「こんどの旅」を続けます。
中村三郎、という歌人、インターネットで検索しても出てきません。「若山牧水伝」によれば、大正7年12月、すでに創作社社友で、日本画研究の目的で上京、牧水を頼ってその家(東京市外巣鴨町1,250)の近くに下宿し、雑誌「創作」の編集を手伝ったり、社友の歌の批評添削をしたり等、牧水の助手として働くようになります。翌8年8月、簡閲点呼(予備役の下士官・兵を年1回集め、短時間の諮問により在郷軍人としての本務を査閲点検する制度)で郷里の長崎に帰ったまま病気(結核)で再び上京できず、大正11年4月18日無くなります。「末の郎子(すゑのいらつこ)」とも号し、天才的な歌人であったとされていますが、どの程度作品が残って居るのか、調べがついておりません。
3月16日、中村三郎の三回忌当日、故人の老母と兄は佐賀とかに移り住んでいて、連絡はしたものの、貧窮のさなかで今日は来られないとのこと。まだ墓らしい墓とて立てられていない、埋葬位置を示す石標の前に額づいた牧水は、そこにうっすらと青苔が生え初めているのを目にします。
私は、出立以來初めて鉛筆をとり出して一首の歌をノートに書きつけた。
三郎よ汝がふるさとに來てみれば汝が墓にはや苔ぞ生いたる
墓参の後、ほど近い光源寺で追悼会及び追悼歌会、終わって市内の出島東亜館という支那料理店で、牧水ならびに越前翠村の歓迎会。海燕の巣だの、子豚の丸焼だの、普段と勝手の違うメニューが果ても無く出てくるので、味よりも先にまず肝を潰し、
從つて今日は固體を主とし液體を客とするといふ、げに小生にとつては珍しき宴會になつて來た。と云つて液體が粗略されたではない、これもまた次から次へと運ばれて、いつか満座とも醉つてしまつた。
その店を十二時頃出、腹ごなしに結構歩き回って、寝たのは二時か三時。
ずつと随伴してゐたわが旅人君にはちと少々、或は大いに氣の毒であつた。
って、そりゃ、まだ小学生ですからねえ。迷惑この上無いでしょうよ。
3月17日は長崎見物の日。「南京寺」と呼ばれる寺の数々、大浦天主堂、浦上天主堂とまわると既に薄暮。一行の一人に旅人氏を預けて映画を見せに連れて行って貰い、残りの人で、かつて故人が住んでいたあたりを散策の上、カルルス温泉という旗亭泊。
3月18日、別れの日、が、またなかなか別れられないようで、長崎駅まで大勢の見送りを受け、何人かは大村まで行くと言い出します。大村で手を振って別れるかと思いきや、ここで降りろと云われ、市街を突っ切って城跡のお茶屋へ連れて行かれます。結局ふた汽車遅れ、元来16:00台に着くべき大牟田に恐る恐る降り立ったのは20:30。12年ぶりで会う従兄弟の若山俊一は、幸いそれほど怒った様子も無く待っていてくれました。
従兄弟の家では義姉がお膳を整えて待っていてくれ、牧水よりも旅人氏の方が遥かに歓迎されたのですが、
可笑しかつたは初對面の伯母の心づくしの手料理のどの皿にも彼は一向に手をつけ樣とせず、いろいろに説き勸められたはてに突然、
「梅干は無い?」
と驚かしておいて、梅干でお茶漬を掻き込んだ事である。大人竝の待遇を受け通して各地の馳走を荒し歩くこと此處に十幾日、終に流石の大織冠鎌足公も故郷戀しき梅干の所望に及んだのであつた。
そりゃ、なんぼ食べ盛りの年頃でも、参ってしまいますわな……
3月19日、従兄弟は朝から会社を休んで、牧水と酒膳に向かいます。飲んでいる所へ突然、八女郡上妻村の高山三千樹という社友が訪れ、どうでも自宅へ来てくれと言って粘ります。結局、上妻村近くの船小屋温泉で泊まることで妥協が成立、牧水、従兄弟の俊一、旅人氏、高山の四人で
蹌踉として停車場に向うた。
と、牧水自身も相当に疲れております。大牟田から船小屋まで乗ったのでしょう。翌3月20日、朝の一杯が長引いているとき、創作社大川支部の宮部貴一がひょっこり現れます。長崎からの帰り、大川町(多分、現在の大川市)に寄らないなんて、そんな話は無いだろうということで、宮部が代表して牧水一行を追っていたら、偶然にも船小屋温泉で巡り会った格好になったようです。で、結局大川まで行くことになり、
羽犬塚まで自動車、其處で一度電車に乘つてまた自動車に換へ、お晝過ぎに大川町に入つた。
とあります。羽犬塚あたりの電車って、あったっけ?西鉄は羽犬塚通っていないし……と色々調べたら、これまたとんでもない物が出てきました。ついでに、「資料 日本の私鉄」も古書で買っちまったもんな〜……\1,500.-+送料で、状態はまあまあでした。
