高崎線userのRailLIFE

倅:オカシイ。妹の方がネタ撮ってる 親父:偶然は怖いだろう??

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 紀行文の中で、二編ほど漏らしてしまったものがあります。古い方からご紹介致します。
 「お祖師樣詣り」(全集第5巻 単行本未収録)は大正5年、まだ家族を三浦に置いたまま、仕事のために上京して居た頃の話と思われます。本当に三浦の借家を引き払い、小石川区金富町に居を構えるのがこの12月です。

 二三日前、或る心祝いの事があって、折柄出逢ったE――君を捉えて軽く一杯を挙げたのがもとで、とうとう二三日を酒に浸ってしまった、という牧水が、大正51017日の「旗日」、結局仕事も進まず、手元にあった一升瓶を開けてまた飲み始めた所へ5円の郵便為替が来ます。どこか場所を変えて、郊外の非常に静かなところでもう少し飲んで、充分に眠って、このだらだらした酒飲みを打ち止めにしようと言っていた所へ近所の英ちゃんが飛び入りで仲間に入り、郵便為替を現金化して軍資金の調達なった所で、ちょっと面白い記述があります。この英ちゃん、なりにも顔にも若旦那風が残り、頭が非常に聡明で、並外れた怠け者、という、チト古い表現ながら「モラトリアム」みたいなものです。まあ、何時の世でも、金のある階級には、こういうのが出てくるんでしょう。「旗日」というのは、「神嘗祭」の祝日だったようです。この郵便為替が来たのは午後になってから。窓口での現金化は本来午前中だけの扱いであった事が知れます。


 地圖が出た、鐵道案内が出た。市川、稲毛、大宮、飯能、立川、玉川、大森、森が崎、などそれぞれ心當りの場所が繰り返されたが、何しろ單に行つて一杯飮んで來ようといふので無いその場の思ひ立ちだから、なかゝ定らない。電車まで出るうちにはきまるだらう、とそのまヽ、下宿を出た。


 この当時の「郊外で、静かで、一杯やれる所」というのが、多分これらの市川、稲毛に始まる場所なんでしょうが、大森、森が崎というのは意外でした。実は私の勤めている会社、かつては大森駅前にあり、森が崎というのは倉庫の場所、現在の地番なら大森南地内ですが、あんな所に飲んで泊まれる所があったのか?地元出身の人に訊いてみると、どうも平和島のあたりでは無いかと言うのですが、確証はありません。競艇場が出来るまで、あのあたりには料理屋さんなどが建ち並んでいた、板塀の風景をその方は記憶していると言います。
 この後、結局どこへ行くと決まらぬまま、水道橋の「停留場」に入り、中野までの切符を買い、「電車」に乗ります。結局中野で、あと5分で「汽車」が来るから立川へ行かないか、と提案しますが、結局此處と変わるまいという事で、堀の内妙法寺の門前に「御料理御宿泊」の行灯を掲げた店で、一人
80銭という予算(?)一杯に収まったので泊まることにします。
 この頃、つまり大正5年どころか、明治37年の「甲武鐵道」時代、すでに中野まで電車運転が始まっていました。良く写真で見る2本ポールの電車で、これは、地磁気観測所が沿線にあり、直流電流が地面を流れると観測に影響するという事だったようです。ちなみに、現在の地磁気観測所は茨城県石岡市にあり、取手以北の常磐線、守谷以北のつくばエクスプレスが交流電化されているのは、そのためです。


 またふらゝと歩いた。私はたうとう、水道橋の停留所に入つて行つた。そして、中野までの切符を買つた。電車に乘ると、段々冷酒が利いて來ると見えて、兩人はすぐ頭を窓にあてヽうとゝとやり始めた。
 電車を降りると直ぐ私は汽車の時間表を調べた。そして、四邊を見廻すと、兩人が居ない。停車場を出て探すと、ずつと向うの踏切の所に立ちながら、新井の藥師の方から歸つて來る綺麗な女たちの一群を見附けて、何だか頻りに笑ひ合つてゐる。
 「オウ、いま五分すると汽車が來るが、それで立川まで行かないか。」
 「さア、……、どんな所です。其處は。」
 「どんなつて矢張り野原なんだが、近くに林や川やらあるよ。」
 「まア此處とさう變らないでせう。此處にしときませうよ、此際汽車賃が勿體ない。」
 それもさうだと私は思つた。此處とすれば新井か堀の内だが、どうも堀の内の方が靜からしい。そして、うすら覺えの道を左にとつた。

