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ボホール島

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ボホール島の夕焼け

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夕焼けは、日没の頃、西の地平線に近い空が赤く見える現象のこと。日の出の頃に東の空が同様に見えるのは“朝焼け”という。夕焼けの状態の空を夕焼け空、夕焼けで赤く染まった雲を“夕焼け雲”と称する。

原理と現象

光は一般に、その固有波長が障害物よりも大きければ通過しやすい傾向にあり、この現象はレイリー散乱と呼ばれる。日中は長波長(約700nm)の赤色光などは大気中を直線的に通過し、観察者の視野には光源である太陽の見た目の大きさの範囲に収まってしまう。一方短波長(約470nm)の青色光は大気の熱的ゆらぎにより散乱するため空は青く見える。しかしながら夕方になると光線の入射角が浅くなり、大気層を通過する距離が伸びる。すると青色光は障害物に衝突する頻度が増し、かえって吸収されるなどの要因から地表に到達しにくくなる。代わって黄(約580nm)、橙(約610nm)、赤などの長波長光線が散乱され、太陽が沈む方向の空が赤く見えることになる。

1883年、世界中で鮮やかな夕焼けが確認された。これはクラカタウ火山の噴火により大気中に障害物が撒き散らされたためである。

非常に稀だが、見通しの良い場所で、夕焼けや朝焼けの太陽の上端が緑色に光るグリーンフラッシュという現象がみられることがある。

夕焼けや朝焼け時に「太陽の蜃気楼」と言われる現象に、太陽が“だるまさん”に見える、だるま夕日・朝日(達磨太陽・達磨朝日)がある。
火星においては大気による短波長の散乱よりちりによる長波長の散乱が卓越するため、ピンクの空と青い夕焼けが見られる。

夕焼のもつイメージと関連作品

沈みゆくもの

夕焼けは空や山々、町並みを赤く染めあげて美しいものであるが、明るい昼間の時間が終わり暗い夜がやって来る合図でもあり、比較的短時間で終わってしまう現象である。そのため夕焼けの情景は文学や楽曲、映像作品において儚さやせつなさ、悲しさ、寂しさ、別れ、衰退や没落、老いや近づく死などをあらわすものとして用いられる。

ノスタルジー

また「子供の頃友達と遅くまで夢中になって遊んでいて、帰宅する時に夕焼けを見た」といった共通体験から、子供時代を懐かしむときの表現としても多用される。

例としては三木露風の童謡の『赤とんぼ』や中村雨紅の『夕焼小焼』がある[1]。また西岸良平の一連の作品に冠せられたタイトル『夕焼けの詩』(三丁目の夕日)など、まさに郷愁の象徴であるところからの命名であろう。

一日の終わり、安息

前近代において日の出とともに起きて働き日没とともに一日の活動を終えていた。夕焼けは一日の労働の終わりを象徴するものでもある。

例としては北島三郎の歌う『与作』がある。

秋の夕焼け

秋の空は空気が澄み夕焼けが美しく、また日の長かった夏から徐々に日没が早くなっていくため夕焼けをとくに意識しやすい。

清少納言も『枕草子』のなかで「秋は夕暮れ 夕日のさして山の端いとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり」と記している。 ちなみに俳句においては、「夕焼け」は「朝焼け」とともに夏の季語であり、秋の夕暮れを詠むときは「秋の夕焼け」などとする。

夕焼けと気象に関することわざ

夕焼けに関して、古来より「夕焼けの翌日は晴れ」ということわざがあるが、これは比較的正しいと言える。日本上空では、偏西風の影響により雨雲は南西から北東へと移動していく。そのため、夕方に西の空が晴れ渡った夕焼けの翌日に、雨雲が来る可能性は低くなるからである。

また、「夕焼けの翌日は晴れ」から派生したことわざとして「夕焼けに鎌を研げ」がある。これは夕焼けがでると晴れるため、翌日の農作業に備えよという意味である。

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募金
環境、福祉、災害援助などに使う費用を寄付する事を言う。

