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2度目となると、お約束というより「押しかけ」に近い物がありますが、(笑)イメージに合う写真も撮れたことですので、もう1品、私の20台の作品をお目に掛けようかと思います。前作と同じく昭和59年の作です。こういう物が書けたんだなあ、この頃は………
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秋の手紙
暑さの盛りに始まったこの現場も、今日、やっと終わりになりました。まわりの雑木林がすっかり色づいて、晴れ上がった空に映えています。あなたの方でも、もう寒いですか?
この頃、「秋の色」とは、紅葉と空、つまり紅と蒼の対比ではないかと思うようになりました。紫苑の初々しい薄紫も、薄の銀の穂もまた捨て難いのですが、空を背景にしてなお浮かび上がるためには、紅や黄のような燃えたつ色でなければならないようです。
柿の実の、落ち着いた朱にも、心動かされるものがあります。昔、父に見せて貰った幻燈の中に、葉をすっかり落とし、実だけが幾つも残った柿の木を、下から見上げて撮ったものがありました。あの時は、子供心にも妙に感動し、それ以来、実った柿の木を仰ぐのが、私の秋の楽しみに加わりました。秋とは、本当に色豊かな季節なのですね。
東北の秋は、こうして足早に過ぎて行くそうです。蔵王の頂にも、白いものが見えるようになりました。この地の冬がいかなものか、私も、期待と不安を入り混ぜながら毎日を送っていますが、あなたも、またお便りを差し上げる日まで、どうかお元気でお過ごしください。
昭和59年11月1日 仙台近郊の山にて |
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2015年11月03日
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J様へ
11月1日(日)、かねてから訪問したいと思って居た、沼津市の「若山牧水記念館」へ、埼玉から長駆、普通電車を乗り継いで行ってきました。
若山牧水記念館 正面
牧水記念館のある沼津市の千本郷林という所は、千本松原の東の端にあたり、太い黒松の多く茂る、大きなお屋敷の多いところです。
記念館周辺のお屋敷街風景
かつては、湘南の私の故郷も、太くて背の高い黒松が多く生えていたのですが、今では、ほとんどが切り払われて、こんな風景は見ることができません。
千本松原、そして沼津という街は、私にとっては、高校へ上がる前の春休み、御殿場線経由で沼津まで行った折に、最初の訪問をいたしました。何分S48の話で、記憶も薄れておりますが、千本公園のバス停を降りてすぐ、牧水の碑があったと思います。牧水の名は中学時代から、鉄道雑誌で、牧水が佐久地方で詠んだ歌が二首ほど引用されていたことから、頭の隅にありまして、
「へえ、こんな所に住んでいたのか?」
と、思った覚えがあります。
その後、高校2年の何月だったか、沼津を再訪し、千本松原にも行きました。そして大学入学後、教養課程の2年間を、辻堂から、沼津のひとつ先(当時は)の原まで通い、沼津駅は、毎朝東京発の電車から静岡方面行き電車への乗り換え駅でした。
さて、牧水記念館まで行って得た収穫ですが、なかなか興味深いものがありました。
まずは、牧水と啄木の最初の出会いに関してです。
私のこれまで調べたところでは、「あくがれの歌人 〜若山牧水の青春〜 」(中嶋祐二著、文芸社)によれば、
明治43年11月下旬、牧水、白秋、佐藤緑雨、山本鼎らと浅草で飲んだ帰
り、田原町付近で啄木と出会い、白秋の紹介で対面。
となっております。啄木の日記では、明治43年4月12日、
若山牧水君から「創作」への歌を頼まれて送った。
とあり、明治42年当用日記以降、初めて牧水の名が見られます。既に、原稿の依頼などで、互いの名前は知っていたようです。
これが、牧水記念館館報3号の「啄木臨終に駆けつけた牧水」(藤岡武雄)では、牧水が書いた「石川啄木君と僕」(「秀才文壇」、大正元年9月)を引用し、
明治43年11月頃、上述の顔ぶれで飲み、浅草田原町付近で、向こうから
やってきた啄木と出会い、かねて旧知の仲の佐藤緑雨に紹介して貰ったの
が、初対面。
とされ、白秋/緑雨と、紹介して貰った人に違いが見られます。なお、「一握の砂」は、この「創作」への寄稿が縁で、「創作」発行元の東雲堂から発行されています。
