|
牧水の書簡・日記については、相当漏れがあると思いますが、興味を持って拾い上げた物だけご紹介しようと思います。
1.大正4年書簡、9月3日、井村北下浦より信濃、中村端あて
甲州から八王子へ出てあれから乘換、東神奈川でまた横須賀行きに乘換へればすぐです、
八王子から東神奈川、といえば、現在の横浜線で、この歴史を紐解いてみると、
・明治41年9月23日:八王子や甲信地方で生産された生糸を横浜へ輸送するこ
とを目的として、横浜鉄道によって東神奈川駅 - 八王子駅間が開業。東神
奈川駅・小机駅・中山駅・長津田駅・原町田駅(現在の町田駅)・淵野辺
駅・橋本駅・相原駅・八王子駅が開業。相原駅 - 八王子駅間に北野聯絡所
が開業。
・明治43年4月1日:内閣鉄道院が借り上げ、八浜線(はっぴんせん)となる。
・大正6年の5月 〜 8月には、原町田駅 - 橋本駅間で輸送力増強のための
標準軌化試験(1,067mmから1,435mmへ)が実施され、その後10月1日:国有
化され、鉄道院横浜線となる。
と既に開通し、鉄道院が借り上げていた時期となります。で、ここで横須賀行きに乗り変えろ、と云うからには、東海道線系統の列車が東神奈川に停車していたという事を意味しております。以前書いた大森駅の例もあるので調べて見たら、大正3年12月20日、東京駅開業に伴って、現在の京浜東北線に当たる「京浜線電車」が運転を開始。ところが故障の頻発でわずか6日後には運転中止に追い込まれるという憂き目に遭い、運転再開は大正4年5月10日。この書簡のころには電車運転が復活していた訳ですが、その後もしばらく東海道本線の蒸気機関車牽引列車が東神奈川駅にも停車しており、いつ頃から蒸気機関車牽引列車が東神奈川駅を通過するようになったのかは判然としない、とあります。
なお、東海道線の東京〜熱海間電化(このことは丹那トンネル開通前)は昭和3年、横須賀線大船〜横須賀間の電化完成は大正14年12月で、いずれも牧水が沼津に移ってからの話となります。また、横浜線は昭和7年10月、東神奈川〜原町田(現在の町田)が電化され、電車運転が始まって現在の根岸線桜木町までの直通運転が始まります。
2. 大正8年書簡 1月22日、 巣鴨から和田山蘭宛
廿五日土曜午后正五時、晴雨にかもはず院線品川停車場三等待合室で落ち合ふことにして下さい、それから三人大森にゆき其處の宿屋に泊ります、その夜はいろゝの相談や雜談、翌廿六日必死の勢で百枚片づけませう、何とか都合して是非右の如くして下さい、(萬一駄目であつたら一寸來て下さい)宿賃も紙も一切小生が用意してゆきます、とり急ぎ右のみ、
同日 巣鴨から菊池知勇宛
この廿五日(土曜)午后正五時、院線品川停車場三等待合室まで來て下さい。其處で和田君と落ち合ひ、大森までゆき、そこの宿屋に泊ります。そしてその夜は相談や雜談、翌廿六日必死の勢で書き上げませう。(後略)
同 巣鴨から和田山蘭宛
昨日葉書を出したが訂正かたゞもう一度書く、この廿五日(土曜)午后正三時、と訂正したい、土曜は晝あがりださうだネ、それなら三時に來られるでせう、さうして下さい、電車は京濱がいヽと思ふけれど、待合わせるには院線がいヽと思ふから院線品川驛待合室にしませう、それから書くべき歌をすつかり用意して來て下さい、筆と一緒に、硯も持つで來て貰ひたい、墨は僕のでいヽだらう、(後略)
この手紙は、おそらく「創作」の編集を、大森の宿屋にカンヅメでやってしまおうという事の打合せであろうかと想像します。ここで牧水が待ち合わせ場所として指定しているのが「院線品川停車場三等待合室」で、1月22日の手紙では「(大森へ行くには)電車は京浜がいいと思うが、待ち合わせは院線の方がいい」と行っております。今の品川駅、利用する機会が多いのですが、待合室なんぞがあったという事がちょっと信じられません。しかも、三等待合室、というからには、二等、一等の待合室が別にあったのでしょうね。この時の「大森」、宿屋がどの辺なのか解りませんが、牧水がここで「電車は京浜がいい」と言っている「京浜」は、現在で云う京浜急行ではなく、現在の京浜東北線の前身にあたる電車と考えられます。大正8年当時の京浜急行(当時「京濱電氣鐵道」)は、「品川」といいながら、現在の「北品川」が起点で、現在のように鐵道省品川駅に乗り入れてくるようになるのは昭和8年。また、大森〜八幡(現在の大森海岸)は、京浜電鉄の支線があったので、宿屋の場所が海岸沿いであったとしても大森からこれを使えば良いし、歩いたとしても大した距離では無いから、解り易い院線品川駅で待ち合わせようとしたと推察されます。ただ、もう一つ、院線の方で待ち合わせて、今の北品川まで歩いた可能性もありますが、はて、どうか?