共同募金
民間社会福祉事業を推進するための財源を国民ひとりひとりの自発的な助け合いの精神で集めようとする全国民的募金運動のこと。
赤い羽根運動をシンボルとしている。1913年アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド市で行われたのが初め。
募金者の胸につける赤い羽根は、28年ルイジアナ州ニュー・オーリンズ市、テキサス州ダラス市で用いられ始め、45年から全国化したが、現在アメリカではほとんど使用されていない。

募金詐欺

募金詐欺とは、詐欺の一形態。

ボランティアやチャリティー活動と称して街頭募金活動をする、戸別訪問して募金を募る、あるいはホームページを開設したり電子メールや葉書を送付して、ありもしない話をでっち上げたり、実在する有名な話題(天災など)に便乗したりして金品を詐取する行為。

街頭募金詐欺

街頭募金詐欺は、あたかも実在するようなボランティア団体を名乗り、主に都市部の繁華街や駅前、およびその周辺で活動している。
かつては、統一協会のダミー団体によるインチキ募金が募金詐欺の代名詞的存在だったが、2003年、『報道特捜プロジェクト』(日本テレビ系)で国際人文交流協会(代表:原田直二)や「特定非営利活動法人緊急支援グループ」、日本ボランティア会(=緑の党=荒野座)などといった団体が報道され、多くの国民が注目した。架空の団体のみならず、日本赤十字社や共同募金、地方自治体、報道各社の基金を騙ることもある。

また、募金を募っている人間が警察の許可証を見せて安心させるということがあるが、それは道路使用許可の証明に過ぎず、募金の正当性を保証するものではない。中には、しつこく募金を迫ったり、千円を出そうとした通行人の財布から五千円札を取ったりするような、悪質な団体も出現した。
更にマスコミ報道では募金を集めている者が実はアルバイトであり、その給与は集められた募金の一部から支払われていたというケースが紹介された。

従来から街頭募金活動を行ってきた救世軍(社会鍋)やあしなが募金(あしなが育英会)といった慈善団体に警察からの道路使用許可が下りず、集めた金額が半減したケースも出ているといわれる。

その時々の旬な話題に便乗することが多く、地震や台風などの天災(地域の「災害ボランティアセンター」が復旧完了により運用を終了して数年経っていてもである)、あるいは北朝鮮による拉致被害者支援と題し詐欺を行うことが社会問題化している(報道各社による災害救援基金は「**厚生文化事業団」「―チャリティ」と必ず自社名を冠し、また振込手数料が免除される専用の受付口座を持っている)。
「名前だけ」といいつつ記名後に金銭を要求する団体、募金額に不満を表すような団体、通行人に直接話し掛けて募金を迫る団体は、いずれも詐欺の危険性が高い。名簿への記入が個人情報の漏洩すなわちカモリストの作成、売買につながっているという指摘も存在する。

救う会

「○○ちゃんを救う会」など、臓器移植が必要と診断された重病の子供の治療費名目で集められた募金の行方について疑問が提起されることがある。また実際に詐欺であった例もあるが、多くの例は病気の子供が実在すると確認できるものについては、募金詐欺や架空募金などとは異なり、会計処理や使途の明朗性が問題とされているものである。

現状の日本では、15歳以下の子供について、脳死者からの臓器移植が必要と診断された場合、健康保険制度の対象となる日本国内での移植手術を法的に受けられず外国へ渡航せざるを得ないため、渡航費や医療費、滞在費などに数千万円からの費用が発生する。(年齢の撤廃などの改正が盛り込まれた臓器移植法が2010年7月より施行されたため、今後は国内での臓器移植手術が進むものとみられる。)子供の臓器移植を始めとする外国での臓器移植については公的な支援制度は一切存在せず、民間を含めても、16歳以下の子供を対象とした産経新聞の「明美ちゃん基金」が挙げられる程度である。

しかし、2007年10月に「おさむちゃんを救う会」と名乗る団体が募金詐欺を働いていたことが発覚したり、2012年12月にはNPO法人役員が難病支援目的として行っていた街頭募金が詐欺だったと発覚するなど、本義の募金詐欺も発生している。

