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関東甲信も梅雨入り

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太平洋側は9日朝にかけて激しい雷雨

8日午前の東海地方に続き、午後3時に気象庁は関東甲信地方が梅雨入りしたとみられると発表した。

平年と同日で、昨年より3日遅い梅雨入りとなった。向こう1週間は日差しが出る日もあるが、低気圧や前線の影響で曇りや雨の日が多くなる予想だ。
 
梅雨前線の影響で、8日は西日本太平洋側を中心に雨が降っている。

前線の北上に伴い東海地方は夕方から、関東甲信でも今夜以降は雨の範囲が広がる見込み。前線に向かって非常に湿った空気が流れ込むため、広い範囲で大気の状態が不安定となり、9日朝にかけて西日本太平洋側や東海地方を中心に、局地的に1時間50ミリ以上の非常に激しい雨が降るおそれがある。

関東の雨のピークは9日未明〜朝

関東は南部を中心に9日未明〜朝にかけて局地的に激しい雨が予想され、東京都心でも明け方に一時的に雨の降り方が強まりそうだ。

落雷や突風、河川の増水や低い土地の浸水などに注意するとともに、9日にかけては西日本〜北日本の太平洋側は強風や高波にも注意が必要だ。

8日に発表された梅雨入り
東海地方   平年と同日 昨年より4日遅い
関東甲信地方 平年と同日 昨年より3日遅い

なお、北陸・東北南部の梅雨入りの平年は6月12日ごろ、東北北部は6月14日ごろとなっている。
出典・ウェザーマップ 6月8日(月)15時0分配信から。

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東京・丸の内の“ベンチアート”イベントとは

プロゴルファーの石川遼選手やチャップリンと記念撮影できちゃう!? そんなユニークなイベントが、9月6日〜10月14日(日)に東京・丸の内で開催されている。

丸の内に歴史上の偉人たちが出現しているのは、「ベンチアートin丸の内」というイベント。丸の内商店会がパートナーシップを締結する、ロンドンの「ボンドストリート」にあるベンチオブジェからヒントを得て実現したもので、丸の内仲通りを中心に有楽町と大手町を結ぶ約1.2kmにわたって、ブロンズ像が設置されている。

ブロンズ像になったのは、チャールズ・チャップリンや坂本竜馬など国内外の偉人から、小栗旬など現在も活躍中の俳優まで総勢20人。人気キャラクターのリカチャンや仮面ライダーも等身大で登場しているため、“憧れの人”に出会える場として話題になりそうだ。ちなみに、人選は、評論家としてテレビなどでもおなじみの山田五郎氏がキュレーターとなって行ったそう。

製作にあたり、本人に近付けるべく身長やポーズ、しぐさなどをも再現。プロゴルファーの石川遼は、ポケットにゴルフボールを入れるなど創意工夫し、1体の原型製作につき約2週間を費やしたのだとか。こだわりを持って製作されたブロンズ像は、そのリアルさから迫力満点だ。この機会に、丸の内で憧れの人と記念撮影しちゃおう!

丸の内仲通りを歩いていたら、あそこのベンチに坂本竜馬が座っていた! そんなサプライズが楽しめる「ベンチアートin丸の内」は、2012年9月6日に丸ビルが10周年を迎えることを記念するイベントだ。

有楽町と大手町をつなぐ丸の内仲通り1.2kmを中心に、20体の等身大の彫像がベンチに座る。その意外性に驚きつつ、街への親しみと丸の内10年の歴史を感じてもらおうというもの。丸の内仲通りは、ロンドン有数の高級ショッピングストリート「ボンドストリート」とパートナーシップ協定を結んでいるが、ボンドストリートにあるベンチオブジェからヒントを得て企画された。

このイベントのために特別に作成された20体の彫像は、まず粘土で原型を作成し、石膏で型を取り、樹脂を流し込んで成形し、ブロンズ色(一部は手彩色)に塗られている。細部に至るまでこだわった造作で、人物の特徴を的確に表しているところも見どころだ。

