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 4月2日に開場する歌舞伎座と背後にそびえる高層オフィスビル「歌舞伎座タワー」(東京都中央区銀座)の完工式が、26日午前、タワー最上階の29階で行われた。

日本俳優協会会長の坂田藤十郎さん、尾上菊五郎さん、中村吉右衛門さんをはじめとした歌舞伎俳優や、松竹関係者ら約400人が出席。神職による神事などが行われた。

4月から1年間の杮葺落興行
 新開場となる歌舞伎座の初日は2013年4月2日。「これからの歌舞伎座百年に向けて最初の1年間を、杮葺落(こけらおとし)興行とします。そこで、できるだけ大勢のお客様にご覧いただきたい」。そのため、4月から6月までの3カ月は、「三部制興行」、27日間公演となります。7月からは若手が活躍する興行で芸の継承を、そして、秋から翌春3月までは古典の名作、通し狂言、新しい企画などを打ち出す公演が行われます。

舞台は第四期歌舞伎座を踏襲
 新しい第五期歌舞伎座は「第四期の精神を忠実に復元する」ことをモットーに、桃山形式の外観、意匠や具材を活かした内装が決められました。バリアフリー化や災害時の避難拠点となることなど、建物についての詳細は、 松竹のホームページで順次、発表する予定です。

 新しい舞台は間口の左右が91尺(27.573m)、高さ21尺(6.363m)、廻り舞台の直径は60尺(18.18m)と、第四期歌舞伎座と同じ大きさとなります。さらに、廻り舞台には従来の松竹梅の3つのセリのほか盆の半面に大ゼリがつくられ、舞台上手袖も9m広くなり、舞台転換がよりスムーズに行われるようになります。花道も60尺(18.18m)と、前期歌舞伎座の長さを踏襲しています。

一幕見席も継承
 座席数は1808席。これは第四期歌舞伎座より60席ほど少なくなりますが、1階は後方にあった柱が取り除かれ、座席や通路の配置を変えたことで逆に席数は増加、4階に常設される一幕見席の数も増えます。また、後方席が見やすいように、客席全体の勾配も改良されます。

 座席寸法も改善され、たとえば一階席では幅が3cm広がり、前列との間隔も6cm広がってゆったりします。このほか、現在のイヤホンガイドだけでなく、前の座席の背に掛けるポータブルタイプの「字幕ガイド(仮称)」の貸出しも予定されています。

シンボルマークも発表!
 新しい歌舞伎座と背面のオフィスビル「歌舞伎座タワー」を合わせて「GINZA KABUKIZA(ぎんざかぶきざ)」と命名、そのシンボルマークも発表されました。「イザ、ギンザ、カブキザ。」のキャッチコピーとともに、「歌舞伎を中心とする古典の殿堂」として歌舞伎座を位置づけ、銀座の活性化を担うランドマークとして、夜間の外観ライトアップほか、様々な施策がこれから打ち出される予定です。

 また、歌舞伎座タワー5階には「歌舞伎座ギャラリー」が設けられます。「歌舞伎を初めて見る人、見たことのない人にも歌舞伎の魅力を体験してもらえる場所に」と、歌舞伎の衣裳や小道具、映像などが展示され、ホールでは歌舞伎のスタッフを招いてのトークイベントなども行って、海外のお客様や小中学生にも歌舞伎の魅力をアピール。古典芸能の裾野を広げる文化発信基地となります。

写真は最後の公演日から完成までのGINZA KABUKIZA。

 歌舞伎俳優の尾上菊之助が26日、歌舞伎俳優・中村吉右衛門の四女の波野瓔子(ようこ)さんと東京・千代田区の神田明神で挙式した。大勢のファンが見守る中、雅楽の音を先頭に社殿を歩き、神輿(みこし)も登場する祝言を終えた菊之助は「歌舞伎役者らしい式になったと思います。『最高におめでたい婚』ですね」と晴れやかな笑顔で語った。

 挙式を終えた菊之助は、瓔子さんと境内で囲み取材に応じた。春の気配を感じる日差しを浴び、「祝詞(のりと)をして、三三九度とさせていただいた時にやはり(結婚したんだと)実感しました」と笑顔。24日に入籍を済ませ、「これで同じ道を歩んでいくんだな、と実感しました。お互い感謝し合って支え合っていきたい」と夫婦となった実感をかみしめた。