詐欺事件としての判例

こうした事例が詐欺事件として立件されるには、個々の被害の詳細が特定されていないと困難であったが、被害者が不特定多数に及ぶ場合であっても、募金の方法や期間・場所・被害総額により「特定」の要素を満たすとして詐欺罪が成立するとの最高裁判決が2010年3月に下された。

災害被害者募金詐欺

中国でチャン・ツィイーが「四川大地震」のために集めた募金の用途が不明と言う事で収支内容を全公開させる運動が起きている。四川大地震後、関連用語のドメインが取得増加傾向となったため、義援金詐欺に注意喚起もなされた。

その他

選抜高等学校野球大会に出場予定の高校を名乗り、寄付金詐欺(振り込め詐欺)未遂事例も発生している。出典・ウィキペディアフリー百科事典。

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昨日の土産物屋の庭に咲いていたムッサエンダと、其の下に飼われていた兎も序に。

ムッサエンダ・フィリピカはアカネ科コンロンカ属の常緑小低木である。
原産地はフィリピンやニューギニアである。
樹高は2〜3メートルである。
葉は楕円形で、向かい合って生える(対生)。
花弁状の白い大きな萼片に特徴がある。
筒状をした小さな黄色い花が咲く。萼片が白い品種もあります。

一回りちいさな「コンロンカ」は別名「ハンカチの花」と呼ばれている。
ガクをヒラヒラとさせることから「ハンカチの木」とも呼ばれていますが実は、熱帯植物の低木です。成熟した木の下に立ち、見上げると白いハンカチがヒラヒラさせ木漏れ日との光で交差して、なんとも美しい情景を作り出してくらます。花はとても小さく目立ちませんが、星型の可愛らしい花を咲かせます

ハンカチノキはミズキ科(分類体系よって異なる。下記参照)の落葉高木。中国の四川省・雲南省付近原産。属名のダビディアで呼ばれることも多い。花についた白い大きな2枚の苞葉が垂れ下がりよく目立つため、日本では「ハンカチの木」や「幽霊の木」などと呼ばれる。英語では"Dove tree"(鳩の木)などという。

花はハナミズキのような頭状花序になり、2枚の苞葉(ハナミズキの場合は4枚)に囲まれる。果実は堅果で複合果となる。フランス出身の神父・生物学者であるアルマン・ダヴィッド (Armand David) が初めて報告したため、彼を記念してDavidiaと命名された。現在では世界的に栽培されている。

東京都文京区の礫川公園にもハンカチノキがある。これは小石川植物園の技官山中寅文から、作家幸田文に贈られた木を、彼女の死後に娘の青木玉が公園に寄贈したものの由。

ボホール島の土産選び

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土産は、知人や縁者に配る目的で旅行先などで買い求めるその土地に因む品物(進物)のこと。または知人縁者の家宅など訪問先を訪問する際に感謝を込めて持参する進物のこと。後者の場合は手土産という言い方もする。進物であることから丁寧語の接頭辞をつけ、御土産(おみやげ)と称するのが一般的である。

概要

語源は、宮笥(みやげ)と呼ばれた神社などの配り物と言う説が有力である。土産は一般的に手渡すものであり、宅配便などで知人などに送付することは稀である。

旅行先の土産

いわゆる観光地や、鉄道駅、空港など交通機関のターミナル施設では、土産の専門店が軒を連ねる事が多い。また、ロンドンが顕著であるが地方の観光地に於いて、土産品をおく市が立つことがある。

パッケージツアーなどでは、行程中に土産物店への立ち寄りが大概含まれている(特に、いわゆる格安ツアーで顕著である)。

土産として、土産菓子、工芸品を多く取り揃えられている。漢字で「土産」と表記するように、通常はその土地の名産物、特産物が多い。

手土産

訪問先に持参する進物では、訪問者が住む土地に因む物品の他、一般的な雑貨、食料品など多岐にわたる。訪問者が生産・獲得した農海産物を持っていく場合もある。

比喩的用法

進物全般について土産と称することから、以下の事象についてもこの呼称が用いられる。
行為の本来の目的ではない物事を受け取ること。受け取る側が望んでいない物事に対して言う場合が多い。
いわゆるディベート、賄賂のこと。

