿で現される女神様。弁天様とも呼ばれる。福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されているが才が財に通じることから財福をもたらす女神様としても信仰されている。

なお元々はインドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多い。
説明文出典・中尊寺 旅行記「境内の光景」より。

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