 この「新井」は中央線より北側、真言宗豊山派、梅照院薬王寺で、今の西武新宿線新井薬師前がもより。「堀の内」は中央線の南側、日蓮宗堀の内妙法寺「やくよけ祖師」の周辺で、今の中央線ですと高円寺からの方が近く、営団地下鉄丸ノ内線なら新高円寺が最寄りです。
 で、この話の結末は、と言いますと、もう牧水自身の筆を借りた方が良さそうなんで、原文から引用して終わりとしましょう。これでは悪酔いしそうですなァ………


 矢張り年下の英ちやんが一番さきに醉つた。
「ねェ、若山さん、今夜といふ今夜、私といふものに對する根本的の批評を聞かして下さい、是非何卒。」
「戲談ぢヤない。そんなものは僕は持ち合わせませんよ。」
「無いとは言はせません。貴下は用心深いから隱してゐるのです、隱さずに聞かして下さい、是非聞き度い。」
「隱すも隱さないも、お互ひの仲だ、君にはもう解つてゐるでせう。」
「否ヱ、解りません。解るには解つても、もつと根本的に具體的に聞かして下さい。」
「それぢア、其うしませう。またいつか酒なんか飮まない時に話しませう。今夜はそんな場合ぢアない。」
「否ヱ、場合です。またといふともう駄目です。第一貴下は私が如何なるものと見てゐます。」
「解つてゐるぢアありませんか。速く今の學校を出て……」
「それぢアありません。私に藝術家的、創作家的素質が……」
「英ちやん、君は一體本氣でそんな事を言つてゐるのですか。」
「本氣かとは餘りだ。私はこれでも……」
 今度は見兼ねてE――君がその先を引き取つた。彼は仲間一番の毒舌家として聞えてゐる。
 兩人が顔を火の樣にして聲高に罵り合つて居るのを耳遠く聞きながら、今夜もまた終に埒もないことになつて了つたと私は思つた。一本宛位ゐのつもりで取り始めた銚子はもうその時既に六七本も竝んでゐた。それを見ると見るゝ眉根の締つて來るやうな醉が頭に込み上げて來た。

(「お祖師樣詣り」、終わり)
「九州めぐりの追憶」

 この紀行文は単行本未収録、全集では第12巻に収録されています。大正1410月から12月末にかけて、大阪、岡山から九州各地を揮毫、講演で巡り、故郷の老母を別府に誘って遊ぶという旅です。ただ、これまでのように詳細な記録でなく、まとめて「追憶」という形ですので、あまり書く内容も無いのですが、ざっと眺めてみましょう。

 牧水の言うには、珍しく当初の予定を少しも狂わさないで50日間歩き回ったそうですが、1028日、喜志子と共に沼津発、大阪で歌会。29日岡山、四泊してこの附近の揮毫会を済ませ、112日から山口県下で二泊、114日八幡に着き、ここで五泊して揮毫会を開催。119日には福岡に入り、揮毫会開催で四泊。1113日には長崎入り。四泊し17日大牟田の従兄弟、若山俊一宅へ。船小屋温泉一泊で再び俊一宅へ戻り、24日まで滞在。25日熊本、26日阿蘇山麓栃の木温泉泊、27日には阿蘇山に登り、28日は熊本、12月1日熊本を出て霧島温泉へ、124日鹿児島入りして揮毫会を開き、当初の予定を終えます。ここで少しのんびりできて、阿久根のツルを見に行ったり、指宿温泉に一泊したりして、1210日宮崎入り。都濃の長姉の所で二泊。老母なども来ており、12日には揃って別府温泉へ。14日、姉や母を駅に見送って、大阪まで航路、船中一泊で15日大阪着、京都へ行って二泊し、沼津には1227日に帰っています。