で、この「北品川」駅、現在の「品川駅」よりも南側にあるくせに、なぜ「北品川」なのか、といいますと、どうも、東海道品川宿の北端にあったため、こういう名前となったそうです。ちなみに、開業当時は「八ツ山橋停留所」と通称されていたとのことでした。
その3 大正10年書簡 3月23日、湯ヶ島より、和田山蘭宛葉書
品川で大仁ゆきの切符を買ふのだ、大仁からは四里あるが、天氣だつたら歩くがいヽだらう、渓ぞひだ、午前八時何分と午後四時何分とにつく汽車には定期自動車の聯絡がある、馬車もあるがゆれるよ、何しろ、一刻も早くそのニヤニヤをよして立ち上ることだ、二人きりで湯に入つて話し合ふなんて、さう出來るもんぢアないよ、
奥さん、どうぞこの人を立たせて下さい、願ひます、ほんとに
これも、ちょっと興味をそそられるのですが、「品川で大仁行きの切符を買え」と和田山蘭に言っている、ということは、当時、私鉄への直通切符を販売していたという事ですね。丹那トンネル開通前ですから、三島(現在の下土狩)で三島田町行きの路面電車に乗り換え、そこから鉄道線にまた乗り換えるような連続乗車券、どんなだったんですかね?もしかしたら手書きの大型軟券?
(書簡・日記解析 つづく)
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2016年12月30日
全1ページ
[1]
|
(随想集 つづき)
大正14年2月刊行の「樹木とその葉」は、「随想集」として出されました。この中に「野蒜の花 その一」という一文があります。書き出しが
酒の話
これは、沼津の牧水記念館から出している「牧水 酒のうた」という小冊子には採録されておりませんが、まあ読んで呆れるような内容です。「牧水 酒のうた」の補遺ともなりますので、折角ですから全文をご紹介しましょう。
昨今私は毎晩三合づつの晩酌をとつてゐるが、どうかするとそれで足りぬ時がある。さればとて獨りで五合をすごすとなると翌朝まで持ち越す。
此頃だんゞ獨酌を喜ぶ樣になつて、大勢と一緒に飮み度くない。つまり強ひられるがいやだからである。元來がいけるたちなので、強ひられヽばツイ手が出て一升なりその上なりの量を飮み納める事もその場では難事でない。たヾ、あとがいけない。此頃の宿醉の氣持のわるさはこの一二年前まで知らなかつたことである。それだけ身體に無理がきかなくなつたのだ。
對酌の時は獨酌の時より幾らか量の多いのを厭はない。つまり三合が四合になつても差支へない樣だ。獨酌五合で翌朝頭の痛むのが對酌だと先づそれなしに濟む。けれどその邊が頂點らしい。七合八合となるともういけない。
まあ、私も、どうにかすると一人で二合くらい飲みますけどね。仲間と仕事帰りとか会合の後とか、東京で飲むと、その場の勢いで四合近く飲むこともありますが、帰りの事が心配で、やっぱり「殺して」飲んでいるのでしょうね。
人の顏を見れば先づ酒のことをおもふのが私の久しい間の習慣になつてゐる。酒なしには何の話も出來ないといふ樣ないけない習慣がついてゐたのだ。やめようゝと思ふ事も久しいものであつたが、どうやら此頃では實行可能の域にだけは入つた樣だ。何よりも對酌後の宿醉が恐いからである。
運動をして飮めば惡醉をせぬといふ信念のもとに、飮まうと思ふ日には自ら鍬を振り肥料を擔いで半日以上の大勞働に從事する創作社々友がいま私の近くに住んでゐる。この人はもと某專門學校の勅任教授をしてゐた中年の紳士であるが、さうして飮まれる量は僅かに一合を越えぬ樣である。その一合を飮むためにそれだけの骨を折ることは下戸黨から見ればいかにも御苦勞さまのことに見えるかも知れない。然し得難い樂しみの一つを得るがための努力であると見れば、これなども事實貴重な事業に相違ない。まつたく身體または心を働かせたあとに飮む酒はうまい。旅さきの旅籠屋などで飮むののうまいのも一に是に因るであらう。
まあ、牧水先生のお近くにいるんなら、飲めなきゃしょうがない、という気にもなるんでしょうが、飲む量が僅かに一合を超えぬ程度というのも、「そりゃ、ご苦労さん」ですわ。多分宿酔するタイプなんでしょうね。牧水はこれを決して非難せず、むしろ「事實貴重な事業」とまで賞賛しております。私が最近飲むようになったのは、これはあくまで推測の域を出ないのですが、脚部のヘンな乾疹?のため、永年「抗アレルギー剤」を服用しており、ために宿酔しなくなったから安心して飲めるようになったからではないかと思います。昔は、ひどければ缶ビール(350ml)1本で、翌日ひどい目に遭いましたから。とはいえ、基本的な「強さ」は、あまり変わっていないようにも思います。