土産菓子とは、土産として売り出すことを目的として作られる菓子のことである。また地方でしか作られていないため、土産として購入される菓子のことも指す。

以下、この項目では「銘菓・名菓」・「郷土菓子」・「地域限定菓子」に分類できるものも、全て「土産菓子」として扱う。

土産菓子とその歴史

元は神仏への供え物(神饌)として作られた菓子が、そのまま境内において売られ始め、次第に供え物と関係のない菓子までも売られるようになり、参拝者が土産として購入し持ち帰ったことが起源と言われている。

茶道が安土桃山時代において発展すると「お茶請け」としての菓子が発展し始め、また同じ時期に南蛮菓子が渡来し、これらが文化の中心地であった京都近辺に大きな影響をもたらした。また南蛮菓子はキリスト教の布教と共に九州北部近辺にも影響を与えている。

江戸時代に入ると街道での往来が増えていき、途中の茶店において売られていた菓子などが、様々な旅人からの話を元に独自の発展をしていった。また旅人が口伝えなどで、旅先において売られていた菓子の存在を広めていったことが、地方において菓子が発展する契機として最も大きい。この頃には京都や江戸などで茶道を学んだ地方の藩主が、地元の城下町においてお茶請けとしての菓子製造を奨励した例もあり、松江藩や加賀藩などが有名である。

江戸時代中期になると和三盆などの精糖技術が確立したことにより、各地に白砂糖が伝わったことが地方の菓子製法に大きな影響をもたらした。そして明治維新以降は食材の多様化および洋菓子の一般化により、多くの土産菓子はこの頃、現在に通ずる製法を確立させている。

土産菓子は保存の関係で干菓子を除いては「地産地消」されるのが主だったが、現在は交通および流通の高速化や保存技術の発達により、全国的に販売消費されるようになっている。

種類

銘菓・名菓

銘菓とは、菓子を献上した相手より名前を贈呈されたものや、過去の歴史や背景から菓子に名をつけたものであり、名菓とは一般的に優れたものと認められた菓子で、単に「名物の菓子」という言葉を縮めたものという説もあるが、銘菓と同じ意味合いで使われることが多い。

どちらも主に和菓子店で作られた菓子を指し、店みずから菓子に名をつける事のほうが多いが、伝統のある店では藩主や茶道の家元などに菓子を献上し、その褒美として菓子の「銘」を与えられたというものも多々見受けられる。

郷土菓子

言葉としては銘菓と同じ意味合いで使われているが、作られている地方において由来や出処などがはっきりしていない菓子については、郷土菓子という言葉の方を用いる場合が多い。

由来がわからないものは大概、地元で伝統的につくられている事になっている。なお甘味菓子については、江戸時代までの食生活では食に嗜好を求める余裕のある生活は考えづらく、砂糖類の入手は難しかったようではあるが、水飴などは入手が可能であり、サツマイモや果物などを利用して甘味料を使わずに作れる菓子も存在していることから、伝統のある甘味菓子の存在は食文化的に貴重と言える。

地域限定菓子

菓子メーカーが全国的に発売している商品を、味付けや形などを変えて、一つの地域においてのみ売り出している菓子を指す。

元は新製品の試験販売という形で、地域を限定して発売していた商品を、旅行などで訪れた人々が物珍しさから土産がわりに購入して持ち帰ることが多かったため、現在では土産菓子としての性質を強めるために、売り出される地元に由来のある味付けなどを施し、地域限定であることを強調して販売されるようになった。1990年に北海道・関西限定で発売された江崎グリコの「つぶつぶいちごポッキー」が原点とされている。

なお北海道限定品のように元から地元の気候風土のみを考慮して販売しているものや、沖縄県限定品など流通の関係から地元のみで生産が行われ販売されているものもある。

土産菓子

商品名や内容物に地元由来のものが含まれているものの、特に歴史的な背景がない菓子であり、土産物店において売られている菓子に多く、逆にそれ以外の店では見られないものが多い。

