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世界遺産(富岡製糸場)

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富岡製糸場と観光

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富岡製糸場の一般公開は2005年から始まった。
その年に富岡製糸場を訪れた観光客は3万人あまりであったが、2年後には約25万人に達した。ゴールデンウイーク後半初日の3日、富岡製糸場には過去最多となる6456人の観光客が詰めかけた。

その年の富岡市の観光名所の中では妙義山(約76万4000人)、群馬サファリパーク(約44万8000人)に次ぐ人数であり、富岡市の観光客数を押し上げる効果をもたらしていると考えられている。

2007年4月から、見学は有料となった(富岡市民は無料)。自由見学とは別に、定時に40分程度の解説ガイドツアーが行われている(予約不要)。20名以上の団体として予約しておくと、専属の解説員についてもらうことができる。

鉄道での最寄り駅は上信電鉄の上州富岡駅になる(駅から1km)。上信電鉄の高崎駅では、上州富岡駅への往復切符と、富岡製糸場への入場券がセットになった往復割引乗車券が発売されている。自動車の場合、上信越自動車道富岡インターチェンジから3kmになるが、施設内への車の乗り入れは認められていない。

妙義山(写真11→17は富岡製糸場の撮影日と同じ日の午後)

妙義山(みょうぎさん)は、群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置する日本三大奇勝の一つとされる山である。いくつものピークから成り、最高峰は表妙義稜線上の相馬岳(1,103.8m)で、また妙義山系全体の最高峰は裏妙義に聳える谷急山(1,162.1m)となっている。

赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる妙義山は、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山などを合わせた総称で、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれている。

特に下仁田側から眺望できる金洞山(1,094m)は別名中之嶽と呼ばれ、親しまれてきた。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は、中腹を巡る第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群は日本屈指の山岳美と讃えられている。

石門巡りコースは中之嶽神社が発着点となっている。妙義山東面中腹には、白雲山を御神体とする荘厳な妙義神社が建立されている。江戸時代には火伏せや雷除けの霊験があると信じられていた。白雲山の北東に妙義富士がある。

群馬サファリパーク(写真18→25)

日本国内5番目の1979年5月1日にオープンした東日本では初の本格的サファリパーク。

1986年5月5日には、日本で初めてアフリカゾウの繁殖に成功し、タンゴ(雄)というゾウが誕生した。ホワイトタイガーがいる。

動物以外にもジェットコースターなどのテーマパークがある。タマンサファリインドネシアと姉妹園提携している。 運営は、群馬サファリワールド株式会社。 マイケル・ジャクソンも1988年12月のBad World Tour日本公演来日中に訪れたことがある。

アフリカ、アジア、アメリカなどの大陸から集めた約100種1000頭羽の動物が広大な敷地で本来の生態系に近い姿で生活し、動物たちの観察ができるサファリパーク。自家用車、レンタカー、レインジャーカーツアー、サファリバス、エサやり体験バスなどに乗って野生溢れるようなサファリ気分が味わえる。

草食・肉食動物に餌を与えられるエサやり体験バスは、動物たちの顔や口が目の前に迫って大迫力である。車でサファリゾーンに入園する時は係員からガイドラジオがレンタルされ、車でサファリゾーンに進む時、ゾーンごとにその場にいる動物の情報がガイドラジオで流れてくる。

またイベントではネコ科獣舎見学、モグモグタイム、フライングショー、ナイトサファリツアーなども行われている。毎年、イベントホールにはインドネシアの動物と地域を中心にインドネシアフェスティバルを開催している。

妙義山は安山岩の溶岩、凝灰岩、礫岩で出来ており、いまから700万年前の噴火で出現した火山が、その後の風化・浸食が火山内部まで達したことで現在のような険しい岩峰の尖った荒々しい山容になったものと考えられている。その奇観から日本三大奇勝の一つに数えられており、また国の名勝に指定され、日本百景にも選定されている。

片倉時代

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富岡製糸場・片倉時代

株式会社富岡製糸所は当時、日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることになり、株主総会での合意を経て、1939年(昭和14年)4月29日に公告された。

この実質的に原が片倉に委任した一連の経緯に関し、原側は片倉以外には「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる」委任先が存在しないという認識を示していた。

原富太郎は後継者を失った中で自身の高齢についても懸念を抱いていたとされるが、富岡製糸所が片倉に合併されたこの年に没している。

なお、前述のように官営時代末期の最初の入札時に応札した一人が片倉兼太郎であり、三井家が落札したときに競り負けた企業の一つ、開明社でその時に実権を握っていたのも片倉兼太郎であった。こうしたことから、片倉は古くから富岡製糸所の経営に意欲を持っていたとされている。