 この日は東京・東銀座の歌舞伎座の立て替え工事が完了し、4月2日のこけら落とし公演を前に、坂田藤十郎をはじめ、菊之助の父・尾上菊五郎、瓔子さんの父・吉右衛門らが参加して竣工式が行われた。

 菊之助は「これから歌舞伎座の中心となれるよう(精進していきたい)」「(亡くなった)成田屋の兄さん(市川團十郎)と成駒屋の兄さん(中村勘三郎)の魂がここにきている、と思いました」と歌舞伎界を背負って立つ決意を語った。

 瓔子さんは「お母様に教えていただきながら、音羽屋さんを守っていけるようがんばります」と話した。

 幼いころから顔見知りだった2人は、2年前に食事をしたことで急接近。昨年12月から真剣交際に発展し、12月末に菊之助がプロポーズした。9月に都内で披露宴を予定している。

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二日、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)スタート地点付近を撮影後、浅草寺へ初詣、その帰路浅草公会堂で鏡開きに遭遇、人垣の中の様子を何とか写す事が出来ました。

 歌舞伎俳優、市川海老蔵(35)が2日、東京・浅草公会堂で初日を迎えた「新春浅草歌舞伎」(27日まで)の開幕前に鏡開きを行い、約700人に酒を振る舞った。

 「成田屋!」の大向うの中、「浅草公会堂を盛り上げて、少しでも、浅草のためになるよう精進努力して参ります」とあいさつ。14年ぶりの同所公演で初役となる「寿曽我の対面」の工藤祐経、「幡随長兵衛」の幡随長兵衛、「毛谷村」の杣斧右衛門の3役に意欲を見せた。

 また、昨年12月18日に京都・南座の「吉例顔見世興行」中に体調を崩し、その後、肺炎の兆候があると診断され、この日初日を迎えた新橋演舞場「壽初春大歌舞伎」(26日まで)を休演した父で歌舞伎俳優の市川團十郎(66)について問われ、「入院中です」と応えていた。


江戸時代、浅草の町は江戸随一の繁華街として栄え、現在の浅草公会堂のある場所からほど近い猿若町には、天保以来、「江戸三座」と呼ばれる幕府公認の芝居小屋が立ち並び、大変な賑わいであったと伝えられています。その後も、明治、大正、昭和と浅草はショービジネスの中心地として栄えていきます。しかし、第二次世界大戦後、浅草での歌舞伎興行はしばらく途絶えていましたが、昭和55年のお正月に「初春花形歌舞伎」として浅草での歌舞伎興行を復活いたしました。それ以来、浅草公会堂にて初芝居の公演を催し、大人気を博しています。

初詣客で賑わう浅草寺に近い浅草公会堂、その正面玄関に現れたのは、スーツ姿の「新春浅草歌舞伎」出演者たち。平成生まれも6人参加というフレッシュな顔ぶれで、新年のご挨拶とともに、それぞれが公演にかける思いを話しました。

 全演目に出演する海老蔵が、「14年ぶりの浅草公会堂。出演者が一丸となって盛り上げます!」とこれからの1カ月に向けて意気込みを話すと、正月の浅草公演ではすっかりお馴染みの愛之助は「すべてが初役です。新たなメンバーと熱い舞台を繰り広げます」と、こちらも気合十分の挨拶。同じく浅草常連の亀鶴は若い共演者たちの顔ぶれを見て「時の流れが速いと感じますが、皆様は歌舞伎の中に流れるゆったりとした時間を楽しんでください」とアピールしました。

 また、昨年に続いて2回目の出演となる俳優も多く、松也は「大役へ挑戦させていただきます」、新悟は「来年、再来年に向けて盛り上げていきます」、米吉は「この日の挨拶を1年考えてきたのですが、思い浮かびませんでした」と笑いを誘い、隼人は「若手がいいお役をさせていただけてうれしい」、種之助は「千穐楽まで精一杯勤めます」、壱太郎は「4役すべて初役。感動していただける舞台を」と、それぞれ新春の舞台に臨む強い気持ちを語りました。また、初参加の梅丸も「一所懸命勉強したい」と初々しいひと言。

 若い出演者たちの熱気あふれる挨拶が続くなか、右之助、市蔵、吉弥の3人は久しぶりの浅草出演とあって、それぞれに出演の感慨を述べ、千穐楽まで懸命に舞台を勤める意気込みを語りました。集まった浅草歌舞伎のファンから、若手を支える3人に向け期待の大きな声援がかかると、市蔵が昨年暮れの勘三郎さんの葬儀に触れ、「ご当地浅草の方々の温かいお心をいただき、感謝しております」と、俳優たちの気持ちを代弁しました。

