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メインスタンド最上段の「ロイヤルボックス」(貴賓席)
劇場・競技場などの、貴賓席。特別席。

正面のメインスタンドには、2枚の壁画があり
その間にあるのがロイヤルボックス
壁画の左側が相撲の神様の野見(のみ)宿禰(すくね)右側がギリシャ神話の勝利の女神ニケ

国立競技場の座席図

国立競技場の座席図は、ゲートで言うと1〜8ゲートはメインスタンド側にあって、一部は屋根が設置されています。

国立競技場の座席図は、ロイヤルボックスやVIP席もメインスタンド側にあります。

国立競技場の座席図は、入るゲートが決まっていて、場所によってはとんでもない場所に出る場合もあります。
位置の確認とゲートの番号を照らし合わせて、一番近いゲートを探した方が利口です。

メインとなる入り口は、3つあって、
1.青山門
2.千駄ヶ谷門
3.代々木門です。

車椅子が利用できるのは、青山側とちょっと離れていますが、代々木側です。
メインスタンドの反対側のバックスタンド側に聖火台があります。
他にはメインスタンド側には記者席もあります。もちろんロイヤルボックスやVIP席もメインスタンド側です。
国立競技場の座席図もオリンピックと同じぐらいそれ以上に歴史を持っています。

それを見守る電光掲示盤も様々な競技を見守っています。
陸上競技、サッカー、ラグビーとして有名で、聖地としても知られています。
東京オリンピックの会場であった事は有名で、実はその前にアジア大会のために建設されたようです。
この競技場の歴史は大正時代にまで遡ってしまいます。

現在の競技場へと生まれ変わっていくわけですが、日本から世界にと拡大していったところでもあります。
東京オリンピックを2年後控え拡張工事が行われて、収容人員増設やグラウンドの地下道の建設など改修工事が行われました。

オリンピックという大舞台を控えて、生まれ変わった競技場です。
国立競技場の座席図も座席が多くなるにしたがって、変わりました。
Jリーグの開幕式や世界陸上など数々の名場面を繰り広げて、心に残る名勝負が繰り広げられました。
約半世紀にも及ぶ長い歴史の中で、様々に繰り広げられるドラマを静かに見守ってきたスタンドです。

色々なスポーツ競技や講演などが繰り広げられています。
ユニバーシアード東京大会を始めに全国高校サッカー選手権大会、天皇杯全日本サッカー選手権大会等です。
ラグビー日本選手権大会、ラグビー大学選手権大会、東京国際マラソン、サッカートヨタカップなど様々にあります。
国内外に多くの大会を開催してきています。そして、多くの利用者がいます。
ラグビートップリーグ開幕戦、そして、三大テノール日本公演などです。

幾度も改修工事を重ねて今に至っています。
多くの人に感動を与えたこの会場も老朽化して、大きな大会は他の会場で行われることが多くなり寂しさをも感じます。
出典・独立行政法人日本スポーツ振興センター


野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する人物である。

天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えたという。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなったという。『播磨国風土記』によると、播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬されたとある。

ところで、埴輪創出についての考古学的な知見からは、これは伝説にすぎないとされているが、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある。それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。

「サモトラケのニケ」
は、ギリシャ共和国のサモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発掘され、現在はルーヴル美術館に所蔵されている勝利の女神ニーケーの彫像である。

現存するギリシア文明の彫像の中で、女神ニケを題材にしたものとして貴重な彫像でもある。その題材のみならず、優美でダイナミックな姿や翼を広げた女性という特徴的なモチーフなどが印象的で、各地にレプリカが作られ親しまれている。

大理石製で高さは328cm。

最初の発見は1863年で、フランス領事シャルル・シャンポワゾによって胴体部分が見つけられた。それに続いて断片と化した片翼が見つかった。断片は全部で118片にのぼる。その後復元された像は1884年にルーヴル美術館の『ダリュの階段踊り場』に展示され、現在に至る。

右腕は1950年に発見され、ルーヴル美術館に保管されている。手は大きく広げられている。

この彫像についての古文書はひとつも発見されていないため、様式および傍証から年代を推定することしかできない。まず、デメトリオス1世ポリオルケテスの貨幣がこの像を表しているのではないかと考えられ、デメトリオス1世が海戦の勝利を祝って建造したと推測する説があった。この説によれば彫像は紀元前4世紀終わりから紀元前3世紀初頭の彫刻家の作ということになり、サモトラケ島で活動していたスコパスの弟子などが該当する可能性がある。しかしながら、サモトラケ島は当時デメトリオスと敵対関係にあったリシマクスの支配下にあり、ここにデメトリオスが像を建立したとは考えにくい。

