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今回は、「みなかみ紀行」のご紹介をいたします。
「みなかみ紀行」(紀行文集)は、現在でも岩波文庫から発売され、牧水の旅紀行中の白眉ともいうべきものです。大正12年、「印刷まで終えていたのに」、関東大震災で型紙を残してすべて焼失という悲運に見舞われながらも、大正13年7月出版されました。
内容は、序文/みなかみ紀行/大野原の夏草/追憶と眼前の風景/杜鵑を聽きに/白骨温泉/通蔓草の実/山路/或る旅と繪葉書/野なかの瀧/或る日の半島/伊豆紀行/雪の天城越で、いつもの紀行文集のように、新しい旅が前に、古い旅が後に出てきます。このほか、単行本未収録の「金精峠より野州路へ」も、大正11年10月〜11月にかけての「みなかみ紀行」の旅に連なっています。
ここでは、「みなかみ紀行」〜「金精峠より野州路へ」の旅を見てみましょう。途中挟んである書簡は、「旅より妻へ」(単行本未収録、全集9巻)から拾ったものです。
大正11年10月14日、牧水は、佐久新聞社主催の短歌会に出席するため、朝沼津を出て、東京で村松道弥、門林兵治を伴って14:20上野発、20:00御代田下車、新聞社の迎えの自動車で岩村田へ行き佐久ホテル泊。岩村田の佐久ホテル、現在もあります。私もその近くで現場をやっていたのですが、一泊ぐらいすれば良かったと悔やんでおります。というのも、御代田駅前のN旅館さんが親切にしてくれて、食事もすごく良かったので、動く気にならなかったんですよ。
御代田駅はもともとスイッチバックで、信越本線の複線化・電化で、昭和42年頃現在のような勾配ホームになりました。先のN旅館さんは、門をでると直ぐ旧ホームだったということで、仕事が休みの日、町の公民館で開かれていた牧水関係の小さな特設展示会に行ったついでに、「エ」印(=工部省)の用地杭を見て回りました。ほぼ、現在の役場の駐車場に同じですね。ついでに、このN旅館さんもかなり歴史の古い旅館で、藤村直筆の「千曲川旅情の歌」が飾られていました。
15日短歌会、会が終わるとお決まりの飲み会、何人かは牧水の部屋まで付いてきて、結局寝たのは夜も白む頃。16日は朝早く松原湖へゆく筈が、あまり大人数なので中止し、「輕便鐵道」で小諸に出ます。此處で出てくる「輕便鐵道」が、現在の小海線の前身、「佐久鉄道」。大正4年末には小諸〜羽黒下、大正8年には小海まで開業します。大正11年時点では、まだ汽車。佐久鉄道というとガソリンカーの印象が強いのですが、これらの導入は牧水没後の昭和5年からでした。
その晩は汽車で沓掛まで行って星野温泉泊、翌17日朝の「朝酒」が伸びて昼近くなり、このまま取って返って高崎〜沼田〜金精峠越えの予定をひっくり返し、軽井沢から草津鉄道で嬬恋へ、更に草津まで自動車で、そこからあちこち廻って沼田から金精峠越え、日光、宇都宮を経て帰る事にします。皆も、それがいい、それがいい、と賛成。折角だから軽井沢に出て改めて別杯を酌んで綺麗に三方に別れよう、という事で、叉汽車で軽井沢へ出て蕎麦屋の四疊半の部屋に六人が二三時間坐り込んでいるという、まあ、良くも良くもそう飲んでばかりいられるなと感心するより呆れるありさま。
<書簡>
岩村田の歌會のくづれが小諸に延び、更らに轉じて此處にまで及んでゐる。此處で愈々三方へのお別れだ。卽ち東京へ歸る者二人、佐久、長野へ歸る者四人、而して小生と門林君とはこれから午後六時發の輕便鐵道に乘り、六里が原を越えて上州方面へ入り込むつもりだ。
二三日斯うして晝夜を共にして來たので流石に皆勞れたらしい。そして皆別れともない顔だ。此處はさヽやかな蕎麥屋、夕日が土間までさし込んで、何やら木の薪の燃える匂ひがしてゐる。
(十月十七日午後四時廿分、信州輕井澤、松本屋にて)
かくて18:00の草津鉄道に門林を引き連れて乗り込み、残る四人も信越線の汽車まで時間が有るので旧軽井沢まで同乗して別れを惜しみます。
