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今月は、これ。ED42。こういうのを残してくれた爺様に感謝!ただし、撮影データは一切不明。
機関車のすぐ後ろが客車、ということは、この列車の長野側端であるということ、尾灯周りの標識がたたまれていることから、こちらが先頭で、つまり「下り列車である」こと、くらいしか、写真からは判断できません。
架線が写っており、軽井沢(?)の構内ではパンタを上げて走っていたとかいう話も聞きましたが、どこの駅か解りません。粘着運転開始の直前かも知れませんし。
第三軌条というもの、ラックレールというものを、しっかり撮っておいてくれたので、話だけでしか「アプト」を知らない親父にも、セガレにも、良く解ります。
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18番線、「爺様の業績」(?!)
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確証はありませんが、跨線橋のイメージと、左後ろの山から横川駅の軽井沢方ではないかと思います。
このED42ってキャブが横川方のみについていて、この正面は運転席がなかったのです。写真右のずっと後ろに車体幅が少し広くなったあたりが運転席です。前の視界はほとんどなかったのでしょうね。もっとも踏切もほとんどなかったのでよかったのか…。
横川と軽井沢の駅構内は、集電用の第三軌条がポイントを避けるために切られていたため、パンタ(PS11型)を上げていました。
2011/10/18(火) 午前 7:47 [ 日本一周 ]
親父の方です。ED42は運転台が高崎方向しかなかった、というのは何かで読みました。下り列車は列車ごとバック運転みたいな形で、とにかく、列車分離と66.7‰での逸走を防ぐために、こういうことになったらしい、と。
でも、ウイキネタですが、長野方1両、高崎方3両という機関車の付け方になったのは、昭和26年ころ、ED40やED41が廃車になってからという事、ED42が最終的には昭和32年まで作られていた事など、ちょっと驚きでした。
2011/10/18(火) 午前 8:45 [ 五十鈴 拓磨 ]
ED40やEC40を列車の中間に入れた写真も見たことがありますよ。
ED42の時代も今のような列車無線もまだなくて、すべて汽笛で連絡を取っていたようです。そのため車番ごとに汽笛のピッチが違っていました。
秋の落葉した碓氷の山々に響く4つのピッチの汽笛が霧の中に響くのは最高に魅力的でした。
2011/10/18(火) 午後 1:08 [ 日本一周 ]
その話、昭和45年の鉄道ジャーナル5月号に載った随想に出てきます。横川発車の適度一声、長緩一声・短急二声の惰行合図、そしてアプト区間にかかるときの短急二声の力行合図、一両ごとに音色の違う汽笛が山間に響いていたと言います。
その随想の最期は、筆者の奥方の、こんな言葉で締めくくられています。
「電気機関車の汽笛って、こんなに寂しいのね。」
残念ながら、私は、国境の峠路に呼び交わす汽笛を聞いておりません。
2011/10/18(火) 午後 11:41 [ 五十鈴 拓磨 ]
うーん、ただただ、感心です!!
ラックレールの実物は横川の駅前のおぎのや売店へ通じる道の側溝の蓋で、
始めて目にしました。今でもあるのかなー、あの蓋。
ED42は保存機でしか見たことがありません。
通常区間からラックに入る時のタイミングでベテランと新米の区別ができると、
何か物の本で読んだことがあります。職人技だったようですよ。
2011/10/27(木) 午後 0:09 [ 亀三 ]