合併の年に片倉富岡製糸所と改称され、1940年(昭和15年)には18万9000kgの生産量を記録し、過去最高記録を塗りかえたが、太平洋戦争直前の社会情勢は生産に多大な影響を及ぼした。

1941年(昭和16年)3月公布の蚕糸事業統制法によって片倉富岡製糸所も統制経済に組み込まれ、同年5月の日本蚕糸統制株式会社の成立によって、富岡製糸所は片倉から同株式会社に形式上賃貸されることとなった。

片倉本体は航空機関連の軍需生産に軸足を移し、1943年(昭和18年)に片倉工業株式会社と改称した。太平洋戦争中には片倉が所有していた製糸工場は廃止や用途転換が多く見られたが、富岡製糸所はその主たる用途が軍需用の落下傘向けであったとはいえ、製糸工場として操業され続けた。

兵隊として男子を取られていた農村の労働力を埋める必要から、工女の数は著しく減少したが、繰糸機の増設によってカバーした。ただし、輸出中心に発展してきた富岡製糸所の歴史の中で、初めて輸出量が皆無となった。

戦後、GHQは経済の民主化を進め、1946年(昭和21年)3月1日に日本蚕糸統制株式会社も解散させられ、富岡製糸所も名実ともに片倉に戻った。この年から片倉工業株式会社富岡工場となった。

前述の通り、富岡製糸所は戦時中も一貫して製糸工場として機能し続けた少ない例の一つであり、しかも、空襲などの被害も受けることなく、終戦を迎えていた。1952年(昭和27年)からは自動繰糸器を段階的に導入し、電化を進めるために所内に変電所も設けた。

その後も、最新型の機械へと刷新を繰り返し、1974年(昭和49年)には生産量37万3401kgという、富岡製糸場(所)史上で最高の生産高をあげた。

この間、工場労働者を取り巻く環境も変化した。戦後、労働者保護法制が整備されたことから、二交替制が導入された。片倉工業は戦前に青年学校令(1935年)に基づく工場内学校を設置しており、富岡製糸所にも合併した年に私立富岡女子青年学校を開校していた。

戦後になると、1948年に新しい時代に対応した教育要綱を社内で作成し、各地に知事認可で高校卒業資格を取得できる片倉学園を設置した。富岡工場にも、寄宿舎入寮者は無料で学べた片倉富岡学園が開校された。当時は義務教育終了と同時に就職する女性も多かったため、片倉工業はそういう女性たちに良妻賢母教育を施すことを自社の社会的責任と位置づけていたのである。

しかし、和服を着る機会の減少などの社会情勢の変化に加え、1972年(昭和47年)の日中国交正常化が中国産の廉価な生糸の増加を招いたことから、生産量は減少に向かい、1987年(昭和62年)に操業を停止、同年3月4日に閉業式が挙行された。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

原合名会社時代

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富岡製糸場・原合名会社時代

原合名会社が富岡製糸所を手に入れると、その翌月に当たる1902年10月に原富岡製糸所と改名した。

1900年前後には郡是製糸(現グンゼ)を始め、繭質改良に積極的な事業者が現れ、蚕種を安価で配布するものも現れていた。

蚕種を養蚕農家に配布することは、繭の品質向上と均質化に寄与するものであった。原合名会社も、まず原名古屋製糸所で1903年(明治36年)から蚕種の配布を始め、1906年(明治39年)からは原富岡製糸所でも開始した。

原富岡での蚕種の配布は無償で行なわれ、その数を増やしていく上では、群馬で発祥し、全国的に影響のあった養蚕教育機関高山社の協力も仰いだ。また、工女たちの教育機会の確保は継続されており、娯楽の提供などの福利厚生面にも配慮されていたが、それらについては「普通糸」よりも質の高い「優等糸」を生産していた富岡製糸所にとっては、熟練工をつなぎとめておくことが必要であったからとも指摘されている。

原時代は第一次世界大戦(1914年勃発)や、世界恐慌(1929年)に見舞われた時期を含んでいる。いずれの時期にも生産量は減少しており、ことに1932年(昭和7年)には大幅な減少を経験した。

しかし、それから間もなく8緒のTO式繰糸器・御法川式繰糸器を撤去し、20緒のTO式および御法川式を大増設し、生産性は上昇した。1936年(昭和11年)には14万7000kgの生産量を記録し、過去最高となった。

このように生産性の向上は見られたが、満州事変や日中戦争によって国際情勢は不安定化していき、1938年(昭和13年)には群馬県最大(全国2位)の山十製糸が倒産した。

このような情勢の中、原富岡製糸所の大久保佐一工場長が組合製糸会社(大久保が社長を兼務)のトラブルがもとで自殺したことや、原富太郎の後継者原善一郎が早世するなど、原合資会社内部の混乱が重なっていた。