次に、ロードス島のリンドスで発見された船を象った浮き彫りの形態と台座の大理石の由来から、彫像がロードス島のものであり、コス島、シデ島、あるいはミヨニソス島での勝利を祝したものと考える説がある。年代はそれぞれ紀元前261年頃、紀元前190年、おなじく紀元前190年である。

この時期は大プリニウスにも言及されている チモカリスの息子ピトクリトスが彫刻家として活動していた時期に符合する。ピトクリトスはリンドスのアクロポリスの彫像を手がけたことでも知られている。そしてシャンポワゾは1892年、彫像の直近からロードス島ラルトス産の大理石の断片を発見したが、これには「…Σ ΡΟΔΙΟΣ / …S RHODIOS」という表記があり、「ロードスのピトクリトス」に符合する可能性を示すものとして注目された。しかしながら、この断片とニケの彫像が置かれていたエクセドラ(半円状に突出した建築部位)の関係は明らかではなく、とりわけ、この断片の小さな凹部はそれが小像の台座であることを物語っている。

他に、この彫像がアンティゴノス2世ゴナタスの奉納物であるとする説がある。すなわち紀元前250年代のコス島でのプトレマイオス2世に対する勝利の記念物である。アンティゴノス2世はデロス島に彫像を建立していることから、アンティゴノス朝が伝統的に守ってきた聖域であるサモトラケ島にも同様なことを行っていたと考えることは可能である。

他の検討の可能性として、ニケの彫像をペルガモンの大祭壇のフリーズに彫られた人物像と比較する研究者もいた。

国立競技場の照明

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照明設備はバックスタンドに照明塔4つ、メインスタンドの照明は屋根の中に内蔵されている。

スポーツ施設の照明

1.スポーツ施設における照明の考え方

 健康増進、体力向上などの目的で、スポーツが盛んになっています。そのための場所として、住民の為の体育館やグラウンドなどの施設が数多く建設されたり、学校のスポーツ施設が開放されたりするケースもあります。このような施設は、だれでもが何時でも快適に利用できることに主眼が置かれ、その一環として、照明も重要視されています。
 また、プロスポーツや国際レベルの競技会、さらにはテレビジョン放送される競技会などにおいては非常に高品質な照明が要求される場合があります。このような場合には照明設計に格段の配慮が必要です。

2.スポーツ施設の照明環境

スポーツ競技場は、スポーツ競技者、審判員などの競技関係者、観客、テレビジョン放送関係者などが、安全、円滑、かつ、快適に競技を行ったり、観戦したり、又は撮影したりするために、スポーツ競技が明瞭に見えるように照明しなければなりません。このため、競技場内には適切な明るさと色の対比があり、すべての場所に十分な光が適切に配分され、グレアが適切に制限されていることが重要です。

1 スポーツの区分
スポーツを行う際に要求される照明環境は、スポーツの水準や種類により異なります。JIS Z 9127スポーツ照明基準(2011)1)では、水準により表1のように区分し、特定のスポーツ競技(球技、運動競技、陸上競技、水泳、ウインタースポーツ、格闘技など)毎に照明要件を定めています。

2 光色
 対象物を明瞭に見せることも必要ですが、レクリエーションなどでも長時間にわたって行うスポーツ施設では、照明による雰囲気作りも必要です。
 光色が快適であると感じる印象は照度レベルの影響で変化する場合がありますが、光色から受ける印象は一般的に表2のようなものであるとされています。
 純粋な競技目的専用ではなくレクリエーションが主目的のスポーツの場(例えば、高齢者が軽い運動を行うこともあるような多目的共用ホールなど)では、照明による雰囲気作りのため、暖かい感じの色が好ましい場合もあります。しかし、特別な理由のない場合には、テレビジョン撮影及び写真撮影にも影響を及ぼすので、自然昼光及び人工光を併用する場合を考慮して、自然昼光と調和しやすい約4000K〜6500K程度の光色が多く用いられます。