 最後に16年ぶりの浅草出演となる孝太郎が、「お稽古の海老蔵さんのにらみで、すっかり体調がよくなりました。成田屋さんのにらみは本当に無病息災。皆様ぜひ、浅草へお越しください!」と、ご挨拶を締めくくったあとは、早朝からお越しいただいたお客様へ、出演者たちから樽酒がふるまわれました。

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天皇陛下78歳 ご感想全文
 先月マイコプラズマによる感染症を患い、入院を余儀なくされたことから、多くの人々に心配を掛けました。私の健康を気遣ってくれた人々の気持ちに対し、謝意を表します。退院から日もたち、皇太子に委任していた国事行為も再開することができるようになり、体調も今では発病前の状態と変わらないように感じています。今後とも健康に十分気を付けながら新年にかけての行事を務めていきたいと思っています。

 3月11日に起こった東日本大震災は、今から88年前の大正12年、10万人以上の死者を出した関東大震災以来の大きな災害で、死者、行方不明者数は2万人近くに上りました。更に後日この地震に誘発された地震が長野県の栄村を始めとして各地で起こり、犠牲者が出たところもありました。家族や親しい人を亡くした人々の悲しみはいかばかりかと察しています。また住まいや生活の場を失った人々、原発の事故で住んでいた地域に住めなくなった人々のことが深く案じられます。震災発生以後、皇后と共に被災地や各地に設けられた被災者のための避難所を訪れ、被災者を見舞ってきましたが、これらの訪問を通して、被災者が様々な悲しみや苦しみを抱えつつも、決して取り乱すことなく、強い連帯感を持ち、互いに助け合って困難を乗り越えようとしていることが感じられ、そのことを非常に心強く思いました。また日本各地で、人々が被災者のために支援活動を始めたり、何らかの形でこれに携わろうとしていることも心強いことでした。

 厳しい環境の下、我が身の危険も顧みず、専心救援活動に当たった自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者、また原発事故の対応に当たった、東京電力及びその関係者の献身的努力に深く感謝しています。

 諸外国からも救援の人々が来日し、日本の救援活動を助けてくれました。また駐日外国大使等日本に住んでいる外国人を始め、災害発生後日本を訪れた多くの外国人も、被災地を訪れ被災者を励まされていることに感謝しています。震災に際して頂いた外国元首からのお見舞いの電報の多くに、自分たちは被災者と共にある、という言葉が添えられていたことが思い起こされます。

 歴史を振り返ると、我が国は、今回の地震津波災害とほぼ同じ犠牲者数を記録した明治29年の「三陸地震」を始めとし、これまでにも幾度となく地震や津波による災害を蒙(こうむ)ってきました。しかし、時の経過と共に、次第にその記憶や認識が薄れてきてしまっていたように思います。私が津波の恐ろしさに接したのは、平成5年「北海道南西沖地震」のお見舞いに皇后と共に奥尻島を訪れたときのことです。島は地震と津波で大きな被害を受けており、200人以上の死者、行方不明者が生じていました。少しの地形の違いでも、津波の高さは場所によりかなり違うこと、自動車で逃げようとした人が渋滞で助からず、歩いて高台に上がった人が助かった等と聞いたことが記憶に残っています。記録には津波の高さは青苗の市街地で10メートルを超えた所があると書かれていますから、もしこの度の被災地域の人が、奥尻島の津波災害の状況を更につまびらかに知っていたならば、一刻も早く避難することにもっと力を注ぎ、より多くの人が助かっていたのではないかと残念に思われてなりません。この度の津波災害においても、避難訓練と津波教育が十分行われていたところほど被害者が少なかったと聞き、施設面の充実と共に、今後も避難訓練と津波教育が十分に行われ、災害に当たり少しでも多くの人が危険から守られるよう願っています。

 私どもの住む日本は、四方に海を持ち、山や川も多く、風光に恵まれた島国です。一方、我が国はいくつものプレートが重なり合う所に位置し、地震が多く、火山や急峻(きゅうしゅん)な山川、日頃は人々に幸を与えてくれる海も、時に荒れ、多大な被害をもたらします。この厳しい現実を認識し、災害時における人々の悲しみを記憶から消すことなく、常に工夫と訓練を重ね、将来起こるべきことに備えていかなければならないと思います。