人物の選考にあたっては、西洋美術史からサブカルチャーまで造詣が深く、テレビ番組「出没! アド街ック天国」の出演者としても知られる山田五郎氏がキュレーターを務める。丸の内の基礎を築いた徳川家康、三菱創業者の岩崎弥太郎とも親交があった坂本竜馬などの歴史上の人物から、プロゴルファーの石川遼、大リーガーの松井秀喜、オリンピックメダリストの卓球選手の福原愛など現在活躍中のアスリートや、所ジョージをはじめとする人気タレントや仮面ライダーやリカちゃんなどのキャラクターまで、バラエティ豊かな面々が選び出されている。
また、「丸の内オアゾ」エントランスには、レンガ造りの東京駅駅舎を設計した明治・大正期の建築家・辰野金吾が、「三菱一号館広場」には、文明開化の明治日本に近代建築を導入し、三菱一号館も手掛けたジョサイア・コンドルが座るベンチが設置される。

当時の最先端技術と自らの理想を投入して造り上げた建築物が、この街で愛され続けていることを建築家がどんな思いで見つめているのか、彼らの隣に座って想像を巡らしてみるのも楽しいだろう。

このベンチアートの期間は「丸の内仲通りガーデニングショー(2012年9月29日(土)〜10月14日(日))」の時期と一部重なり、美しい花とみどりで彩られるガーデニング作品とベンチアートが隣接して展示されるスペースもある。10月1日にはJR東京駅丸の内駅舎の外観復元工事が完成。また、10月14日には国際フォーラムで、日本で48年ぶりとなるIMF(国際通貨基金)総会が開かれ、外国の関係者も多く来街することから、大手町・丸の内・有楽町地区は華やかな雰囲気に包まれるだろう。

各人物のプロフィールが掲載されているガイドマップを手に、お気に入りの彫像を探しに出かけてみてほしい。握手するもよし、肩を組んでみるもよし。清々しい空気の中、偉人たちと一緒にランチを食べてみるもよし。プロレスのジャイアント馬場をかたどった像では、そのボリューム感に圧倒されるかもしれない。

2012年10月1日からは、夕暮れの丸の内仲通りの街路樹に美しいシャンパンゴールドの光が揺れるイルミネーションもはじまる。夜のあかりに照らし出される彫像の陰影も、また一興。彫像たちが醸し出す雰囲気を味わい、触れ合いながらの街歩き。この秋は、丸の内でアート体験をしてみよう。

アルベルト・アインシュタイン/Albert Einstein
西郷隆盛/Takamori Saigo
宝塚歌劇/Takarazuka Revue
リカちゃん/Licca-chan(doll)
仮面ライダー1号/Masked Rider 1
所ジョージ/George Tokoro
チャールズ・チャップリン/Charles Chaplin
徳川家康/Ieyasu Tokugawa
ジョサイア・コンドル/Josiah Conder
石川 遼/Ryo Ishikawa
ジャイアント馬場/Baba Giant
美空ひばり/Hibari Misora
福原 愛/Ai Hukuhara
白鵬/Hakuho
坂本龍馬/Ryoma Sakamoto
鈴木福/Huku Suzuki
小栗旬/Shun Oguri
辰野金吾/Kingo Tatsuno
松井秀喜/Hideki Matsui
芦田愛菜/Mana Ashida
主催 =ベンチアート in 丸の内実行委員会(東京都/千代田区/一般社団法人千代田区観光協会/一般社団法人大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会/NPO法人 大丸有エリアマネジメント協会)協力 =三菱地所株式会社

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 総務省は25日、宝くじの1等の賞金の上限額を現在の3億円から7億5000万円に引き上げる方針を決めた。低迷する宝くじの売り上げを回復させることが目的で、今通常国会に関連法案を提出する。
 宝くじの賞金の上限については現在、くじ1枚当たりの金額の100万倍までと定められ、「年末ジャンボ」(1枚300円)の場合、1等の賞金は最高3億円となる。しかし、宝くじの売り上げ回復策を検討してきた同省の有識者研究会が昨年12月、賞金の最高倍率の引き上げを川端達夫総務相に提言。これを受けて同省は、最高倍率を250万倍に改め、1等賞金を最高7億5000万円まで引き上げることにした>

時事通信 1月25日(水)から。

宝くじは、日本において当せん金付証票法に基づき発行される富くじである。正式名称は「当せん金付証票」。

なお、賞金付きの籤を購入するギャンブル一般を指す普通名詞は富くじが正式。

概要

日本においては、古くは江戸時代などにおいて神社や寺の修復費用を集めるなどの目的で富籤(とみくじ)が発行されていた。1948年に当せん金付証票法(昭和23年法律第144号)に基づき浮動購買力を吸収し、もつて地方財政資金の調達に資することを目的とする為に運営されている。