2 光色
 対象物を明瞭に見せることも必要ですが、レクリエーションなどでも長時間にわたって行うスポーツ施設では、照明による雰囲気作りも必要です。
 光色が快適であると感じる印象は照度レベルの影響で変化する場合がありますが、光色から受ける印象は一般的に表2のようなものであるとされています。
 純粋な競技目的専用ではなくレクリエーションが主目的のスポーツの場(例えば、高齢者が軽い運動を行うこともあるような多目的共用ホールなど)では、照明による雰囲気作りのため、暖かい感じの色が好ましい場合もあります。しかし、特別な理由のない場合には、テレビジョン撮影及び写真撮影にも影響を及ぼすので、自然昼光及び人工光を併用する場合を考慮して、自然昼光と調和しやすい約4000K〜6500K程度の光色が多く用いられます。

5 グレア
 光源からのグレア(まぶしさ)は完全に避けることができないため、ある程度の不快感を競技者あるいは観客に与えることになります。しかし、グレアは競技中に視覚が過度に阻害されない程度に制限・抑制すべきです。グレア制限は種々の方法で実施することができます。
 例えば、光源をルーバ又は深い反射鏡で覆うことによって行うこともできますし、照明器具を通常の競技中の主たる視線方向から離して設置することによって行うこともできます。
 ただし、グレア制限のための手法は、他の照明所要条件を満足させる手法と時として相反します。
 例えば、競技コートで互いに向い合い、ボールやシャトル(羽根)などを打ち合うバレーボールやバドミントンなどの競技で極端な状況を仮定します。この場合、競技者や観客から見て真正面に近い角度で入射する光はグレアを高めます。反面、競技者や観客から見て真後ろに近い角度で入射する光は空中を飛ぶボールやシャトルを明瞭に見せる空間照度を高めます。このメリットとデメリツトの関係は相対するコートの逆側に居る競技者や観客には反転して生じます。
 このようなことから、グレア制限と他の照明所要条件を満足させるためには、すくなからず妥協が必要となります。しかし、一般的には見え方が少し低下するという犠牲を払っても、グレアを効果的に制限することの方が望ましいことです。

(a)減能グレア
 スポーツ照明施設では、競技者や観客は視線をあらゆる方向に動かしますので、光源を直視したときに視覚に影響するような減能グレアを完全に防止することは非常に困難です。従って競技者や観客の『通常の視線方向』に投光器を配置しないようにして、減能グレアを軽減させることが大切です。
(b)不快グレア
 光源を直視しない場合でも、施設によっては「目障り」に感じる場合があります。このようなグレアを不快グレアといい、この「目障り」の程度がきついと、見ようとする対象物が見づらくなります。それを定量的に表わす方法として次式のようなものがあります。

 GRの計算点及び方向は、各照度測定点から各照明塔方向とし、視線方向は下向き2度で計算します。スポーツ競技のサイドラインに沿って照明器具が列状に配置されている場合には、水平距離の最短方向及び最遠方向について計算します。
 JIS Z 9127スポーツ照明基準(2011)1)では、グレアを考慮する必要があるスポーツの場合には、許容できるGRの上限値(GRL)を競技により50または55としています。

6 ストロボスコピック現象
 放電灯を交流点灯した場合、ランプから発せられる光はフリッカ(ちらつき)を生じます。この現象は、ストロボスコピック現象と呼ばれ、ボールのスピードの速い球技を行う場合には、このことが問題となることがありますので、光源の選定には注意を払う必要があります。ストロボスコピック現象の程度を表わす方法に、フリッカインデックスがあり、この数値の大小によって、各光源のちらつきの程度を判断し、目的に応じた光源の選定の参考とします。

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50年「聖地」見守った炎

1964年の東京五輪開会式でハイライトとなった、聖火点火が行われた国立競技場(東京都新宿区)の聖火台が保存されることになった。国立競技場は現在地での建て替えが決まっており、聖火台の行方が注目されていた。

 半世紀にわたって、さまざまな競技を見守り、スポーツの聖地のシンボルとしてともし続けた聖火台。今回取材のために特別に許可を得て、黒く輝く聖火台の脇に脚立で昇って聖火を間近に見た。50年の歴史を物語る炎が真冬の青空に栄えた。

 メーンスタンドの北西方面には新宿副都心のビル群がそびえ、南西方面には富士山が顔を出す。東には霞が関の官庁街やかなたに東京スカイツリーも望める。ビル10階分に相当する約38メートルの位置にある聖火台付近は風がかなり強く、聖火もゴーゴーと音をたてながら燃えていた。手を伸ばせば届くような至近距離でカメラを構えていると、風向きによって炎がなびく方向を変えて、迫ってくる。油断していたら髪の毛とまつげが焦げてしまった。