また、館報50号では、「牧水と啄木」(三枝昂之)が、啄木研究家である、吉田孤羊の「啄木を繞る人々」の記述を要約して、
明治43年の暮れ近いある夜、牧水が友人と二人で浅草を散歩していて、田
原町あたりにさしかかったときに「肩の怒った痩形の青年と」談笑してい
る北原白秋と出会った。そして白秋が「若山君、この人が石川啄木君だ
よ」と紹介して知り合ったのである。
とされており、出会った状況が、ほかのものと若干異なります。啄木と牧水の出会いについて、啄木の日記は、明治43年の部分は、私の調べた全集には掲載されておらず、もともと書かれていないのかどうか、まだ確かめる術がありません。ただ、最初の出会いの時期は、明治43年末、場所が浅草田原町付近、というのは間違いは無さそうです。
館報は、牧水記念館のHPでも全部閲覧できるのですが、自宅で逐一これをひっくり返す気にはならず、記念館にあった館報のファイルを眺めていて、こんな事に気がついた次第です。
次に、これは展示物にあったのですが、牧水は、沼津転居後、家の建築資金と、当時主催していた総合雑誌「詩歌時代」の刊行資金を集めるため、揮毫旅行を始めます。北海道旅行途上の大正15年10月初頭、旭川第七師団参謀長である齋藤瀏大佐の家を訪ね、娘の史に、短歌を続けることを強く勧めています。
何をそう驚いているのかと言いますと、この齋藤瀏、陸軍軍人で、陸軍士官学校から陸軍大学まで出ている、軍人としてもエリートながら、一方で佐佐木信綱門下の歌人、そして、少将で退役後、2.26事件では反乱軍に荷担し、反乱幇助罪で禁固5年、官位勲章を剥奪されます。2.26事件を扱った何かのTV番組で、その当時参謀本部作戦課長として陸相官邸に駆けつけ、「反乱軍の断固鎮圧」を主張する石原莞爾大佐に、
「ふん、何だ、予備(役)の齋藤少将か!」
と、鼻であしらわれる人物が出てきて、この事件のことを調べているうちに、歌人でもあったことを知りました。
一方の、娘の史ですが、父の瀏を通じて2.26事件の首謀者や賛同者とも知り合い、特に、その中心的人物栗原安秀、坂井直中尉とは、旭川時代から親交がありました。これらの多くの人が、事件後処刑され、父も収監されます。
史は、後に、平成六年、女性で初めての日本芸術院会員として宮中に招かれ、今上陛下より、
「お父上は、齋藤瀏さんでしたね、軍人で………」
と、声をかけられます。そしてその3年後、88歳を目前にして、宮中歌会始の召人として、再び招かれます。会場に向かう階段のガラス越しに、史は、兵馬俑に似た軍服姿の一団が庭にいるのを見たと言っています。それは、あたかも、栗原、坂井など、2.26事件で銃殺刑になった青年将校たちが整列して居るかのようだった、と。召人として天皇陛下から招かれたことで、ようやく、2.26事件のことも、天皇からお赦しが出たのだと。
齋藤史のことは、家で炊事中の家内が聞いていたラジオで知りました。齋藤瀏の名前が出て来たので、一瞬きっと耳をそばだてたのです。
暴力のかくうつくしき世に住みて ひねもすうたふわが子守うた
史の歌です。
最後は、またしても館報38号、「鉄路−牧水の汽車−」という随筆で、書かれている榎本尚美氏は、牧水の孫娘、現在の牧水記念館館長を務める篁子さんのご主人ですが、まあ、相当な鉄道好き。牧水の生存中、まだ丹那トンネルは開通しておらず、今の御殿場線が「本線」だったわけですが、このことのみならず、碓氷峠の事など、鉄道に相当詳しくないとここまでは書けず、また、文面から、いかにも鉄道好きであることが伝わってきて、同好の士として嬉しくなりました。
榎本氏は、牧水本人も、結構汽車が好きだったのでは無いか、汽車に関する歌は122首ある。今の世で、ブルートレインに乗せてやったら、どんな歌を詠むだろうか、とも書かれています。
結局、2時間ほど滞在し、牧水歌集(ただし、伊東一彦選の岩波文庫)と、「牧水 酒のうた」という小さい本を買い求め、電車の中で読みながら、おまけに昼酒まで飲みながら帰って来ました。
まだ、牧水や啄木について、文献のうえでも確認しなければならないことが沢山あるのですが、何分図書館だのみで、なかなか進んでおりません…今回は、私の調査の中間報告として、この記事を読んで頂ければ幸いです。
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