小さな車室、疊を二枚長目に敷いた程の車室に我等二人が入つて坐つてゐると、あとの四人もてんでに青い切符を持つて入つて來た。彼等の乘るべき信越線の上りにも下りにもまだ間があるのでその間に舊宿まで見送らうと云ふのだ。感謝しながらざわついてゐると、直ぐ輕井澤舊宿驛に來てしまつた。此處で彼等は降りて行つた。左樣なら、また途中で飮み始めなければいゝがと氣遣はれながら、左樣なら左樣ならと帽子を振つた。小諸の方に行くのは二人づれだからまだいゝが、一人東京へ歸つてゆくM―君には全く氣の毒であつた。
我等の小さな汽車、唯だ二つの車室しか持たぬ小さな汽車はそれからごつとんごつとんと登りにかゝつた。曲りくねつて登つて行く。車の兩側はすべて枯れほうけた芒ばかりだ。そして近所は却つてうす暗く、遠くの麓の方に夕方の微光が眺められた。
疲れと寒さが闇と一緒に深くなつた。登り登つて漸く六里が原の高原にかゝつたと思はれる頃は全く黒白(あやめ)もわからぬ闇となつたのだが、車室には灯を入れぬ、イヤ、一度小さな洋燈を點したには點したが、すぐ風で消えたのだつた。一二度停車して普通の驛で呼ぶ樣に驛の名を車掌が呼んで通りはしたが、其處には停車場らしい建物も灯影も見えなかつた。漸く一つ、やゝ明るい所に來て停つた。「二度上」といふ驛名が見え、海拔三八〇九呎と書いた棒がその側に立てられてあつた。見ると汽車の窓のツイ側には屋臺店を設け洋燈を點し、四十近い女が子を負つて何か賣つてゐた。高い臺の上に二つほど並べた箱には柿やキヤラメルが入れてあつた。そのうちに入れ違ひに向うから汽車が來る樣になると彼女は急いで先づ洋燈を持つて線路の向う側に行つた。其處にもまた同じ樣に屋臺店が拵へてあるのが見えた。そして次ぎゝに其處へ二つの箱を運んで移つて行つた。
この草津鐵道の終點嬬戀驛に着いたのはもう九時であつた。
<書簡>
六里が原の野つ原を小さなゝ汽車がこつとんゝと走つてゐる所だ。四方まつ暗、たヾ窓さきに枯芒の伏し靡く音だけは感ぜられた。それでも停車場らしい所があり、一ケ所では若い女房が子供をおぶつて、ランプを點して、柿を賣つてゐた。
終點驛嬬戀といふのに着いた。驛とは云つても矢張り枯野原のまん中で、まだ幾軒も家は建つてゐないらしい。驛前の宿屋に入る。風呂をば線路向うの運送屋で貰って來て呉れといふ。小女に連れられて行くと彼女が忽ちころんで、提灯を消し、三人半ば這ひながらに運送屋に着いた。新築の、がらんだうな建物の中に主人だか番頭だか唯だ一人、新聞を讀んでゐた。風呂の下を焚きつ焚かれつして二人辛くも身體をあたヽめ、いま宿まで歸つて來た所だ。因果と隣室に醉つ拂ひの一座があつてどんちやん騒ぎをやつてゐる。我等兩人苦笑しながらおとなしく炬燵に入つて、盃をなめてゐる。昨日一昨日の賑ひを思ひ出すと、まさに感無量である。
(夜九時十分、上州嬬戀村嬬戀舘にて)
終点の嬬恋、というのは、今で言うと吾妻川右岸の吾妻線の万座・鹿沢口駅近くで、吾妻川を渡った左岸側が上州三原駅となります。この前のダイヤ改正で、特急「草津」は、全部長野原草津口止まりとなり、万座・鹿沢口に来るのは各停だけとなりました。吾妻線のホントの終点、大前は、万座・鹿沢口の次ですが、この区間も一日4往復という、なかなかの路線。昔「リゾートやまどり」狙いでセガレと一緒に行きましたが、当時はまだ特急が来ていた万座・鹿沢口、交換設備の無い駅だと言う事を知ってびっくり!
万座・鹿沢口駅に停車・折り返し準備中の「リゾート・やまどり」
万座・鹿沢口駅(北口)風景
(「みなかみ紀行」つづく)
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20番線、親父の「鉄道以外」
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