 聖火台は国立競技場のバックスタンド中央最上部に設置されており、高さと直径が約2.1メートル、重さは2.6トン。東京五輪開幕の6年前に、埼玉県川口市の鋳物職人、鈴木萬之助さんと息子の文吾さんによって鋳造された(文:写真報道局 鈴木健児/SANKEI EXPRESS)。


職人の技と心を受け継ぐ聖火台

 東京・神宮外苑にある国立霞ヶ丘競技場(以下、国立競技場)。フィールドをぐるり見渡すバックスタンドの最上段に、円錐を逆さにした格好の聖火台が鎮座する。46年前の10月に開かれた東京オリンピック(1964年10月10〜24日)のシンボルだ。
 日本初のオリンピックの火を灯した聖火台は高さ2.1m、直径2.1m、重さ2.6tの鋳物(いもの)でできている。鋳物とは、加熱して溶かした金属(鋳鉄)を鋳型とよばれる型に流し込み、冷えて固まった後にできる金属製品のことだ。大きめの鋳物としては、お寺の釣り鐘や天水鉢がそれにあたる。

 東京オリンピックを機に作られたと思われがちな国立競技場の聖火台だが、実際はそれよりも前、1958年(昭和33年)5月の第3回アジア競技大会に向けて作られたものだ。手がけたのは、かつて鋳物産業で栄えた埼玉・川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助さん、文吾さん親子。
 萬之助さんは銅像や仏教彫刻などに用いられる鋳造技術「惣型法(そうがたほう)」の名工で、上野の西郷隆盛像の製作を彫刻家である高村光雲のもとで手がけたこともある。文吾さんもまた、子どもの時分から父親のもとで修行を積み、惣型法を受け継いだ腕利きの職人であった。

 萬之助さんのもとに聖火台の製作依頼が来たのは、アジア競技大会まで残すところ半年という切羽詰ったタイミングだった。聞けば、当初は大手造船会社に発注したが、国内で前例のない聖火台の製作には技術も手間も要するということでコスト面が折り合わず、交渉は暗礁に乗り上げていたということだった。
 ところが萬之助さんは採算度外視でこれを引き受けた。「鋳物の街・川口の名に懸けて、国の仕事ができるのは名誉なことだ」という職人の心意気からだ。

 聖火台の製作はさっそく、3カ月の製作期間を条件に始まった。作業は昼夜を問わず行われ、鈴木さん親子は製作開始から2カ月後に鋳型を作り上げた。そして1958年(昭和33年)2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」にこぎつけた。
 湯入れとは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした、およそ1400度の鋳鉄を鋳型に流し込む作業のことだ。均等に注がなければ良質な鋳物はできないため、高い技術と経験を要する、いわば鋳物師の腕の見せどころである。湯入れの当日、作業場には聖火台プロジェクトの関係者や町の人々が大挙し、一大イベントの様相を呈した。
 キューポラから取り出した鋳鉄をゆっくりと鋳型に流し込んでいく萬之助さん。その様子を固唾を呑んで見守る文吾さんと見物人たち。だが40秒ほどしたそのとき、突然鋳型が爆発、破損部分から真っ赤な鋳鉄が飛び出した。

 さいわい怪我人はなかったものの、萬之助さんは流れ出る灼熱の鋳鉄を眺めながら、その場に立ち尽くした。そして、失敗のショックと過労から床に伏せてしまい、8日後、帰らぬ人となった。享年68歳であった。

 一方、文吾さんはといえば、事故の直後から製作を再開していた。納期まで残された時間はわずか1カ月。父を欠いた痛手とプレッシャーは計り知れなかったが、「作らなければ川口の恥、日本の恥」という思いでいっぱいだった。

 鋳物づくりの名工とうたわれる鋳物師(いもじ)・鈴木萬之助さんの腕をもってしても立ち行かなかった聖火台づくりは、萬之助さんの弟子であり息子である文吾さんに託された。納期まで、あと1カ月。文吾さんはのしかかるプレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業を続けていた。