 今、被災地には再び厳しい寒さが訪れようとしています。住環境が十分でない所に住む被災者、殊に高齢者の健康が心配です。寒い冬を皆が少しでも健康に過ごすことができるよう願っています。

 今年は豪雨による災害も、7月には新潟県と福島県で、9月には和歌山県、奈良県他で起こりました。9月に和歌山県等で起こった台風12号による豪雨災害では、森林に覆われた斜面がえぐり取られる深層崩壊というこれまで耳にしたことのない恐ろしい現象が起こりました。こうした災害により100人以上の生命が失われたことは本当に残念なことでした。ただ注目したいのは、7月に新潟県を襲った豪雨災害では、7年前に同地域が受けた豪雨災害時の雨量より更に多くの降雨量があったにもかかわらず、前回に比べ犠牲者の数が少なかったことです。これは前回の災害を教訓として治水や住民の避難に対し、様々な対策が講じられた成果であり、防災に力を注ぐことがいかに生命を守ることになるかを教えてくれます。

 水害はタイ王国でも起こりました。国王陛下は長らく御入院中で、この水害にお心を痛めていらっしゃることとお案じしています。タイの水害は日本の産業にも影響を与え、タイにおいて日系企業が行っていた操業が不能となり、生産に携わっていたタイ人の少なからぬ人数を日本に呼び、生産を再開することになりました。言葉や生活習慣の異なるタイ人が日本での生活をつつがなく過ごすことができるよう願っています。この度の日本における災害及びタイの水害は、改めて今日の世界が様々な国の人々と共に生きる社会であることを感じさせるものでした。

 今年は先の戦争が始まって70年になります。この戦争における死者はおびただしい数に上り、戦後、こうした戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう、日本の人々は、真摯(しんし)に過去を学びつつ、戦後の厳しい困難に耐え、営々と国づくりに励み、今日の日本を築き上げました。戦争の記憶が薄れようとしている今日、皆が日本がたどった歴史を繰り返し学び、平和に思いを致すことは極めて重要なことと思います。

 振り返ると、今年は災害に明け暮れた心の重い年でした。しかし、被災地の人々が、厳しい避難生活の中で、我慢強く耐え、多くの人々がボランティアとして被災者を支援したことは本当に心強いことでした。日本人全体がこの震災に向き合い、被災者のために何かの役に立とうとしていることを感じています。本年もあと僅かになりました。新しい年も被災者に心を寄せつつ過ごしていきたいと思っています。来る年が少しでも良い年となるよう願っています。

産経新聞 12月23日(金)から。

天皇誕生日は、日本の国民の祝日の一つである。日付は12月23日。

天皇誕生日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「天皇の誕生日を祝う。」ことを趣旨としている。その時在位中の天皇の誕生日を祝う日である。天皇誕生日は、慣例により日本の国家の日とされる。1948年(昭和23年)までは、天長節(てんちょうせつ)と呼ばれていた。

天皇誕生日の日付は、1989年(平成元年)からは12月23日である。

天皇誕生日に関して以下の行事を行う。
宮中では、祝賀の儀、宴会の儀、茶会の儀、一般参賀が行なわれる。
伊勢神宮などの神社では天長祭が行なわれる。
海外の日本大使館等の在外公館ではこの日を記念してレセプションが行なわれる(当日ではない)。

皇后の誕生日は地久節(前述天長地久から対比となっている)と呼ばれるが、戦前から国家の祝日にはなっていない。

歴史

古代

天長節の名は古く、唐は玄宗皇帝の誕生日を天長節と祝った事に由来する。729年(天平元年)(中国暦開元17年)に「千秋節」と改められたが、20年後の天宝7年には「天長節」に改められた。「天長」は老子の「天長地久」よりとられている。

日本においては27年後の775年(宝亀6年)の光仁天皇の時代、10月13日に天長節の儀が執り行なわれ、臣下は天皇の好物の酒を献上し、宴を賜ったという

是日天長大酺群臣献翫好酒食宴畢賜禄有差

(これにさきだち同年9月11日に 十月十三日是朕生日毎至此辰威慶兼集宜令諸寺僧尼毎年是日転経行道海内諸国竝宜断屠内外百官賜酺宴一日仍名此日為天長節庶使廻斯功徳虔奉先慈以此慶情普被天下 と勅が下された)。このことは宝亀10年の記録にも見受けられなど、平安時代において既に執り行なわれていた。室町時代の記録としては『御湯殿上日記』に記述がある。

