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「身延七面山紀行」は、「こんどの旅」から帰った後の大正13年6月、3日ばかりの旅で、大悟法利雄を同行しています。
午前七時沼津驛發、富士駅乘換、大宮驛下車、淺間神社に詣でた。富士山を背景にして世間に聞えた神社としてはやヽ奥行の淺い觀があつた。いかにも野原に露出してゐるといふ感じのお宮であった。次の汽車の時間を待ちながらお池の鯉と暫く遊ぶ。(中略)
大宮驛を離れると間もなく汽車は富士川に沿うた。實は私はこの路線は初めてなので、この大きな河瀬を見下しながら登つてゆく車窓の眺めを樂しんで來たのであつたが、やがて失望を覺えた。
(中略)
正午近く終點身延驛に着いた。
鉄道の事が出てくるのはここまで。牧水がこの時乗ったのは現在の身延線。「汽車」と書いているので、あれ?と思って調べてきましたら、買収路線である身延線の前身は「富士身延鐵道」ですが、さらにその前身を探ると、なんと馬車鉄から始まっており、「富士馬車鐵道」が明治23年6月、鈴川(現:吉原)〜大宮(現:富士宮)を開業。一方「富士身延鐵道」は大正元年会社設立、「富士鐵道」」と改称した馬車鉄から路線を譲り受け、大正2年には富士〜大宮間の蒸気鉄道を開業します。その後次第に路線を延ばし、大正9年5月には身延まで達します。電化は昭和2年。これ以後はすべて電気鉄道として延伸され、昭和3年、甲府に達します。
旧型国電、特に買収国電に詳しい方なら、もう何時間でも喋っている所かも知れませんが、残念ながら小生、その方面はとんと弱く、旧省電レベルでもお粗末極まりないので、ボロを出さない程度にやりましょう。実は、小生の最初の一人旅は、辻堂を6:30頃の153系静岡行き(大垣の12両編成、大垣夜行の折り返しか、いずれその系統)で発ち、富士から身延線のクモハ51で甲府へ、というルート。翌年は松本からの帰路、身延線廻りで帰って来ました。
身延線十島駅にて S48.8.24と思う
身延線は、飯田線に較べてどうも印象が薄く、とは言いながらサハ45にも、後に73系を改造し、115系の車体を載せた62系にも乗っています。ワインレッドに白帯で登場した「身延線色」の115系には、本線の沼津〜静岡間で1度乗って、2M1T×2の6連の、あまりの加速の良さに驚きました。
後に、仙台時代、弘南鉄道に行って撮った中に、それとおぼしき車両があるので、詳しい方のご教示を賜りたいと思います。大鰐線の車両で、当時のメモでは「M2251」とありますが、2251号は電装解除されていたようで、
「クハ2251」の誤りか、モハ2252、2253あたりではないかと思います。
S60.7.21 中央弘前駅にて
今回は、テツの領域でのアラが出ないうちに引っ込もう………
(「身延七面山紀行」、おわり)
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