 当時の窮状は、文吾さんが萬之助さんの葬儀にさえ出られなかったというエピソードが物語っている。父親の死を知れば気持ちが動揺して仕事が手につかなくなるのではないか。そう心配した家族が文吾さんに萬之助さんの死を伏せるという苦渋の決断をしたからだ。
 それでも葬儀の当日になって、文吾さんは近所の人から訃報を聞かされる。そして作業着のまま自転車に飛び乗り葬儀に駆けつけたが、萬之助さんの亡骸はすでに霊柩車に乗せられ自宅を後にするところだった。
 霊柩車を見送りながら、じっと涙をこらえる文吾さん。その悲痛な姿に参列者たちはもらい泣きしたという。
 「おやじの弔い合戦だ」。このときそう心に決めた文吾さんは、すぐさま作業場へ戻り、まるで何かに憑かれたように聖火台づくりに没頭した。

 不眠不休で作業を続けること2週間、鈴木さん一家にとっては鬼門ともいえる湯入れの日がやってきた。萬之助さんが失敗のショックから命を落とすことになった運命の瞬間だ。
 湯入れの勝負は、ほんの数十秒。灼熱の鋳鉄(いてつ)をゆっくりと流し込む文吾さんの姿が、亡き萬之助さんと重なる。文吾さんにも、その場に居合わせた人々にも一瞬、悪夢がよみがえった。
 しかし、湯入れは無事成功。悲願の聖火台がついに完成した。鋳型をはずして現れた聖火台を目にしたとき、文吾さんは大仕事を終えた安堵と達成感で男泣きに泣いた。「引き受けた仕事は命がけでやるのが職人。おやじはそのことを教えてくれた」と文吾さん。春の足音が聞こえる1958年(昭和33年)3月5日、36歳の出来事だった。

 こうして誕生した聖火台は、その年の5月に開催されたアジア競技大会で聖火が点火され、6年後の1964年(昭和39年)10月10日、東京オリンピックの開会式で最終聖火ランナーの坂井義則さんによって日本初のオリンピックの火を灯した。
 オリンピックの後は毎年10月10日前後になると文吾さんが国立霞ヶ丘競技場に出向き、聖火台を磨いた。聖火台には「鈴木萬之助」を略した「鈴萬」の文字が刻み込まれている。そこには「虎は死して皮を残すというが、職人は名を残す。おやじへの恩返し」という文吾さんの想いが込められている。
 その文吾さんも2008年7月6日、86歳で永眠した。1ヵ月後に控えた北京オリンピックの前に聖火台を磨きに行きたいと言っていたそうだが、残念ながら叶わなかった。

 しかし、文吾さんの遺志は次の世代に受け継がれた。家業を継いだ息子の常夫さん、文吾さんの弟で工芸作家の昭重さんらが中心となって聖火台を磨いている。また、聖火台誕生の経緯を知り感銘を受けたオリンピックハンマー投げ金メダリストの室伏広治選手が2009年から聖火台磨きに参加。鋳物のつや出しに効果的という食用のごま油をしみこませた手ぬぐいを手に、遺族や支援者らと一緒になって汗を流した。「鈴木さん親子が精魂こめて作った聖火台は、日本人の心のレガシー(遺産)」と室伏選手。
 そして今年、11月14日に開かれる陸上競技大会(第5回東京アスレチックカーニバル)に参加する小中高校生らと聖火台を磨くという。このとき鈴木さん親子のエピソードも語られる。
 真摯に競技を追求するその姿勢から“求道者“と称される室伏選手が、直接語って聞かせる職人の物語は、日々鍛錬を積む子どもたちの小さなアスリート魂に火を灯すことだろう。

出典・文=スポーツライター・高樹ミナ氏から転載。

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陸上競技場とは、陸上競技を行うために設けられる施設である。通常は屋外に常設されるものを指すが、体育館やホール内に特設される室内陸上競技場もある(写真は国立陸上競技場)。

日本の主要な陸上競技場は地方自治体が設立・運営しているものが多いが、学校が有する陸上競技専用のグラウンド(特に私立大学に多い)が、日本陸上競技連盟の公認を受けている例も少なくない。

施設

競技が行われる部分は、周回走路である「トラック」と、跳躍や投擲などの競技を行う「フィールド」に分かれている。

トラックや助走路の表面はシューズのスパイクを受け止められるよう堅固で、かつ均一でほぼ水平でなければならない。第1種・第2種公認競技場では競技面は全天候舗装されている必要がある。