 「温泉のこと」という一節は、この旅中歩いた温泉場の事をまとめたものですが、ここで笑えるのは、最初人吉から球磨川沿いに一里半あまりの林温泉、「こんどの旅」で、長男の旅人氏と共に泊まったところですが、社友?高木大樹に勧められて霧島温泉に行く事にします。

 其處へ行くには鹿兒島線牧園驛(注;現在の肥薩線霧島温泉駅、昭和37年霧島西口、平成15年現在の霧島温泉口に改称)で降り、霧島火山の裾野の傾斜を約一時間自動車で驅け登らねばならなかつた。驅け登る自動車の右手下には廣々として裾野が開け、裾野のはてには鹿兒島灣(普通錦江灣といふ)が輝き、灣の中には櫻島が聳えて居る。これが健常者で何の用事も荷物をも持たぬ旅客であつたなら如何にも珍しいそして景色のいヽ温泉の道であるに相違なかつたが、因果と我等はさう行かなかつた。既に五十日近い難行苦行の旅を續けて來てゐる我等夫婦の身體にとつてはこの雄大な坂道を驅け登るべく餘りに痛快にわが自動車は疾走し、動揺した。今にも放り出されるか、放り出されたら何處まで轉げて行くか量り知れぬ道下の崖である。必死とばかり車體の其處此處にしがみついてゐるのであるが、そのうちに頭は痛み、眩暈はするといふ風になつて來た。やれゝ高木君はエライ所を教へて呉れた、休息どころか難儀をしに來た樣なものだ、向うに着いた所で爲事も何も出來はしない、第一これでは身體がもたぬ、と思はれた。入浴とは云つても矢張り今までに申込んである鹿兒島での揮毫会の分を其處の温泉で書かねばならなかつた。ほんとにこれはひどい目にあつたと今は早や景色どころか兩眼を瞑しながらひたすらにたヾ悔いられた。
 漸く終點に着いた。見廻せばこれはまた老樹大木しんゝとして聳え立つた中にしよんぼりと小さな小屋が立つてゐるという終點である。エライ處に來たものだ、とまたしても思ひながらそれでも意外に深切な青年運轉手に荷物を擔いで貰つて、更に五六丁の急坂を登つて行つた。洋傘に縋つた妻などはまさしく半泣きの態である。

 と、とんでもない苦難の道、だったのですが、湯量は豊富、また、「人」と「人事」のうちに包まれ通しであった今回の旅で、ようやくそれらから解放され、夫婦二人の普通の旅に戻ったような、そんな気になります。翌日は雪。あまりにも突拍子の無い事ばかり起きるので思わず大笑い。この日はほとんど仕事せず、休養に努めたせいか、翌日は早くから墨を磨り、揮毫に勤しみます。雪の後の好天で、眺めも良く高千穂の峯、韓国岳なども見えたようです。

 滯在三泊、十二月四日、鹿兒島に向つた。今度下りの自動車は寧ろ快く乘りおほせる事が出來た。矢張り先日も堀がけの神經質は疲勞から來たものであつた

 まあ、休養がとれたのなら何より。なお、昭和2年川内まわりのルートが完成し、こちらが「鹿児島本線」、人吉廻りの路線は「肥薩線」と改称されたのは御存じの通りです。この、現在の肥薩線について書かれた部分を抜き出してみましょう。

 熊本を立つ朝は雨もよひであつた。汽車が球磨川に沿ふ樣になると、こまかに降つて來た。それが一層あの大きな山あひの渓の姿を生かしてくれた。靜かにもし、深くもしてくれた。ともすれば眠らうとする勞れた妻を、わたしは幾度か搖り起した。まつたく彼女にしては生れて初めて見る見事な渓谷であつた。木曾川をば幾度か見てゐるであらうが、木曾には此處の明るさ、こまやかさ、すがゝしさが見られないのである
 球磨川を過ぎるとわたしの呼ぶ日本の高山鐵道になる。大畑、矢嶽、眞幸驛あたり、わざゝ遠い處を望まずともいかにいま自分等の汽車が山の高みを辿りつヽあるかヾ解るほとにある邊の車中の眺めは高爽である。肥後大隅日向の平を遙かに見下して走るのは全く心地よい。