富くじ自体は刑法により犯罪として規定されてはいるものの、当せん金付証票法に基づく根拠法があるために発売できるのである。海外の富くじを日本国内で購入できないのは当せん金付証票法が外国の富くじを対象としていないため。

沿革
1945年7月16日 - 「勝札」(かちふだ)として発売。抽せん前に敗戦。
物資不足のため、副賞の賞品、タバコやカナキン(純綿のキャラコ)がもてはやされた。 1948年 - 現在の根拠法「当せん金附証票法」が制定。副賞の賞品に住宅一棟が登場。
1954年 - 政府発行のくじ廃止。
1959年 - 現行の7×15cmに統一。
1964年 - 財団法人日本宝くじ協会が発足。
1968年 - 一等の当せん金が1000万円に達する。
1976年12月21日 - 各地で年末のジャンボ宝くじ売り場に群衆が殺到。パニックとなり福岡と松本では死者を出す騒動に発展。
1977年 - 前年の騒動を踏まえ、ジャンボくじの官製往復はがきによる予約制が導入された。
1980年 - 宝くじ「幸運の女神」第1期生デビュー。
1982年 - OCRによる番号読み取り機能を持つ「当せん番号自動照合機」の導入に伴い、開封くじの書式が統一される。一般くじとインスタントくじの複合くじ販売。
1983年 - 売り場でのジャンボくじ予約券配布開始。
1984年 - インスタントくじ販売開始。
1985年 - 根拠法である「当せん金附証票法」が「当せん金付証票法」に改題される。
1987年 - 一等の当せん金が6000万円に達する。(1等:20万倍規定の初適用)
1989年 - 一等と前後賞の当せん金が合わせて1億円に達する。
1994年 - 「ナンバーズ」発売。
1996年 - 予約制の廃止、一等の当せん金が1億円に達する。
1999年 - 「ミニロト」発売、一等の当せん金が4000万円に達する。
2000年 - 「ロト6」発売、同年最高当せん金の4億円が出る。
2008年 - 1等100万円1000本、2等1万円4万本に限定した「ミリオンドリーム」発売。
2010年 - 1等1000万円600本に限定した「1000万サマー」(2011年には「2000万サマー」)発売
2011年 - 「ミリオンドリーム」を「ミリオン」に改称、「東日本大震災復興宝くじ」限定発売

宝くじの方式

現在の宝くじには大きく分けて「開封くじ」、「被封くじ(スクラッチ)」、「数字選択式宝くじ」と3つの方式がある。

開封くじ

開封くじとは、一意の番号が印刷された券を一定の金額(1枚100〜500円)で購入し、後日の抽せんで番号が一致すれば現在は100円〜最高で数億円の当せん金を受け取ることのできる宝くじ。1945年より発売が始まり、1959年のサイズ統一、1982年の「当せん番号自動照合機」導入に伴う規格統一を経て、現在に至る。 ジャンボくじなどはこの方式であり、単に「宝くじ」といえばこの方式のくじを指す。

発売元・販売地域などによって、以下のような分類がある。なお、発売元が記載されていないものは、販売地域内の全都道府県・政令指定都市が発売元である。サマージャンボ宝くじ(市町村振興が目的のため、政令指定都市は発売元とならない)など、一部例外がある。
全国自治宝くじ - 全国で販売
東京都宝くじ - 東京都で販売
関東・中部・東北自治宝くじ - 北海道・東北・関東(東京都を除く)・中部地方(三重県を含む)で販売
近畿宝くじ - 近畿地方(三重県を除く)2府4県で販売
西日本宝くじ - 中国・四国・九州および沖縄県で販売
地域医療等振興自治宝くじ(レインボーくじ、地域医療等振興分) - 発売元は栃木県(県内に自治医科大学があるため)、販売地域は東京都、北海道、大阪府、京都府および青森・宮城・福島・茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・神奈川・新潟・長野・岐阜・静岡・愛知・三重・兵庫・岡山・広島・山口・愛媛・福岡・長崎・熊本・鹿児島の各県

このうち、「東京都宝くじ、関東・中部・東北自治宝くじ、近畿宝くじ、西日本宝くじ」をあわせてブロックくじと呼ぶ。
出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