これには古くからアンツーカなどの舗装材が使われてきたが、最近ではポリウレタンまたは合成ゴム舗装が一般的である。

舗装の色はほとんどがレンガ色であるが、近年は青色のトラックを持つ競技場も増えている。第3種以下の競技場も全天候トラックが多いが、一部の地方競技場ではシンダー舗装(土のトラック)になっているもの、あるいは全天候型とシンダー舗装を併用しているものもある。

トラック

徒競走、リレー競走、ハードル競走、障害物競走などが行われる周回走路。平行な2本の直走路と、それらをつなぐ2つの曲走路からなり、選手達は反時計回りにこれを周回する。その内端にはコンクリート、あるいは適当な材質の縁石を設けることになっている。1周の距離は400mが標準だが、第3種以下の競技場ではそれより小さなものもある。

レーン走路は白線によって各レーンが区切られている。400m以下の競走では選手は各々決められたレーンを走らなければいけない(セパレートコース)。800m競走など、スタートから一定距離はセパレートコースで、その後はどこを走っても良いオープンコースになる種目もある。

レーンの幅は122cmと決められており、内側のラインから20cmの部分(ただし、トラック内側の縁石が走路より高くなっている場合は、最内レーンのみ縁石から30cmの部分)を走るものとして距離が測定されている。

また中距離走より距離の長いトラック種目や1600メートルリレー走の2走以降は、必然的に最も内側の1レーンを走る。そのため、使用頻度によっては1レーン、あるいはインレーンほど表面の傷みが激しく、短距離走などでは記録にも影響を及ぼすおそれもある。

近年9レーンまである陸上競技場が第1種、第2種公認となった背景には、短距離走などで2レーンから9レーンの8つのレーンを使うことで、1レーンの使用機会をできるだけ減らし、表面を保護する目的もある。

フィニッシュライン、スタートライン一方の直走路の終端部にはフィニッシュラインが引かれており、競技の種類や距離にかかわらずこのラインがゴールとなる。

このラインから競技距離分だけ離れた場所にはスタートラインが引かれている。100m競走や110mハードルでは直走路の延長部分にスタートラインが引かれ、直線コースで競走が行われる。

セパレートコースを用いる200mから800mの競走ではレーンごとにスタートラインが引かれている。1,000m以上の競走ではオープンコースであるため、スタートラインは最初の曲走路入り口を中心とした弧になっている。

水濠3,000m、あるいは2,000mの障害物競走が行われる競技場では、一方の曲走路の内側か外側に水濠が設けられ(写真11→12)、そこへ進入するための走路も作られる。このため、障害物競走においては1周の距離は400mよりやや長いか、短いことになる。日本では外側にあるのが主流だが欧米などでは逆に内側にある競技場が多い。

国立競技場には、東京オリンピックで世界中からアスリート達を迎え入れるために、様々な工夫が施されています。そのひとつが、『女性用立ち小便器』(写真22→30)。

東京オリンピックの際に世界中からやってくる選手の中には、女性が立ちながら用をたすのが一般的な地域もあるため、選手用の女子トイレには、『女性用立ち小便器』が設置されたのです。現在はこの女子トイレ、使われていないそうです。

競技場のスタンド下からトラックを横切らずにトラック内部へ行く選手用の地下通路があったが、現在は利用されていない。

フィールド

投擲競技や跳躍競技が行われる部分。トラック内側をインフィールド、外側をアウトフィールドと呼ぶ。インフィールドをサッカー競技やラグビー競技などを行うスペースとして利用できる競技場も多い。このような競技場の場合、芝生の保護という観点から、通常は投擲競技の練習ができず、サブトラックなどで行われることが増えている。

走幅跳・三段跳には直線助走路と着地場所である砂場、棒高跳には直線助走路とポールを突き立てるためのボックス、走高跳には扇形の助走路が設けられる。ハンマー投と円盤投のサークルは兼用されることが多いが、砲丸投のサークルは別に設けなければならない。やり投の助走路は直線で36.5mある上に、やりの飛距離が100m近くにもなるため、トラックの曲線部を横断する形で設けられることが多い。

走幅跳・三段跳の助走路と砂場はアウトフィールドに設けられることが多い。これらをインフィールドに設けてしまうと、インフィールド内の面積が制限され、サッカーやラグビーのピッチの規格に合わなくなってしまい、事実上陸上競技専用競技場になってしまうためである(例:千葉県総合スポーツセンター陸上競技場)。走幅跳・三段跳の直線助走路と砂場がインフィールドとアウトフィールドどちらにあった方が競技を行いやすいかは競技者によって区々のようである(写真19→21)。

