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岐阜県の旅

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五箇山の梅雨

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天橋立の帰路、夫婦共々独身時代から50年来の付き合いである友人宅を訪ねました。東京三鷹市に住んでいましたが田舎暮らしかしたいと言って12年が経ちました(写真は友人宅)。

梅雨は、北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて毎年めぐって来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。

名称

漢字表記「梅雨」の語源としては、この時期は梅の実が熟す頃であることからという説や、この時期は湿度が高くカビが生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説、この時期は「毎」日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説がある。

普段の倍、雨が降るから「倍雨」というのはこじつけ(民間語源)である。このほかに「梅霖(ばいりん)」、旧暦で5月頃であることに由来する「五月雨(さみだれ)」、麦の実る頃であることに由来する「麦雨(ばくう)」などの別名がある。

なお、「五月雨」の語が転じて、梅雨時の雨のように、物事が長くだらだらと続くことを「五月雨式」と言うようになった。また梅雨の晴れ間のことを「五月晴れ(さつきばれ)」というが、この言葉は最近では「ごがつばれ」とも読んで新暦5月初旬のよく晴れた天候を指すことの方が多い。

お天気の専門家である気象庁では五月の晴れのことを「さつき晴れ」と呼び、梅雨時の晴れ間のことを「梅雨の合間の晴れ」と呼ぶように取り決めている。五月雨の降る頃の夜の闇のことを「五月闇(さつきやみ)」という。

地方名には「ながし」(鹿児島県奄美群島)、「なーみっさ」(喜界島での別名)がある。沖縄では、梅雨が小満から芒種にかけての時期に当たるので「小満芒種(スーマンボースー、しょうまんぼうしゅ)」や「芒種雨(ボースーアミ、ぼうしゅあめ)」という別名がある。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

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 夏の夜を踊り明かす「郡上おどり」の「徹夜おどり」が13日夜、岐阜県郡上市八幡町で始まった。色とりどりの浴衣姿の市民や観光客らが、笛と太鼓、三味線の伴奏で歌われる「郡上節」に合わせて踊り歩き、乾いたげたの音が夜通し響いた。

 午後8時、開幕。八幡町新町から橋本町までの約1キロの路上は、踊りの輪が次第に増え、熱気が高まった。徹夜おどりは16日まで4夜続く。郡上市商工観光部によると、この日の人出は約6万8000人。4日間で20万人を見込んでいる。【山盛均】
毎日新聞 8月13日(土)から。

郡上おどり(ぐじょうおどり)は岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、日本三大民謡(郡上節)に数えられる。

発祥
中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられている。

盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。

江戸時代中期
1728年(享保13年)から17年間飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した「濃州志」の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク?也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。 これは飛騨の地で八幡のことを歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる〜の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。なお、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。 1840年(天保11年)に書かれた郷中盛衰記によると「延享時代(1744〜1747年)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野(そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていたようである。

1820年
郡上藩庁より触書「城番年中行事」で「盆中は踊り場所へ御家中末々まで妻子並びに召使いなど出かけていくことはならないと前々より禁じているから、固く心得て決して出かけていってはならない。今後年々この触れを出すことはやめておくが、違反のないように心得ておくこと。」という意味の禁令(条令と御法度の覚書)が発せられた記録がある。これにより当時の武士やその家族の者たちが禁止されているにも関わらず、藩主や役人にこっそり隠れて踊りの輪に加わろうとしていたことが推察できる。

江戸時代後期
江戸時代後期において城下の盆踊りは、七大縁日が定められて行われていた。七大縁日とは7月16日の天王祭り(八坂神社)・8月1日の三十番神祭(大乗寺)・8月7日の弁天七夕祭り(洞泉寺)・8月14日〜16日の盂蘭盆会・8月24日の枡形地蔵祭り(枡形町)である。

1874年
明治政府により、禁止令が出される。神仏分離政策か近代化政策かの影響と思われる(顛末不明)。

1923年
大正12年郡上踊り保存会発足。初代会長は坪井房次郎。

1929年
昭和4年8月に保存会16名で松坂屋において東京初公演を行う。

1931年
昭和6年5月21日東久邇宮稔彦王が来町し、愛宕公園において郡上踊りの実演を観覧した。この時保存会員十数名は「三百」「かわさき」を踊り、特に三百踊りは所望により二度踊った。

1934年
昭和9年、名古屋の新聞社であった新愛知(中日新聞の前身)により読者の投票による「郷土芸術十傑」の懸賞募集があった。 当時、保存会の人々は踊りを発展させるため、出場資格を得る票数を獲得しようと努力し郡上郡内で約四万票、更に郡外で約十万票を集め出場資格を得た。翌昭和10年の名古屋公演は非常に好評であったという。この時2日間の公演の演目は「川崎」「さば」「やっちく」「三百」であった。その様子は名古屋放送局で放送された(11月20日)。 この様にして郡上踊りは地元の人々以外にも次第に知られるようになっていった。