我国の精製糖発祥之地

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「我国精製糖発祥之地」記念碑について

静岡県森町出身の菓子・氷砂糖の製造業者である鈴木藤三郎は、明治23年(1890年)、東京府南葛飾郡砂村(現在の江東区北砂)の鈴木製糖所にて、苦心の末に日本ではじめて純白の砂糖(上白糖)の製造に成功しました。
その後、鈴木製糖所が基になって、明治28年(1895年)にはわが国最初の近代的製糖事業として、日本精製糖株式会社が設立されましたが、これが当社の創業にあたります。

もともと小名木川畔は水運が発達し、砂糖の原料や製品の運搬に便利であったことから、その後も大日本製糖株式会社の東京工場として、昭和15年(1940年)まで精製糖事業は継続されました。
また同地は、江戸時代に八代将軍徳川吉宗がはじめて甘蔗の苗を試植させたというゆかりの土地でもありましたので、昭和16年(1941年)には当時の社長 藤山愛一郎によって「我国精製糖発祥之地」の記念碑が建立されました。

現在は、江東区教育委員会により「精製糖工業発祥の地」の案内文が掲示されています。

案内文
精製糖工業発祥の地 (北砂5−20・21)
砂糖は8世紀に伝来し, 17世紀後半までは 薬として珍重されてきたといわれています。江戸時代には, 8代将軍 徳川吉宗が 国産化を奨励, 明治に入ると, 日本の各地で 精製糖(白砂糖)の製造が試されるようになります。しかし, いずれもうまくいかず, 明治23(1859)年, この地に建てられていた 鈴木藤三郎の製糖所で ようやく成功し, 砂村において 日本ではじめて純白の砂糖が誕生しました。
鈴木藤三郎は, 安政2(1855)年 遠江国(静岡県)に生れ, 明治17(1884)年より氷砂糖を製造していました。同22年, 上京し, 砂村に工場を移し, 同25年から 本格的に精製糖の製造を開始しました。
藤三郎が 工場の移転地としてこの地を選んだ理由は, 原料や製品の運搬に 小名木川の水運が とても便利だったからです。また砂村は, 砂糖の国産化の奨励地として, 徳川吉宗が 甘蔗(さとうきび)の苗を栽培させた, 極めて砂糖とゆかりの深い土地であった ためでもありました。
平成4年3月  江東区教育委員会

砂糖とは、甘みを持つ調味料(甘味料)である。主な成分は糖(おもにスクロース、ショ糖ともいう。)である。スクロースは、グルコース(ブドウ糖)とフルクトース(果糖)が結合した糖であり、二糖類の一種である。

原料と製法

サトウキビ

サトウキビの茎を細かく砕いて汁を搾り、その汁の不純物を沈殿させて、上澄み液を取り出し、煮詰めて結晶を作る。伝統的な製法では、カキ灰に含まれるカルシウム等のミネラル分が電解質となり、コロイドを凝集させる為、カキ殻を焼いて粉砕したカキ灰を沈殿助剤として加える例もある。煮詰めてできた結晶と結晶にならなかった溶液(糖蜜)の混合物を遠心分離機にかけて粗糖を作る。粗糖の表面を糖蜜で洗った後、さらに遠心分離機にかけて、結晶と糖蜜を分ける。その結晶を温水に溶かし、不純物を取り除き、糖液にする。それを煮詰めて結晶を生じさせ、真空状態のもとで糖液を濃縮する。結晶を成長させた後、再び遠心分離機にかけて、現れた結晶が砂糖となる。

光合成において飽和点が高いため、他の植物よりも多く糖質を生産できる。

テンサイ(サトウダイコン)

テンサイの根を千切りにし、温水に浸して、糖分を溶け出させて、その糖液を煮詰め、ろ過して不純物を取り除き、真空状態のもとで糖液を濃縮し、結晶を成長させた後、遠心分離機にかけて、現れた結晶が砂糖となる。

サトウカエデ

サトウカエデの幹に穴を穿ち、そこから樹液を採集する。その樹液を煮詰めて濃縮したものがメープルシロップである。これを更に濃縮を進めて固体状になったものがメープルシュガーである。

サトウヤシ

樹液からパームシュガー(椰子砂糖)が作られる。

歴史

サトウキビの原産地は、南太平洋の島々で、そこから東南アジアを経て、インドに伝わったとされる。紀元前2000年ごろにインドで砂糖が使われており、サトウキビから砂糖を作ったのは、インドが最古である。インドの砂糖やサトウキビは、アラビア人によってペルシャ・エジプト・中国などへと伝えられた。英語:sugar と、日本語:satou の頭部は、砂糖をあらわす梵語からきた、語源を同じくする言葉である。