さらに、主要輸出先アメリカで絹の代替となるナイロンが台頭し、先行きにも懸念があった。
そのため、原合名会社は山十が倒産したのと同じ1938年に製糸事業の縮小に踏み切った。

富岡製糸所は切り離されて、同年6月1日に株式会社富岡製糸所として独立した。形式上の代表取締役は西郷健雄(原富太郎の娘婿)であったが、経営は筆頭株主の片倉製糸紡績会社が担当することになった。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

三井家時代

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富岡製糸場・三井家時代

1891年(明治24年)6月に払い下げのための入札が初めて行われたが、このときに応札した片倉兼太郎と貴志喜助はいずれも予定価額(55,000円)に大きく及ばず、不成立になった。

改めて1893年(明治26年)9月10日に行われた入札では、最高額入札となった三井家が12万1460円をつけ、予定価額10万5000円を上回ったため、払い下げが決定した(引渡しは10月1日)。

三井家の時代の経営はおおむね良好で、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか、新型繰糸機を導入するなどし、すべてアメリカに輸出した。

寄宿舎も新設したが、工女の約半数は通勤になっている。工女の労働時間は、開業当初に比べると伸ばされる傾向にあり、6月の実働時間は11時間55分、12月には8時間55分となっていた。

読み書きや裁縫を教える1時間程度の夜学は継続されていたが、長時間労働で疲れた工女たちは必ずしも就学に熱心でなかったという。

三井は富岡以外にも3つの製糸工場を抱えていたが、4工場全てを併せた収益は好調とはいえなかった。

また、三井家の中で製糸工場の維持に積極的だった銀行部理事の中上川彦次郎が病没したことも、製糸業存続には向かい風となった。

こうして、三井は1902年(明治35年)9月13日に4工場全てを一括して原富太郎の原合名会社に譲渡した。原が4工場の代価として支払ったのは、即金10万円と年賦払い(10年)13万5000円であった。

御雇

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富岡製糸場・御雇

お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された。お抱え外国人とも呼ばれることもある。

「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。江戸時代初期にはヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。

幕末になり鎖国が解かれると、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが一時期幕府顧問を努め、レオンス・ヴェルニーが横須賀造兵廠の建設責任者として幕府に雇用された例などがある。

しかし、外国人の雇用が本格化するのは、明治維新以降である。例えば、法令全書の文部省医学教則をみれば、外国人教師による高度な内容の医学教育がすでに1872年の時点でなされており、このような教育を通じて西洋の最先端の知識や技術が急速に我が国に流入したことをうかがわせる。

ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、1868年から1889年までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』、『近代日本産業技術の西欧化』があるが、これらの資料から2690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。

内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている。

1890年までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8%で、特に43.4%が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5%がイギリス人であった。鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表である。

アメリカ人の場合は54.6%が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0%で文部省が15.5%、開拓使が11.4%であるが、開拓使の外国人の61.6%がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど)。

フランス人の場合は48.8%が軍の雇用で、特に陸軍雇用の87.2%はフランス人であった。幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制をドイツ式に転換したのは1885年にクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。

また、数は少ないが司法省に雇用され不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。

ドイツ人の場合は政府雇用が62.0%であり、特に文部省(31.0%)、工部省(9.5%)、内務省(9.2%)が目立つ。エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。

オランダ人の場合、民間での雇用が48.5%であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった[6]。幕府は1855年、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年にダグラス顧問団による教育が実施され、帝国海軍はイギリス式に変わっている。

他に土木の河川技術方面でヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。

イタリア人はその人数こそ多くなかったものの、工部美術学校にアントニオ・フォンタネージらが雇用された。またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献した。

お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られる。1871年の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。

その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年までの平均では、月俸180円とされている。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。国際的に極度の円安状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。

なお、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいた。

御雇の意味

「御雇」と御の字が付いたのは、御上(おかみ)すなわち政府が雇ったという意味である。明治政府が雇用した官雇外国人にならって、民間でも学校や会社に私雇外国人を多く採用した。在外公館で雇用されていた者や外国人居留地の警備に当たった者なども含まれるが、一般的には、欧米から技術や知識を学ぶために招いた人物を指す。

なお「御雇」の原義は、(特に外国人に限らず)武家でない身分の者をその専門技芸において幕府の「御用」に徴用することを指した。江戸期後半になって諸外国の動向が伝わってくるにつけ、武士である幕臣だけでは様々な専門分野に対応できず、一般民の中から専門に秀でた特に優れた人材を募り、この需要に充てたものである。

しかし幕府の側からすると身分としてはあくまでも「御雇い」であり、臨時雇用の色合いの濃い立場の低い扱いではあったが、それなりの処遇(給与・住居など)は与えられて、なかには能力と功績が認められると正規の幕臣として取り立てられ、武家として称氏(氏姓、苗字を名乗ること)・帯刀・世襲が許される場合もあった。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

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