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「こんどの旅」は全集11巻掲載で単行本未収録、大正13年3月、長崎で病気療養中昭和11年に亡くなった中村三郎の三回忌に出席し、郷里の宮崎では父の十三回忌を営み、その途中あちこちの同士達に会いたいという目的で、長男の旅人を連れて行きます。外に、郷里の坪谷から、母・マキを沼津に連れてこようという思惑もありました。何分、
(母・マキは)彼の父(これは牧水を指す)がいまなほ昔の如く朝夕の米鹽にも苦しんでいるが如くに思ひ込んでゐるらしかつた。そして八十に近い齡で、手慣れた産婆を業としながら日向の山奥の村に寂しい苦しい暮らしを續けてゐるのであつた。
と、まるきり信用ナシ!そこで、孫の旅人に、母に沼津へ来るように勧めさせようという謀(はかりごと、とルビを振っている)もあったようです。
3月8日午前6時沼津発、まだ小さい子供を連れての長距離旅行は無理が利かないため、「二等車」を使ったようで、
生れて初めて乗る青いビロードを張った二等車の乗心地が素晴らしかった。
と、全集第11巻の月報に、旅人氏が書かれています。続けて、
私は初めて聞く二等車の三連車輪がタンタンタンと三音づつ走り去る音に聴き入っていると、私達のボックスシートの少し向うのシートに、外人の男女がじっとしているのに気が付いた。
とあります。明治43年から製造が始まった「鐵道院基本型客車」と呼ばれる一群は、二等車などの優等車両には三軸ボギーを使っていたようです。ただ、ウイキペデイアに掲載されている図面では、二等車は、背ずりの厚いロングシートになっています。旅人氏の乗ったのはボックスシートだったようですが、こんな古い客車について、こちらも調べが付かず、今はこのままとしておきます。
なお、話が飛びますが、芥川龍之介の「蜜柑」という小品、横須賀線の二等車が舞台です。あれを読んでいると、どうもロングシート車だったような印象が強いのですが、いかがなものでしょうか?
その日は、まだ幼い旅人氏(当時満11歳くらいか。大正2年生まれ)に長時間の汽車旅をさせる訳にも行かず、13:00熱田駅下車。熱田神宮前に住む同人の鷲野飛燕を訪ねます。行く先々、沢山の同人達に会うなら、名古屋で降りた方が余程良いのですが、
何しろ「サケ」が恐かった。そして特に素下戸の鷲野君方を狙つたのであつた。所が、同君はまた自身一滴も飮み得ない事を悲しみ特に小生の相手として附近で最強の飮手である中林晴太郎、前田源の兩君を招いて既に酒陣を張つて待ち受けてゐる所であつた。そして型の如く同家のを飮み乾した擧句、まだ何處かで起きてゐる家があるだらうと夜中に三人して出懸けて二三軒も飮み廻るといふ結果になつてしまつた。
ダメじゃん、初日から………。で、その間旅人氏は、鷲野飛燕の次男に連れられて名古屋見物から活動見物をしていたというから、まあ良しとしましょう。
翌3月9日、熱田9:00発の汽車に乗り遅れ、次の汽車に名古屋から乗り大阪へ着けば、ここでも既に顔を赤くした数人が待っておりました。牧水が一汽車遅れたので、先に一杯やっていた訳です。大阪駅からはタクシーで大島武雄の家へ、そこでご馳走責めの後はお決まりの道頓堀やら何やら。
大いに歌を書くべくして用意されたノートも名刺も、その夜誰やらに買つて貰つた高價な西洋煙草もその數時間の中の何處やらに置き忘れられてしまつた。
もう、何をか言わんや、ですが、小生の会社の呑兵衛共も、翌日客先に提出すべき書類や、免許証、財布の入ったカバンも、眼鏡もすっかりどこかへ置き忘れ、気が付いたら駅から自宅へ向かう途中の墓地で寝ていたとか、まあ、いろいろあります。
3月10日、午前9時発の予定が10:30、やがて13:00と延びて行き、ついには予定外の神戸まで大阪組に引き回され、神戸駅前で「大いに牛肉を喰ふ事に」。結局1軒で足りず、さらに2〜3軒廻り、終電・終列車間際に大阪組は帰り、神戸組は西須磨の野元純彦宅へ押しかけ泊。
3月11日、野元夫妻の尋常ならざる努力で、なんとか神戸9:00台の汽車に間に合い、好天の山陽路を下っていきます。岡山12:00、本来ここで下車すべき約束があり、4〜5人の友人も待っていたのですが、その4〜5人が、選りに選った酒豪なので、ひそかに頓首して通過。薄暮宮島(昭和17年に現在の「宮島口」に改称)着。厳島に渡り泊。出発前の数日、ほとんど徹夜で留守中の仕事の手当をし、出発すればこの有様で、階段も手すりにつかまらないと上り下り出来ないありさまで、風呂へ行くのがやっと。夕食は、旅人氏はサイダーを取り寄せ、自分はビール1本に銚子2本で直ちに就寝。それでも、結構飲んでるよなあ……。