旅で飮む酒はまつたくうまい。然し、私などはその旅さきでともすると大勢の人と會飮せねばならぬ場合が多い。各地で催さゝる歌會の前後などがそれである。酒ずきだといふことを知つてゐる各地方の人たちが、私の顏を見ると同時に、どうかして飮ましてやらう醉はせてやらうと手ぐすね引いて私の一顰一笑を見守つてゐる。從つて私もその人たちの折角の好意や好奇心を無にしまいため強ひてもうまい顏をして飮むのであるが、事實は甚ださうでない場合が多いのだ。これは底をわると兩方とも極めて割の惡い話に當るのである。
どうか諸君、さうした場合に、私には自宅に於いて飮むと同量の三合の酒を先づ勸めて下さい。それで若し私がまだ欲しさうな顏でもしてゐたらもう一本添へて下さい。それきりにして下さい。さうすれば私も安心して味はひ安心して醉ふといふ態度に出ます。さうでないと今後私はそうした席上から遠ざかつてゆかねばならぬ事になるかも知れない。これは何とも寂しい事だ。
獻酬といふのが一番いけない。それも二三人どまりの席ならばまだしもだが、大勢一座の席で盃のやりとりといふのが始まると席は忽ちにして亂れて來る。酒の味どころではなくなつて來る。これも今後我等の仲間うちでは全廢したいものだ。
う〜む、そうか。一杯の酒を味わうのに、身体が汚れているといえば銭湯へ行って、帰りは埃をまとわぬよう爪立って歩いてくる程の人ですから、旨くも無い酒は飲みたくも無い、という事なんですね。大正13年、長男の旅人氏を伴っての「こんどの旅」も、「何しろサケが恐くて」、初日は熱田であえて「素下戸の」鷲野飛燕宅を狙ったのに、
所が、同君はまた自身一滴も飮み得ない事を悲しみ特に小生の相手として附近で最強の飮手である中林晴太郎、前田源の兩君を招いて既に酒陣を張つて待ち受けてゐる所であつた。そして型の如く同家のを飮み乾した擧句、まだ何處かで起きてゐる家があるだらうと夜中に三人して出懸けて二三軒も飮み廻るといふ結果になつてしまつた。
という結末になったのは以前ご紹介したとおりですが、さて、ここからが牧水の本領発揮、なのです。
若山牧水といふと酒を聯想し、創作社といふと酒くらひの集りの樣に想はれてる、といふことを折々聞く。これは私にとつて何とも耳の痛い話である。私は正直酒が好きで、これなしには今のところ一日もよう過ごせぬのだから何と言はれても止むを得ないが、創作社全體にそれを被せるのは無理である。早い話が此頃東京で二三囘引續いて會合があり、出席者はいつも五十人前後であつた。その中で眞實に酒好きでその味をよく知つてるといふのは先づ和田山蘭、越前翠村に私、それから他に某々青年一二名位ゐのものである。菊池野菊、八木錠一、鈴木菱花の徒と來ると一滴も口にすることが出來ないのだ。そしてその他の連中は唯だ浮れて飮んで騷ぐといふにすぎない。にやゝしながら嘗めてゐるのもある。酒徒としてはいづれも下の下の組である。一度も喧嘩をしないだけ先づ下の上位ゐには踏んでやつてもいヽかも知れぬ。噂だけでも斯ういふ噂は香ばしくない。出來るだけ速くその消滅を計り度い。心から好きなら飮むもよろしい。何を苦しんでかこれを稽古することがあらう。一度習慣となるとなかゝ止められない。そしてだらしのない、いやアな酒のみになつてしまふのだ。
全國社友大會の近づく際、特にこれらの言をなす所以である。
まあ、それでも親玉が大酒飲みなら、結社自体もどう思われるかは見えた話。しかし、ただ浮かれて飲んで騒ぐようなヤツは「下の下の組」、ケンカを吹っかけないだけ「下の上」位に踏んでやっても良いが、と、何とも手厳しいこと。これでは、私なども下の下の組じゃあないですか。確かに、一度習慣になったら、休肝日もなにもあったものでは無く飲み続けておりますので。でも、飲んでいて酒の味が落ちてこないのかな?例えばビールなら、ある程度「苦くなったな」と思うところが大方良い加減で、それ以上飲もうとするなら、酒の種類を代えないといけませんね。
いずれにせよ、「朝二合、昼二合、夜六合、しめて一升」とか言って居る懲りない御仁ですから、今回は呆れて笑っておしまいとしましょう。
(随想集 おわり)
|
全1ページ
[1]