海外の事情

海外においても日本の土産菓子に類似した土産菓子が販売されている例がある。典型的なものとして以下の例が挙げられる。
マカダミアナッツチョコレート ハワイなど
鳳梨酥(パイナップルケーキ) 台湾

このほか、地元の名勝や動物などをかたどったチョコレートを販売している例は数多い(中国のパンダ、シンガポールのマーライオンなど)。これらも土産菓子の一種と言えよう。

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ローマ教皇

ベネディクト16世
カトリック教会が他のキリスト教諸教派と比べて特徴的な点として、まずあげられるのはローマ教皇と信徒の位置付けである。ローマ教皇とは、カトリック教会の総代表者で、全カトリック教会の裁治権と統治権を持つものである(日本語では「法王」と呼ばれることも多いが、カトリック教会での正式名称は「教皇」であり、「法王」という言い方は日本国にとってのバチカン市国の首長を表す外交用語でしかない)。

ローマ教皇は使徒ペトロによる使徒座の後継者であり、現在はバチカンに居住する。なお、「使徒座」という言葉はバチカン市国の行政組織を指す場合もあり、その用法においてはローマ教皇庁とも呼ばれる。バチカン市国は1929年に成立した独立国であるが、カトリック教会が政治的に特定の国に組み入れられることなく、独立していることを示す意味がある。

『カトリック教会のカテキズム』第882項は『教会憲章(Lumen Gentium)』を引用して次のように述べている。「『教皇が、ローマの司教にしてペトロの後継者である』ことが、変わらず目にみることのできる信仰の源泉にして基礎である。」

教皇首位権はペトロに由来する立場と権能によって行使される教皇不可謬性を含む。これは「信仰と道徳に関して、教皇が教会の頭として使徒座(Ex Cathedra)から荘厳に宣言する」場合に関して教皇は誤り得ないという教義である。これはあくまで非常に限定された場合であり、通常の理解ではその首位権というのは、全司教の中におけるローマ司教の優位権のことを指している。

教皇選挙に関する最新の規定は1996年の使徒憲章「ウニベルシ・ドミニ・グレギス(Universi Dominici Gregis)」に示されている。そこで定められているのは、教皇選挙においては選挙者たる枢機卿団は外界との連絡から隔離され、システィーナ礼拝堂において議論と投票を繰り返すということである。この選挙をコンクラーヴェという。新教皇の決定にいたるためには投票者の三分の二以上の票を集める必要がある。また慣例によって、教皇選挙に参加できるのは80歳未満の枢機卿に限られる。

教会法の規定によって、教皇は自主的に退位することが可能である。歴史的にも自主的に教皇が退位したことは何度かあった。しかし、最近のものでも1415年に大シスマの終息のために退位したグレゴリウス12世のケースであり、それ以降は現代に至るまで見られない。他に退位した有名な教皇として1294年に退位したケレスティヌス5世のケースがある。彼はダンテの『神曲』の中で教皇位退位の咎により地獄で責め苦を受けるさまを描かれているが、これはあくまでダンテの解釈であり、カトリック教会からは1313年に列聖されている。

枢機卿団は、教皇庁で働く高位聖職者や世界の重要な司教区の司教たちの中から教皇によって任命される。教皇選挙に参加できるのは80歳未満の枢機卿であるという慣例を逆手にとって、80歳以上の聖職者で教会に大きな貢献をしたものが名誉職的に枢機卿にあげられることもよくおこなわれる。そのような枢機卿の中には、神学者やヴェトナムなどで政府によって長期にわたって投獄されていたような司教も含まれる。

枢機卿制は1059年に教皇選挙権がローマとその郊外に在住する聖職者に限定されたことに由来する。これは枢機卿団の本来の目的が教皇の顧問団であったことを示している。枢機卿をあらわす英語のcardinalという言葉はラテン語のカルド(蝶番)に由来している。やがて、ローマ以外の聖職者でも教皇に任命されることで枢機卿団に加わり、ローマで働くという制度が確立してゆく。

司教

司教は使徒たちの後継者であり、教え、聖化し、統治する務めを与えられた者である。ローマ教皇もまた、司教の一人であるが、使徒ペトロの権能を引き継いでいるとみなされ、司教団の中における特別な地位を認められている。なお、東方教会(東方典礼カトリック教会)の一部では「総大司教」がいて、教会の首長となっている。