日本には奈良時代に鑑真によって伝えられたとされている。中国においては唐の太宗の時代に西方から精糖技術が伝来されたこと(それ以前の中国では、砂糖はシロップ状の糖蜜の形で使用されていた)により、持ち運びが簡便になったためとも言われている。当初は、輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていた。琉球王国では、1623年に儀間真常が砂糖生産の奨励を始めた。

江戸時代の将軍徳川吉宗が琉球からサトウキビをとりよせ、江戸城内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励した。ヨーロッパには、11世紀に十字軍が持ち帰り、地中海周辺でサトウキビが栽培されるようになった。

1747年にドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフがテンサイから砂糖と同じ成分をとりだすことに成功した。フランスやドイツでテンサイが栽培されるようになった。ナポレオンがこのテンサイに注目し、製糖業が発達した。

生産量

日本
砂糖の日本国内消費・生産は、1995–2004年度の10年間平均値(1995年10月–2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。

南北に長い日本列島はサトウキビの栽培に適した亜熱帯とテンサイ(ビート)栽培に適した冷帯の両方が存在する。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。 サトウキビの主たる生産地は沖縄県や鹿児島県で、戦前は台湾で砂糖が大量に生産されていた。テンサイの生産地は北海道。

種類
含蜜糖 - 黒砂糖・白下糖・カソナード(赤砂糖)・和三盆
分蜜糖 - 粗糖 - 精製糖 精製糖 - ザラメ糖・車糖・加工糖・液糖 ザラメ糖 - 白双糖・中双糖・グラニュー糖
車糖 - 上白糖・三温糖
加工糖 - 角砂糖・氷砂糖・粉砂糖

化学成分
単糖類:フルクトース(果糖)、グルコース(ブドウ糖)、ガラクトース(脳糖)
二糖類:スクロース(ショ糖)、マルトース(麦芽糖)、ラクトース(乳糖)

ショ糖を酵素的に分解してできる果糖とブドウ糖の混合物(転化糖)は、砂糖より甘みの強い甘味料として使われる。水分保持効果があり、寿司飯に加えるとデンプンの老化を抑えて冷えてもおいしさが長続きする。

砂糖が脳が疲れたときによいといわれるのは、生物体内で砂糖が分解されて生じるブドウ糖が、脳活動のエネルギー源としてたちどころに供給されるためである。2007年、脳のエネルギー源は砂糖しかないと一部の人が誤解を招くCMが流され、問題となった。

健康問題

砂糖は肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視されることもある。ただし、油脂にも共通する問題であるが、これらは実際のところ口当たりが良く、大量に食べても味覚が飽和するだけで「(食塩のように)味がきつくて食べられなくなる」ことがないため、ついつい一度に摂取しすぎるのである。どのような食品でも過剰に摂取すれば害になり、適切な摂取が健康を維持することにつながる。砂糖に関しては砂糖依存症が科学的に示されており、ほかの食品とは違った過剰摂取が起こる。

WHO/FAOは、レポート『慢性疾患を予防する食事・栄養素』(Diet, Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2002年)において慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し、将来、食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している。なお、日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類をすべて砂糖に換算した場合、成人で約50—70g程度の量(3gスティックシュガーで17—23本分)に相当する。

一方、アメリカの消費者団体CSPI(Center for Science in the Public Interest)は、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」と主張し、FDA(米国)へソフトドリンクの容器に健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けるよう請求している。アメリカでは肥満対策のため、公立学校で砂糖を多く含んだ飲料を販売しないように合意されている。アメリカでは、マクドナルドやペプシコなど11の大企業が、12歳以下の子供に砂糖を多く含む食品など栄養価に乏しい食品の広告をやめることで合意している。イギリスでは2007年4月1日に砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制された。

う蝕(虫歯)と砂糖との関係はよく知られているが他にも砂糖と疾病との関係が指摘されている。
高カルシウム尿症の尿路結石症患者は砂糖の過剰摂取をしないように勧告されている。
膵癌との関連が指摘されている。
虚血性心疾患に関してはアメリカ心臓協会の2006年の生活指針は、砂糖の多い食べものを減らすようにすすめている。
注意欠陥・多動性障害 (ADHD) と砂糖との関連を示す小規模な研究報告が継続的に報告されている。2006年には、5000人以上と規模の大きい研究で砂糖の多いソフトドリンクの摂取量とADHDとの相関関係が観察された。