近世・現代

国家の祝日として表舞台に舞い戻るのは、明治元年9月22日(1868年11月6日)に天長節として祝ったときである(同年8月26日には太政官布告で「九月二十二日ハ聖上ノ御誕辰相当ニ付毎年此辰ヲ以テ群臣ニ酺宴ヲ賜ヒ天長節御執行相成天下ノ刑戮被差停候偏ニ衆庶ト御慶福ヲ共ニ被遊候思召ニ候間於庶民モ一同嘉節ヲ奉祝候様被仰出候事」と布達された)。明治2年9月には各国公使を延遼館に呼び寄せ、酒饌を賜い、明治3年9月には諸官員、非職員、華族などの拝賀があって、勅任官は禁中で、奏任官以下は各官省で酺宴を賜い、諸軍艦で祝砲が撃たれた。天長節の儀礼が整ったのは明治5年で、同年の天長節の勅語で

茲ニ朕カ誕辰ニ方リ群臣ヲ会同シ酺宴ヲ張リ舞楽ヲ奏セシム汝群臣朕カ偕ニ楽シムノ意ヲ体シ其ノ能ク歓ヲ尽セヨ

と宣した。ついで奏任官以上の総代として太政大臣三条実美が、華族総代として従一位中山忠能がそれぞれ奉答した。1873年(明治6年)の太陽暦採用後、11月3日に変更。同年10月14日の太政官布告によって国家の祝日と規定された。

その後、即位した天皇の誕生日にあわせて天長節が定められた。1948年(昭和23年)まで年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム、休日ニ関スル件など太政官布告や勅令によって具体的な日付で規定された。戦前は新年・紀元節・明治節ともに四大節の一つとして、盛大に奉祝されていた。

ただし大正天皇の誕生日は8月31日であるが、1912年(大正元年)は明治天皇崩御(7月30日)直後のことであり、服喪に加えて法改正も間に合わなかったために天長節は行われず、1913年(大正2年)から8月31日が天長節となった。しかし、盛暑期であるために各種式典の斎行が困難であるとして、翌年以降は2ヶ月後の10月31日を天長節祝日とし、本来の誕生日を避ける形をとった。また、休日としても1913年(大正2年)に改正された休日ニ関スル件により天長節祝日が制定された。なお、8月31日は行事こそ行われなかったものの休日であることに変わりなく、天皇誕生日による休日が年2回となっていた。

戦後の1948年(昭和23年)は祝日法法が制定され、1949年以降は天皇誕生日として国民の祝日と定められて現在に至る。また、祝日法制定に先立って行われた、「希望する祝日」の政府の世論調査では、「新年」に次いで「天皇陛下のお生まれになった日」が第2位であった。

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89年6月24日に他界した美空ひばりさん(享年52)の二十三回忌法要が20日、東京・日比谷の帝国ホテルで行われた。五木ひろし(63)、小林幸子(57)、石川さゆり(53)ら後輩歌手や音楽関係者約620人が参列、不世出の歌姫をしのんだ。また、歌謡史上最大1001曲を収録したCDボックスセット「ひばり千夜一夜」を8月3日に発売することも決まった。

法要が執り行われた「孔雀の間」は88年暮れに生前最後のディナーショーを行った場所。ひばりさんは同年、大腿骨骨頭壊死と慢性肝炎の大病から復帰しており、この日の祭壇のテーマも「不死鳥」。遺影も88年4月に東京ドームで行った復活公演での笑顔の写真が飾られた。

五木らのほか、橋幸夫(68)大月みやこ(65)川中美幸(55)ら多くの後輩歌手が参列。「川の流れのように」を作詞した秋元康氏(55)も訪れた。発起人代表の作曲家船村徹氏(79)は「ひばりさんの思い出話をみんなでする、そんな“噂供養”にしましょう」とあいさつ。戦後の日本にたくさんの希望を与えてくれた名曲の数々の映像が流れる中、参列者たちが語り合う何ともにぎやかな“噂供養”となった。

幻の映像といわれたブラジル公演(70年)など生前の歌声に合わせ、バンド2組が「悲しい酒」「柔」など7曲を生演奏。まるでひばりさんがその場で歌っているかのような心憎い演出に何度も拍手が鳴った。長男の加藤和也氏(39)は「美空ひばりはいまも現役。皆様のおかげでさらに新たなステージへ旅立てる」と感無量の表情。小林幸子も「ひばりさんは亡くなっていない、今も(多くの人の胸の中で)生きていると本当に感じた」と強調した。