 小生も、昭和5042日、熊本からの急行「やたけ」、「えびの」でここを越えました。33/1,000の急勾配を、列車は28km/hでやっとこさ這い上がって行きました。大畑のループとスイッチバック、この程度しか写真が残っていません。牧水が言うような記憶も残っておりません。昭和47年だったかの山津波で、真幸駅は土砂に埋まり、その時の大きな岩塊がホームに残っております。また、この影響で線路有効長が短くなり、鹿児島行きの「やたけ」はそれ以来2両編成に減車(宮崎行き「えびの」はグリーン車を含む4両、「やたけ」もかつては4両だったのでしょう)になっています。


イメージ 1
大畑駅遠景

イメージ 2
大畑駅ホーム風景

イメージ 3
真幸駅(スイッチバック)。ホームの大岩が山津波の名残り


 一方、都城から宮崎までの、いわゆる「青井岳越え」については、

 先に矢嶽附近の高山鐵道をば説いたが、汽車が日向路に入つて山之口、青井岳驛あたりを走る附近がまた甚だ山深い。此處をば高山でなく山中鐵道と呼びたい。汽車は多く山腹を走り、周囲に原始林らしい森林を見て過ぐるのである。青井岳驛で降りた獵師らしい二人の男が貂(てん)に似た獸を背負ひ、藁の笠を冠つてゐたのなども土地に似つかはしい光景であつた。

 小生、この区間も、昭和5042日は南宮崎からDF50の牽く下り客車各停で、暗くなってから通りましたが、ちっともスピードが出ず、「あれ、結構登っているのかな?」と思いました。その翌日、上り?急行「えびの」(宮崎行き)で夕日の中を都城から宮崎まで乗り、「結構キツイ所だな」と、改めて思いました。その後、平成25年になって、電化されたこの区間を817系で越えています。山之口では、この区間1本だけのDC運用と行き違い、悔しい思いをしたものです。

イメージ 4

山之口で交換したキハ40上り列車


 其處を通り過ぎれば日向路の汽車は全部平地を走るのである。宮崎までは乾いた平野、其處からは海に沿ふ。海に沿うた中にも高鍋から美々津岩脇附近の海岸は松林の明るさ美しさ、磯から濱の曲折に富んだことなど、眼に殘る景色である。太平洋の遠いはてのうす紫に光るのもわたしには思ひ出深いものがあつた。

 この区間は、同じ旅行中の43日、宮崎を夕方日暮れ頃出る「日南」だったか、急行電車で大分まで行ったのみ。真暗で何も見えませんでした。もう一度行きたい所ではあるんですがね……

 鉄道関係の話は以上ですが、「おまけ」として酒にかかわる話。

 呑兵衛と云うより「アル中」の牧水の事ですから、この旅でも相当に飲んだはずです。健康を害するまでになり、自分でも「節酒、いや禁酒」と考えていたのでしょう。本人も「アル中」の自覚はあり、別府に呼び寄せた母に、

 「阿母さん、わたしも随分ともう酒を飮んで來たからこれから少し愼しまうとおもふよ。」母の返事は意外であつた。「インニヤ、酒で燒き固めた身體ぢやかル、やつぱり飮まにやいかん」これにも皆笑つた。

と言われます。「この親にしてこの子あり」か……この小文を、牧水は次のように締めくくっています。

 今度の九州旅行は要するに大酒ぐらひのわたしとしての最後であつた。とにかく思ひおくことなく飮んで來た。五十一日の間、殆ど高低なく毎日飮み續か、朝、三四合、晝、四五合、夜、一升以上といふところであつた。而して、この間、揮毫をしながら大きな器で傾けつつあるのである。また、別に宴会まるものがあつた。一日平均二升五合に見つもり、この旅の間に一人して約一石三斗を飮んで來た、と數字に示された時は、流石のわたしも物がいへなかつた。
 が、これで安心してこの馬鹿飮みの癖をやめることが出來るといふものである。現にもうやめている。やめねばならぬ所まで到達して來たのである。やれやれ長い道中でがあつたぞよといふ氣持である。


と言いながら、北海度行脚、さらには朝鮮行脚と、これらでも飲み続けて、寿命を縮める結果となるのは、皆様御存じの通りです。

(「九州めぐりの追憶」、おわり)

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