その他

賞味期限

日本で販売されている砂糖のほとんどには、賞味期限が記載されていない。理由は食品衛生法やJAS法で、賞味期限の表示を免除されているためという。一部のメーカーでは、代表的な長期保存の可能な食品である缶詰の賞味期限に倣う形で、製造後3年に設定していたことがあった。他の調味料の賞味期限の内部的な目安が3年程度とされることから、事実上の賞味期限(メーカーが品質を保証できる期間)は3年から5年程度と考えられる。

副生成物の利用

搾りかすなどの副生成物の年間排出量は、世界中で約1億トン以上で、製糖工場自身の燃料として利用されるだけでなく、石灰分を多く含むため、製鉄、化学工業、大気汚染防止のための排煙脱硫材、上下水の浄化、河川海域の水質底質の改善、農業用の土壌改良材 など様々な利用がされている。また搾りかすの一部は、堆肥として農地に還元[28]されるほか、キクラゲの菌床栽培の培地原料としても利用される。
出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

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画家は、絵画を制作する者の総称である。日本画や洋画など、画風や画材・作成スタイルなどによって、様々なタイプの画家が存在する。画家たちで形成されるコミュニティー(社会)を画壇(がだん)という。

画家は現代においてこそ芸術家であるが、ルネサンス期やそれ以前においては、「絵を請われて描く」という基本行動からして職人であった。

更に遡ると、洞窟壁画などを描いた者にたどりつく。この壁画制作者は後世に当時の様子を伝える記録者であり、また同時に観察者でもあった。ただし壁画を描いた当時の者に観察者や記録者という意識があったわけではなく、「何故彼らが絵を描くという行為に臨んだのか」という疑問には不明確な面が多い。その一端には、「原始宗教における儀式的な行為として、食料となる狩りの獲物を描くことによってこれを安定的に得ようとする意図があった」「死者を弔う際、葬られた者が寂しくないよう墳墓(古墳など)の内部に装飾を施したり、呪術的な力で魂を導いたり復活を願った」などの推測が考古学の研究でなされている。この分野では、落書きのような本来重要性の無さそうな壁画からも重要な情報が見出される。それらの壁画は、当時の風俗や風習、生活様式から気候・風土などを知る重要な手掛かりとして役立てられている。

中世の社会では、権力者の娯楽や、あるいは宗教の権威の象徴的事物として描かれた宗教画などが職人としての画家によって描かれていった。偶像崇拝を禁じなかった宗教においては、盛んに聖書など経典を題材とした宗教画が制作されていた歴史が見出される。この時流によって、画家は宗教家やその宗教を支持する権力者が求める絵画を描き、その意向に沿った絵画を制作することによって手厚く保護されていた。

近代以降、絵画それ自体が財産としての価値を持ちえるようになったため、次第に画家は絵を描くことで対価を得ることができるようになっていった。この価値観の変化に伴い、従来からある絵画(記録としての絵画・装飾や娯楽としての絵画など)のほかにも、画家自身が求めるテーマで絵画が制作されることも着実に増加していく。著名な画家は、スポンサーの意向による制約から脱却して、自身の芸術性を追究するまでになっている。

産業革命以降、絵画の制作に必要な画材が大量生産により安価に入手できるようになっているため、実利を伴わない趣味としての画家も着実に増加している。日曜画家(休日に絵画を趣味として描く者)も同時代に前後して登場、アンリ・ルソーやポール・ゴーギャンのように後世に名を残す者も現れている。

歴史
ここでは絵画の製作者の器具や技法、組織の発展について述べる。

原始時代
まだ人類が狩猟と採集のみで暮らしていた時代に、ラスコー洞窟やアルタミラ洞窟などで、非常に描写力の高い壁画が描かれていた。これは捕獲対象の鳥獣を詳細に記録し、大猟を願う意図で描かれたと推定されている。

これらは目に見えるがままの図像を得る目的のみのために描かれていたため、写真技術が発達した近代になってようやく確認された、草食獣が走るときの足の動きまで正確に描写されていた。この頃は、現在の高性能カメラとしての役割を画家が果たしていた。