和也氏の現役宣言通り、集大成の“新作”も出る。ひばりさんが歌った計1001曲をCD54枚とDVD2枚に収録した「ひばり千夜一夜」(税込み12万円)。代表曲のほか、78年に録音したまま未発表だった「北上夜曲」「山のロザリア」の2曲も収録。「約1500曲の持ち歌があるからこそできる企画。未来へつながるよう大台に1曲を加えた」と発売元の日本コロムビア。同社ではギネス記録への申請も「検討したい」と明言。特典でライブ音源など33曲をCD2枚に追加収録する。和也氏は二十三回忌を記念した音楽祭などの企画も「今後考えていきたい」と話した。
スポニチアネックス 6月21日(火)から。

写真は江戸東京博物館・美空ひばり展にて撮影。

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ドイツと日本は両国の外交関係樹立150周年を共に祝おうと、クリスティアン・ヴルフ ドイツ大統領と皇太子殿下の名誉総裁の下、日独両国で2010年秋から一年間にわたり多彩な記念行事を実施し、要人訪問などを行っています。

プロイセンの東方アジア遠征団が1860年秋に現在の東京である江戸に到着し、翌61年に日本と修好・通商・航海条約を結び、ここに両国の長年にわたる友好関係の礎が築かれました。日独両国は、その歴史の中でさまざまな時期をくぐり抜け、今日では経済大国に数えられています。また、両国は、経済、科学、政治、文化の分野において互いに重要なパートナーであり、共通の価値観と利害を分かち合っています。

見つめる先は未来です。両国の「埋もれた宝」を掘り出し、未来への架け橋としたいと思います。古くからの緊密な絆に留まらず、新たな絆を構築し、新しいメディアによって日独両国の結び付きを強化し、両国の若い世代の心を射止めるのがその目的です。特に若い人たちの互いの国に対する関心を高めたいと願っています。

本記念事業にはどなたでもご参加いただけます。各種文化機関・団体やドイツ関連機関、またドイツと姉妹都市関係のある自治体、企業や意欲ある個人の方で、日独関連プロジェクトの実施をご予定の方は、下記「日独交流150周年」事業・ロゴマーク使用申請書にご記入の上、ご連絡ください。また、本記念事業へのスポンサー協力等をご検討の方も、併せてご連絡いただければ幸いです。

日独交流150周年事業は、2010年10月16日に多数の方々の参加を得て行われた東京横浜ドイツ学園でのオープニングとともに開幕しました。2010年12月15日には、ドイツのポップミュージックのトップグループである「Tokio Hotel」が、その名を冠した都市、東京で初のコンサートを行い、日独関係はまさに若い世代の積極的関与を活力としていることが証明されました。

2011年1月24日には、皇太子殿下ご臨席の下、ベルント・ノイマン連邦首相府国務大臣(文化・メディア担当)も出席して、外交関係樹立150周年記念式典が開催されました。さらに8月には、ドイツロックフェスティバル、10月には東京でのドイツフェスティバルなど、大規模な行事が計画されています。

皆様もぜひご参加ください!多彩で、活力に満ちた日独交流150周年を一緒に祝いましょう!

「ドイツ大使館 東京」から転載。

日比谷オクトーバーフェスト2011
“最大”のビールイベント、食べて飲んで歌って踊る10日間。

今回のオクトーバーフェストにあわせてドイツ人と日本人がタッグを組み、バンド「ビアゼリグ」が結成されました。本場ドイツの民族音楽をぜひお楽しみください!

楽団名:BIERSELIG ビアゼリグ

Martin Hirsch
マーティン・ヒーシュ bass(写真4)

Susanne Langer
スザンヌ・ランガー accordion(写真7)

Nate Jensen
ネイト・ジャンセン keyboard ※20・21日のみ

Mika Watanabe
渡辺美佳 drums(写真8)

Marcus Pittman
マーカス・ピットマン saxophone(写真6)

Takuro Matsunaga
松永卓朗 trumpet ※20/25/26/27/28日のみ

Atsushi Owaki
大脇淳 trumpet ※21/22/23/24/29日のみ(写真5)

演奏スケジュール

20日:18:30、19:30の2回
平日:15:00、17:00、19:00の3回
土日:13:00 16:00 19:00の3回
※演奏スケジュールは予告なく変更する場合があります。

写真は5月23日会場にて撮影。

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