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「上京記」は単行本未収録、全集第10巻に収録されています。既に沼津に居を移していた牧水が、東京日日新聞が東宮(後の昭和天皇)ご成婚記念事業の一つとして公募した「國民の歌」の選者を依頼され、とにかくその選評会に出なければならないと、大正12年12月22日、沼津を6:45発の汽車で上京した時の様子を、牧暁村宛の手紙の形で書いています。
今までならば四時間と少しで沼津から東京へ行けたのですけれど、今では五時間半ばかりかヽります。やはり地震(注;この年が関東大震災の年)後の線路の修繕がまだ充分に出來てゐないのです。横濱または品川をすぎてからの東京の燒跡の哀れさ物凄さが汽車の窓から見えましたけれど、それらの事はもう大抵御存じでせうから略します。とにかく、十二時三十何分かに東京驛に着きました。
当時は御殿場経由ですから仕方ないにしても、これは急行等を使っての話かどうか書かれておりません。震災前の4時間少々が1時間半も余計に掛かるようになったというのは、よくよく最高速度その他に制限が掛かったと言う事でしょうか。ちなみに現在のキロ程で東京〜国府津〜御殿場〜沼津は137.9km。表定速度を計算すると震災前、それでも35km/h程だったものが震災後は25km/h程に落ちています。
電化された現在の御殿場線は、速い列車では1時間25分くらいで国府津〜沼津間を走り、表定速度は43.0km/h、単線区間だからまあ仕方ないか。国府津〜東京間の東海道線区間は、それこそ表定速度60km/h近い、当時の急行よりもっと速い列車が沢山走っては居ますが、現在でも沼津から御殿場経由東京までは、まあ3時間見ておいた方が無難でしょう。
こういった数字を比較すると、どうも「震災前には4時間少々」というのは、勿論電化前の話ですから、やはり優等列車ではなかったかな、という気がしてきます。
さて、東京に着いて、会議が14:30からということで、先ず昼飯を食べようと「精養軒で出してゐる食堂」に行くと、ものすごい混雑。駅の反対側、丸ビルの地下が食堂街であったことを思い出して、そちらに廻ってみれば、精養軒以上の混雑。人いきれの凄さに食欲も何もすっとんで、丸ビルを出、馬場先門あたりで、「文化食堂」なるバラックの食堂に一升瓶が並んでいるのを見て俄然食欲復活。馬鹿馬鹿しい、と言いながらも食券を買う行列に並び、“二合瓶二枚、鴨南蠻二枚”を買って、尻半分くらいしか載せられない席で食べる事になります。結局鴨南蠻の一杯は、隣で飲んでいた人にプレゼント(原文でもこう書かれている)して、食堂を出てきます。この描写からすると、今時これ程の混雑というのはとうてい考えられない状態です。そんな有様なら私も人の勢いにはじき飛ばされて終わりでしょうね。
とても我々の樣な氣の弱いものには割り込む事の出來ない物凄い力がそこら中に張り滿ちてゐるからです。
(中略)
とにかく何ぼ時間だとは云ひながらこの食物に群がつてゐる人間の夥しい數だとかそんなごたごたした中で平氣でガブゞ喰べてゐる有樣だとかいふものが、いかにも現在の「東京」の象徴の樣な氣がしたのです。イヤ、單に「東京」のみでなく、「日本」そのものの縮圖の樣にも思はれないではありませんでした。
ここで、その「文化食堂」の食券メニューを牧水が書き残してくれているので、眺めて見ましょう。
さうして竝んだ順序に天どんだとかお刺身だとかジヤミ附パンだとかカツレツだとかチヤアシユウメンだとかお汁粉だとか云つてめいゝたべたいものヽ切符を買つて中に入つてゆくのです。
ほお、大正も12年になると、カツレツ、チャーシューメンなどが食堂の定番メニューになっていたのか。「ジヤミ附パン」は、今で云うジャムパンでしょう。
さて、その東京日日の「國民の歌」の選者ですが、作曲家の山田耕筰、北原白秋、牧水に佐佐木信綱(但しその日は病欠)という顔ぶれ。三万通の応募の中から、先ず東京日日の学芸部で予選をし、それを印刷した物が各選者の所に送られてきた訳ですが、因果なことに、いかにも拙いものばかり、50点をも付けてやれるものが無いという有様。白秋、山田耕筰も、牧水と同意見で、牧水などは当初「一等、二等無し、三等のみ」を主張しますが、其れでは会社が困るということで、「一等なし、二等二人、三等三人」と決まります。この後、演奏会があるので先に帰った山田耕筰を別として、食事から続けて飲み、河岸を変えるとか言ってもとの有楽町駅下のバラックで飲み、気が付いたら深夜二時頃?大森海岸の料亭に、牧水、白秋、東京日日の学芸部長が三人して座っていたという、お決まりのパターン。