これらの壁画は、自然の洞窟の壁面に、土・炭・血液・樹液等から作った顔料(絵の具)で、動物の体毛・樹木の枝・指などを用いて描かれていた。

こういった記録は、しばしばこれらの時代の周辺の気候を含む自然環境を知る内容を含む。例えばサハラ砂漠のタッシリ・ナジェールにある2万点に及ぶ岩絵は、その地で成された人の営みを通してどのような土地であったかが描かれている。絵が最初に書かれた約8,000年前には、水の豊かな緑の土地があったこと、その地で狩猟を行っていたことが示され、泳ぐ人の姿も描かれた。更に時代を下って約6,000年前には更に土地は豊かとなり、ウシの牧畜が営まれていたことも伺われる。しかし約4,000年前には次第に地域は乾燥化に向かい、残った湿潤な土地を求め争いもあった様子も描かれ、2,000年前にはついに砂漠化、ラクダが描かれ土地は厳しい乾燥に見舞われたことが伺われ、同時代を最後にこの岩絵は描き続けられなくなった。

中世
社会がより複雑化、国家などの形成にともない、権力者の下に莫大な富が集約されるなど、社会構造がより巨大化していったが、その過程で職人としての職業画家が台頭し始めるようになる。彼らは権力者、あるいはその権力者の庇護を受ける宗教家の求めに応じ、大規模な作品を制作するようになる。この時代において、宗教施設・城塞などの軍事拠点・権力者の生活空間を彩るものとして制作された絵画が現存している。この時代以降、優秀な画家は無名の職人ではなく、名の知られた芸術家としての地位を築くようになっていった。

近世
近世においては分業化も進行、美術家としての地位から、ときの支配者層とも対等に扱われたり、絵画制作場所としてアトリエを構えるなど一定の社会的地位を獲得している。ただしこの当時のアトリエは、美術活動の場というよりも、根源的な工房としての性質も根強い。

この時代において画家の活動も組織化され、アトリエでは師弟関係にある画家の集団が肖像画のような記録映像としての絵画から、装飾美術的な作品まで幅広く手掛け、抽象的ないし象徴的な絵画も数多く制作されるようになっていった。西欧を中心としたルネサンスのような美術にまつわる社会運動も発生している。

近代
近代では、美術絵画は確固とした社会的地位を得て、美術の様式にも様々な方向性が発生している。社会が産業革命を経て豊かになっていったこの時代、絵画の制作は職人や芸術家だけのものではなく、趣味としての活動にも広まりを見せ、更には広告など大衆文化にも影響を与えるような商業美術も盛んになっていった。

この時代においては、過去からの膨大な美術的資産に基づいた伝統的技法から、いわゆる近代絵画に象徴される流派も発生するなど、多様化が進んでいる。

現代
現代において、画家は、職業人としての画家、芸術家としての画家、あるいはイラストレーターに代表される商業美術を手掛ける、より大衆的な存在、また趣味性によって絵画を描くことを楽しむ者、あるいは漫画のような娯楽作品を制作する漫画家など、様々な類型を内包する概念となっており、更におたく文化と連動して、自身の趣味性から漫画の延長的な独特の技法を用いたイラストレーションを制作する者など、その類型は無数に存在する。

趣味性に立って描いた絵をインターネットなどを通じて発表する者もいて、なかには子供の落書きのようなものから、同人活動によって所定の知名度を獲得する者、その中から職業として収益をあげる者まで登場するなど、様々な活動の形態を見出すことが可能である。

印刷技術の発達から、出版物のみならず、画材や制作環境としてパーソナルコンピュータが利用され、最初から電子化されたデータとして様々な方面での利用が見られ、業務用の高性能プリンターからプリントアウトした画像[2]は、安価に入手可能な芸術作品としても扱われる。またコンピュータゲームなどにおいても、映像表現としてのイラストレーションが取り込まれており、人気画家が作画に参加している作品に人気が集まる事例もあるなど、紙やキャンバスなどに直接画家が絵画を制作していた時代よりも複製しやすく、大衆が作品を目にする機会もより増大し、その大衆が支払う対価を商業的に集約して画家に多くの著作料が支払われるなど、権力者や有力者がパトロンとなって一点一点制作していた時代よりも、画家個人がその表現能力で大きな財産を獲得しやすくなっている
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

写真はヒツジグサ(未草)を写生するアマチュア画家=都立水元公園(葛飾区)で。

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