第二次世界大戦中
毎年8月15日のみ開催を許されていた。1945年8月15日の終戦日にも開催された。終戦日には官憲からの中止勧告があったとの証言があるが、「英霊を慰める」などの理由の下に中止は免れたという。(保存会の事業経過報告書によれば15日は「終戦ノ玉音放送ノ為盆踊休止」となっているので、この日は住民が自然発生的に踊ったものと思われる。)

1952年
踊り種目「さば」が「春駒」と改称。

1990年
平成2年アメリカ合衆国ロサンゼルス・フェスティバルで海外初公演。

1991年
郡上おどり400年祭が開催され7月より11月にわたり、郡上おどり400年祭記念式典、構成劇「郡上節ものがたり」、全国盆踊りフェステバル(全国盆踊りシンポジウム、阿波踊り・花笠踊りとの競演)など、さまざまなイベントが行われた。

2008年
平成20年6月カナダ・トロントで日加修好80周年を記念して「郡上踊りinトロント」が開催された。

開催期間・会場・特徴など [編集] 郡上八幡(岐阜県郡上市八幡町) [編集]毎年7月中旬から9月上旬まで延べ32夜開催される。
8月13〜16日は、午後8時から明方まで夜通し踊り続ける「盂蘭盆会(徹夜踊り)」。
寺社の境内・道路・駐車場・公園・広場など、開催日毎に会場を移す。
各開催日は基本的に町内各所での縁日や記念日に由来している。
優秀な踊り手には免許状が発行される。開催日毎に審査対象の1曲を明示し、郡上おどり保存会が選抜する。
4日間の徹夜踊りに来訪する踊り客はおよそ25万人に達する。
毎年年末には翌年の日程が発表される。 

東京(郡上おどり in 青山)
毎年6月に、東京都港区南青山の寺院「梅窓院」の境内で開催される。同寺院が郡上藩主・青山氏の菩提寺であったことに由来する。郡上市から郡上おどり保存会が来訪し、郡上節の生演奏により本場さながらの踊りが繰り広げられる。同時に郡上市の物産展も催される。主催者は青山外苑前商店街振興組合。1994年から開催されている。

踊りの概要
郡上節を演奏する囃子の一団が乗る屋形を中心に、自由に輪を作り時計回りに周回しながら踊る。会場が街路の場合もあるので、輪は円形とは限らない。踊りには曲ごとに定型がある。振り付けの基本は簡素なので、初心者や観光客でも見様見真似で踊ることができるようになる。装束は男女とも浴衣に下駄履きが標準的だが強制ではない。踊りへの参加は完全に自由で、飛び入りや離脱に規制はない。通常、見物人よりも踊り手の方が圧倒的に多数である。

郡上節
郡上おどりの際に演奏される囃子を総称して郡上節と言う。

「かわさき」「春駒」「三百」「ヤッチク」「古調かわさき」「げんげんばらばら」「猫の子」「さわぎ」「甚句」「まつざか」の10曲。対応する踊りは、それぞれ異なる。
踊る曲の順番は日によって違う。ただし、「まつざか」は必ず最後に踊る曲になっている。これは、「まつざか」は拍子木と歌のみを伴奏にして踊る曲で終わった後は拍子木を懐に入れて帰って行くことができ、片付けの手間がないために「まつざか」が最後に踊る曲となっている。なお、三味線等は「まつざか」の前の曲が終了した時点で片付けの準備に入る。
囃子の構成は三味線・太鼓・笛の伴奏に唄囃子・返し言葉・掛け声。伴奏がない曲もある。
郡上節が演奏される屋形は可動式の木造2層寺社風構造であり、永年使用される。開催日毎に会場に移動し、適所に設置される。開催期間以外は八幡町内の専用倉庫に保管されている。
文化財指定 [編集]1955年2月10日に八幡町の町指定無形文化財となった。指定番号1、指定名称は「古調郡上踊」
1958年4月23日に岐阜県の県指定無形文化財となった。指定番号4、指定名称は「郡上踊」、所属団体名は「郡上踊保存会」
1973年11月5日に国の選択無形文化財に選択された。官報告示の名称は「古調郡上踊」、所属団体は「古調郡上踊保存会」。
1996年12月20日に国から重要無形民俗文化財に指定された。指定名称は「郡上踊」、保護団体は「郡上踊り保存会」。

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