とろゝとしたかとおもふと軒下を通つてゐる京濱電車の響に眼を覺されました。や、これはやかましい、もっと靜かな家に行つて飮み直さう、とツイその筋向うの松淺といふのに移りました。
「大森海岸」は、今の京急の大森海岸、当時「八幡」と呼ばれていました。ですから「京濱電車」は京浜東北線ではなく、京急の事です。当時の社名は「京濱電氣鉄道」で、明治38年には、品川(現;北品川)〜神奈川間を開通させています。大森海岸は当時は「八幡」と言い、昭和8年、現在の「大森海岸」に改称されます。もともとは明治34年、大森停車場から六郷橋までの路線の途中に出来た駅で、大森海岸から大森までの支線は昭和12年まで営業されていました。
「移りました」と言うけど、まだ朝っぱらの話ではないの?続く文章が、とうてい想像できない代物です。でも、こういった事があちこち出てきますので、当時は当たり前の事だったのでしょう。
程なく風呂が沸き、日あたりの座敷のお掃除が出來、鍋だ天ぷらだ海鼠の酢だとごたくを竝べて飮み始めました。
朝からこういう営業、してたんですね……
いま、インタ−ネットで、大正10年頃、昭和5年頃など、古い地形図が、日本のごく一部ながら閲覧でき、これを見ると、京浜電鉄は本当に海のそばを走っていたことが良くわかります。大森海岸など、現在の姿しか知らない私には想像着かないのですが、第一京浜国道のすぐ向こうはもう東京湾で、それこそ”山は上総か房州か”の世界だったようです。この前の「お祖師樣詣り」でも、大森、森が崎という地名が出てきて驚きましたが、明治34年湧出の「森が崎鉱泉」があり、戦前は東京の保養地、海水浴場として賑わったようです。1920年の地形図を見る限り、現在の大森南、大森東などは、既に陸地になっております。これが江戸時代からの干拓地か、もとからの陸地か、これまた調べが付いておりません。なお、唐突ながら、昭和5年の、いわゆる帝国陸軍の「十月事件」に関する、「特高 二・二六事件秘史(小坂慶助著)によりますと、
十月四日(日曜日)、に橋本(欣五郎)中佐、長(勇)少佐、田中(清)大尉、小原(重孝)大尉の四名が、大森、森ガ崎の料亭万金に会合した席上、橋本中佐は、……
というのがあり、当然憲兵隊にも目を付けられている急進派将校達が「密会」とは言わずとも、ある程度人目を避けて会合できる場所、それが森が崎あたりであったという事のようです。この「料亭万金」、今でもあるのかどうか、インタ−ネットでは引っ掛かって来ません。
で、牧水ら一行、結局夕方まで飲んで大森から各方面に別れます。この当時白秋も小田原に住んでいたので牧水と一緒になる訳ですが、その大森駅、明治9年開業という古い歴史を持ち、現在のような京浜東北線のみが停車するようになったのは何と昭和5年というから、これまた古い話。大正12年当時は、まだ遠方へ行く列車も停まっていて、牧水・白秋が同行出来るわけです。なお、現在でもその気になって見ると、何となく昔は貨物も扱っていた(昭和49年廃止)ような感じが線路の配置から見えます。
更にそれから、
北原の奴はまた謀反を起し、大船驛の近くの大船閣といふ温泉宿に行つて今夜は泊らう、あそこには多少イハクがあるとか何とか言ひ出し、たうとう其處で一人で降りてしまひました。
まあ、懲りない連中ばっかし、ですな。大船に温泉なんかあったんかい?多分沸かし湯でしょう。あんな所、熱源が無いもの。
さて、これで一応「紀行文」は終わり、残るは随想、書簡・日記、そして一編だけですが「小説」もあります。いま少しお付き合いください。
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20番線、親父の「鉄道以外」
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