司教の本来の職務は、教区の責任者として教区内の教会を統治することで、キリストの代理者として、司祭・助祭の協力を得て司牧の務めを果たすものとされている。通常の司教(教区司教)のほかに、(大司教など職務の多い)司教を補佐するために「協働司教」や「補佐司教」が任命されることがある。

司教座(教区司教)が何らかの事情で空位となった場合、協働司教は直ちに教区司教に着任して職務を引き継ぐことになるが、補佐司教はそのような継承権を持たない。また、特定の教区を管轄していなくても、教皇庁における職務に就くために司教に任命されるケースもある。

司教は、按手と祈りによって司祭・助祭に叙階の秘跡を授ける権能を与えられるが、司教もまた叙階の秘跡によってその地位を受けるものである。(ただし司教叙階の場合は、教皇から委任された司教だけが司教叙階を執行することができ、少なくとも2名の共同聖別司教が必要である、と教会法で規定されている。)叙階の秘跡の効果は生涯消えることはないため、高齢等によって司教の実質的な職務を引退した後や、司教の職務を停止された場合でも司教の権能・称号は終生保たれる。

なお、司教の中には「大司教」や「総大司教」といった地位に上げられるものもいるが、これらは叙階の秘跡による位階ではなく、教区の規模に応じて定められた教会行政上の職掌を表すものである(例えば、「司祭」が「司教」に叙階されることはあっても、「司教」が「大司教」に叙階されることはない)。

地域の司教たちは定期的に会合を開いて、さまざまな問題について討議する。これを司教会議(シノドス)という。シノドスでは典礼などの問題に関しては決議することが出来るが、特定の司教の処遇に関してなどの決議のためには、有資格司教の三分の二以上の同意と教皇庁の裁可が必要とされている。

司祭と助祭

司教は、司祭と助祭によってその職務を補助されている。カトリック教会の聖職者(司教・司祭・助祭)は独身の男性に限られ、叙階の秘跡を受けることで選ばれる。司祭には、教区に属する教区司祭(かつて「在俗司祭」とも呼ばれた)と、修道会に属する修道司祭とがあり、どちらにも属さないフリーの司祭というものは存在しない。

歴史的には使徒たちの多くや初期の聖職者たちは既婚者であったが、西方教会においては古代教会から司祭の独身制は推奨されており、修道会出身の教皇グレゴリウス7世によるグレゴリウス改革以降、上級聖職者(司教、司祭、助祭)の独身制が徹底されてきた。ただ例外として、東方典礼を行う教会(東方典礼カトリック教会)やプロテスタントなどからの改宗者の場合は既婚者が例外的に認められる事がある。また、第2バチカン公会議以降、終身助祭(司祭となる事を前提としない助祭)の制度が再興され、この場合のみ既婚男性の叙階が認められている。しかし、どちらにしても叙階後の結婚や既婚者の妻が亡くなった場合の再婚は認められていない。

また、教皇パウロ6世の時代まで、守門、読師、祓魔師、侍祭という「下級聖職(下級品級)」および副助祭という聖職位階が存在したが、1972年8月15日に発布された自発教令「ミニステリア・クエダム」によって1973年に廃止され、現代では聖体奉仕者と祭壇奉仕者の二つの「奉仕職」に改められて、かつてのような聖職位階として扱われることはなくなった。

今も日本の歴史書や歴史教科書にそのように書かれることがあるが、かつてのカトリック教会においては教皇を頂点に、司教、司祭、信徒がいるというピラミッド型のヒエラルキー構造が強調される傾向があった。しかしこれは第2バチカン公会議以降に見直され、現代では従来の聖職者至上主義の修正が図られていて、「神の民の教会論」により、すべての信徒がキリストの祭司職にあずかっていて教会の宣教活動、典礼活動、司牧活動を遂行する者であるとしている。この信徒の使命は「信徒使徒職」と呼ばれている。出典・ウィキペディアフリー百科事典。

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