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「〜グラウンドキーパー汗と涙の奮闘記〜」

芝生のルーツ

国立競技場の芝生の美しさの秘密に迫る「グラウンドキーパー汗と涙の奮闘記」。ご覧になる皆さんに国立競技場の芝生がどのように造られ、育てられ、美しさを保っているのか、詳しくそしてわかり易く紹介していこうというコーナーです(写真6→17)。

国立競技場の芝生のルーツをたどり、いかにして芝生は美しくなったのか、その経過と歴史を紹介していきたいと思います。

国立競技場は、1958年(昭和33年)4月に設立されました。その当時フィールド内の芝生はアジア大会等の開催のため、各競技場の芝生を参考にして「ノシバ」が使用されていました。

また、翌年の第18回オリンピック開催地として決定された事を受けて、競技会場施設の芝生に関する研究機関が設けられました。同機関による実験・研究の結果「姫高麗芝(ひめこうらいしば)」が競技場用の芝生として最良の品種とされ、国立競技場でも採用されることになりました。

東京オリンピック後もスポーツに対する関心が高まり、競技場の使用頻度も増えたため「姫高麗芝」より丈夫で、繁殖力旺盛な「ティフトン芝」が1969年に採用され今日に至っています。

この「ノシバ」、「姫高麗芝」、「ティフトン芝」は暖地型芝または夏芝とよばれ、春、夏の暖かい時期に良く育ち、秋、冬には枯れて茶色になってしまいます。熊が春を待って冬眠するように、この暖地型芝として分類される芝生は暖かい時期に活動し、寒い時期は冬眠(休眠)してしまいます。

ここでひとつ問題が発生します。秋、冬といえば陸上やサッカー、ラグビーなどはシーズンの真っ最中で、たくさんの試合が開催される時期です。「そんな大事な時に芝生が眠ってしまうなんて何のための芝生なんだ!」ってことになりますよね。

でも、昔は、「冬に芝生が茶色い(枯れる)のは当たり前!」という考え方が主流だったので誰も気にしなかった…と言いたいところですが、気にしていた人達がいたんです。国立競技場といえば、国内のビッグゲームはもちろん、世界的にも注目されるような国際大会なども数多く開催されます。

世界の一流選手は、一流の舞台で一流のパフォーマンスを披露して観客を喜ばせます。一流の選手、一流のパフォーマンス、ここまでは申し分ないのですが…。ナショナルスタジアム=一流の舞台、誰もがそう思うでしょう。ところが…芝生が枯れていては一流とは言えません。

こんなエピソードがあります。国立競技場で開催されるビッグゲームといえば、サッカーのクラブチーム南米代表と、ヨーロッパ代表が世界一の座をかけて激突するトヨタカップが有名ですが、トヨタカップでは、前日にピッチ(芝生)状態を確認するために、公式練習を行います。

練習後、ヨーロッパ代表のチーム関係者がこんな事を言ったそうです。「ところで、明日の本会場はどこにあるのか?」もちろん、この人は本会場がどこかなんてことはわかっています。枯れた芝生の上でサッカーをするなんてヨーロッパでは考えられないことだったのでしょう。

とは言ってもグラウンドキーパーは何の努力もしなかったわけではありません。当時は、土埃のグラウンドに枯れた芝生でも、とにかく葉を残すように努力していました。葉が残っていれば緑色に着色をして見た目だけでもなんとか改善できる、「色を付けてでも、青い芝生の上でプレーしてもらいたい。」そんな思いから着色作業は1986年から88年まで行われていました。しかし、いくら葉を緑に染めてもそれはごまかしでしかなく、生きた芝生には到底及ばないのが現実でした。

それから、何年か試行錯誤の末、ある事からヒントを得ることになります。そのヒントとはゴルフコースです。アメリカ、オーガスタで行われる世界四大トーナメントの1つ、マスターズゴルフトーナメントは、世界のトップクラスの選手達によって優勝が争われます。

オーガスタゴルフコースは国立競技場と同じ「ティフトン芝」が採用されていましたが、ただひとつ違う点がありました。それは、冬も芝生が青い、生きた芝生が育てられているという点でした。

出典・SPORTS JAPAN(日本スポーツ振興センター)芝生の話 「なぜに国立競技場の芝生は美しいのか?より抜粋。

グラウンドレベルの1階部分に入ると、普段は報道関係者も立ち入りできない選手更衣室へ(写真18→26)。

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