で、この「電車」と牧水は書いていますが、ウイキペデイアネタ、及び「日本の私鉄」では、「三潴(みずま)軌道」という、羽犬塚〜大川間を結んでいた914mmゲージの蒸気鉄道ということで、どうもこの辺が良く解りません。汽車と電車を取り違えることは、なんぼ牧水でも考えにくいのですが、実はこの後もう1件似たような話が出てくるのです。三潴軌道の路線については、どこをどう走っていたのか、現時点で確認する手段がありません。え?はい、九段の国土地理院関東地方測量部に行けば、閲覧できるようです。ハイ。無精こいて、そこまでやってません……
明けて3月21日、一行は大川で別れ、羽犬塚まで出てきますが、ここまで日程が遅れているのに、もう一日位どうってことあるまい!と高山三千樹に叱られて、高山の故郷である上妻村まで行く訳ですが、ここでも、
驛前から動揺烈しい電車に乘つた。福島町で下車。
と、再び「電車」が出てきますが、これまた「南筑馬車鐵道」、後に「南筑軌道」と称した、914mmゲージの鉄道で、明治36年羽犬塚〜福島〜山内間を開業、大正4年には内燃化(石油発動機)、大正5年には別会社の「黒木軌道」が山内〜黒木間を開業。大正12年には黒木軌道と合併しますが、太平洋戦争開戦前夜の昭和15年、金属回収による鉄価高騰を機会に軌道の廃止を決定。沿線町村長の廃止延期の陳情もあったが1940年6月に廃止となります。牧水の乗った時には、すでに内燃機関車であったとは言え、少なくとも電気鉄道ではありません。内燃動車の導入も昭和9年頃からです。なお、この区間は、若干離れて居るとは言え、国鉄矢部線が、やはり羽犬塚〜黒木間を結んでいましたが、昭和60年に廃線となっています。
3月22日、羽犬塚まで戻り、芸者も二三人読んで賑やかに別宴を張ったは良いのですが、同行していた従兄弟の俊一の方が先に酔って、今度は大牟田で儂がご馳走する、と高山を離さず、結局大牟田でまた飲み、俊一の家に泊まります。
3月23日、ゆっくり休もうと思って居たら、昨日大牟田で呼び寄せた社友の中村政雄が現れ、実家の酒屋へ行ってまた飲み。もうすっかり「飲み疲れ」でたわいもなく酔ってしまい、近在の何人かの社友も現れて大いに論じたようですが、何を言ったか覚えていないという有様。この間に旅人氏は、中村の甥御達と仲良くなって、一人で中村宅に泊めてもらいます。
3月24日は、中村の義兄が勤める萬田炭坑を旅人氏とともに、特別の計らいで見学させてもらい、中村の義兄宅で夕食をご馳走になって、馬車で大牟田へ帰ってきます。
3月25日、予想外の長逗留となった大牟田を8:00発。従兄弟の俊一は飲み過ぎで?頭が上がらず。この後、八代の林温泉に寄ったきりで故郷の宮崎入りします。
滯在記は別に他の雜誌に書く事になってゐる。
とありますが、これは書かれておらず、尻切れトンボの旅紀行となっているのが残念です。しかし、毎日よくもよくも、それだけ酒が飲めるもんだと感心するより呆れますな。
なお、「若山牧水伝」及び全集月報の旅人氏のかかれたものからその後の行程を拾うと、3月26日宮崎、ここで初めて出迎えの無い到着。自慢の大淀川を旅人氏に見せてやろうと立派な宿を目指したのですが、風体怪しき親子連れで、通されたのは床の間も無い裏座敷。牧水は宿帳にも故郷の村と本名の「若山繁」を書きます。翌朝、宿の主人が上がってきて両手をついて詫びを入れ、大淀川を見下ろす二間続きの上座敷に案内され、続いて社友の古川慰がやって来て、牧水は恐縮するばかり。
3月27日、宮崎から高市(現;日向市)まで汽車、そこから馬車で坪谷へ、実に11年振りの帰郷。3月8日に沼津を出てから3週間懸かったわけです。
坪谷では、牧水も、もうすっかり「有名人」になっており、家族、地元ともに大変な歓迎を受けます。「牧水帰郷」は村中に知れ渡り、日に何人も訪れてきて、その結果はやはり「酒責め」。4月3日の村の「歓迎会」は、集まった人、有志・旧友併せて三四十名という「村として空前の催し」となりました。
4月5日には旅人氏、母・マキと青島に遊び、また6日から7日には都濃に長姉を訪ねて二泊。
4月12日、父の十三回忌を無事終え、その後旅人氏に母を口説かせて、沼津まで連れてくることに成功。
4月16日、坪谷から高市まで馬車、その晩は土々呂泊。17日汽船に乗る予定が、濃霧のため船が土々呂に寄港せず素通りされたため、見送りの人や旧友と友に延岡見物。18日乗船、船中二泊して20日神戸着、夜は三宮に泊まり、翌日大阪一泊、沼津には4月23日に帰っています。
(「こんどの旅」、おわり)