3月12日、朝食前に厳島神社に参拝、11:00台の汽車で宮島を立ち、小郡(平成15年、現在の「新山口」に改称)で山口線に乗り換え、16:00過ぎ山口着。平賀春郊の出迎えを受け、平賀宅泊。ここでも遅くまで飲んでいたようです。
3月13日、僅かの所で山口で汽車に乗り遅れ、自動車で小郡へ。どうしても小郡11:00発の汽車に間に合わせないと、関門連絡船の乗り換え駅、下関(牧水は「下の關」と、“の”を入れて書いています。)まで、戸畑から出迎えてくれる多数の人に迷惑が掛かるからで、果たして下関に着くと、ホームには九州の社友数人が雑誌「創作」を手に待っていてくれました。早速連絡線に乗り、門司(現在の門司港。昭和17年、関門トンネル開通により、「門司」から改称。「門司」は、それまでの「大里」駅が引き継ぐ)へ。門司で汽車を待つ間、旅人氏は、出迎えに来ていた佐藤白霧に連れられてそこらの見物に行き、大きなバナナを買って貰って嬉々として戻って来たようです。
鹿児島本線で戸畑着。創作社戸畑支社は、全国に幾つかある支社のうちでも当時最も作歌に熱心で、その成績抜群という所。そこのメンバーの熱烈歓迎を受けることになります。この日は毛利雨一樓宅泊。
3月14日、朝から小雪のちらつく中、「名護屋岬に近い中原の濱といふに行き」、歌会。皆でそろって「電車停留場」へ向かった、とあります。この「名護屋岬」、現在の地図では特定できておりません。また、この「電車」は、西鉄(当時は「九州電氣軌道」という)の北九州線。八幡からですと、一旦小倉近くの大門まで戻り、戸畑方面行きに乗り変えたのではないかと推定されます。現在の鹿児島本線九州工大前駅付近に「中原」という停留所があったようで、この付近の地図を見る限り、すっかり埋め立てられてもとの地形が残って居ません。
歌会の後、戸畑の三苫守西の所で一同夕食をご馳走になり、当然酒も出ますが、旅人氏もいることで、早々に別室に引き上げて寝てしまいます。戸畑支社の面々は、いつ果てるとも知れぬ歌論の末、ほとんど「雑魚寝」状態で寝ていたという凄まじい有様。実は、前夜の毛利宅でもそうだったというから、戸畑支社の熱心さがうかがわれます。
3月15日、まだ明け切らぬうちに戸畑を発。八幡まで同乗した者数人、毛利夫妻は遠く二日市まで、またそれぞれの駅まで帰る人、最も遠いのは熊本まで帰る由解實で、名所古跡の多いこのあたり、旅人氏はまわりの小父さん達の説明を聞くのに大忙しであった、とあります。
福岡驛(と牧水は書いていますが、博多のこと)も、降りたかったのですが時間が無く通過。鳥栖で長崎本線に乗り換えるため、由解實とも別れ、再び親子二人となります。
別るヽといふのは幾度經驗しても實にイヤなものである。
と書いていますが、そのために酒宴が過ぎて日程が延びること再度ならず、今回はまだすっぱり別れた方です。旅人氏には、飲み物や食べ物を充分に与えて、親父はぐっすりと寝込んでしまいます。
「海が見える、海が見える」とて起されたのはそれから程經てであつた。成程、綺麗な海が見えてゐる。面白い形の島も見える。地圖によるなでもなく其處は小生にとっても初めての大村灣であらねばならぬ。
この書きぶり、あれ?なんで、まずは有明海の事が出てこないんだろう、いきなり大村湾なんだ?と思って調べて見ましたら、驚いたことに、鳥栖から長崎への路線は、明治31年、九州鐵道の手によって鳥栖〜佐賀〜肥前山口〜有田〜早岐〜大村〜長与〜長崎という、今で言う佐世保前・大村線経由で建設されています。現在の「長崎本線」、肥前鹿島経由のルートは、国有化後の昭和5年着工、昭和9年に完成し、この時から現在の路線名に変更されます。これも知らなかった!
なお、昭和47年、喜々津〜浦上間は、現川まわりの新線が開業し、優等列車はすべてこちらを通るようになりました。トンネルばかりの線ですが複線で建設されております。小生も2度の九州旅行で、時間が無くて長与廻りの旧線に乗れず、これに乗ったのは平成も21年になってから。筑豊から転じたキハ66・67で、やっと念願であった有名な撮影地、東園あたりの海の光景を目にすることが出来ました。
かくして、17:11、ようやく長崎着。創作社長崎支社の社友達、さらに中村三郎の三回忌に出席すべく集まった越前翠村ほかに迎えられ、社友高島儀太郎宅で歓迎を受け、泊まります。
(「こんどの旅」、つづく。)
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20番線、親父の「鉄道以外」
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