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「別離」より
物をおもふ電車待つとて十月の街の柳のかげに立ちつつ
「別離」の後編から2首、紹介致しましょう。
この「電車」、前に書きましたが、まずは路面電車と思って良いと思います。路面電車、というのも、私のほとんど経験のない世界でしてね。巣鴨に親戚があり、その家の前を走っていた都電18系統、35系統は良く見たのですが、乗った記憶はほとんどナシ。高校時代以降、あちこちで路面電車に乗りましたが、やはり、日常の生活圏内に無い乗り物でして、いまひとつ想像力が湧きません。
でも、「十月の街の柳のかげに立ちつつ」って、当時は「安全地帯」というものは無かった、という事でしょうか?写真などで見る都電の安全地帯は、それなりに幅もあり、大きな駅名表示の上に時計なども着いていたのですが、伊予鉄道の松山市内線、大手町あたりでも、安全地帯は想像以上に狭く、車に突っ込んでこられたら、ひとたまりも無いな〜、と思ったものです。ちょっとピントが甘いですが、電車の車体の幅と比べてください。後ろに見えているのは、JRの松山駅です。
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ひややかに落葉林をつらぬきて鐵路走れり限りを知らず
この歌は、どこで詠まれたのか特定できませんが、「鐵路走れり限りを知らず」というと、何となく中央本線ではないか、と想像します。地図をご覧になって頂くと解りますが、中央本線、新宿を出て左にカーブを切ると、東中野から立川まで、見事に東西方向に一直線なんですよ。実際の電車は、ホームへ入るときのカーブとか、それなりの曲線を通過しますが、よくもよくも、こんなに真っ直ぐに線路敷けたな、と感心します。昔、父(辻堂の爺様)に、
「中央線って、何であんなに真っ直ぐなんだ?」
と聞きましたところ、
「土地が空いてたんだよ」
の一言。
今では「郊外」という言葉も「死語」になりましたが、この当時であれば、中央線沿線は、あちこちに雑木林も残っていたでしょう。「ひややかに」という言葉が、レールの冷たい光を感じさせます。こういう風景、私の知る限りでは、今では、高崎線では桶川から鴻巣あたり、東北線ですと古河から先の一部で、まだ見られるように思います。ただ、やってくるのは「汽車」ではなく、軽快なモーターのうなりを伴って、時速100kmくらいですっ飛ばしてくるJR東日本の新型電車ですが。
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2016年06月26日
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「別離」より
「別離」は、牧水3冊目の歌集ながら、本格的な出版物としての「歌集」はこれが初めてで、実質的には処女歌集と言っても良いかと思われます。内容としては「海の聲」、「獨り歌へる」からの再録と、明治43年1月までに新しく詠んだ133首で構成されているのは、ご存じのとおりかと思います。
これは、上巻に掲載されている、新しく詠まれた歌の中のものです。「別離」の上巻は、明治41年3月までの作品のようですから、この歌、「新作」とはいえ、「海の聲」、「獨り歌へる」に採り上げなかったものを拾い上げたのか?
草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒
「朝から飲むなって!」と言いたい所ですが、まあ、それは置いておきましょう。今の東海道線では、官設鉄道が明治39年4月から、新橋〜神戸間に「最急行」という速達列車の運転を始めており、運賃以外の別料金、今でいえば特急料金を取る列車でもあったようです。食堂車も連結されていたと推定しております。
牧水の乗っていたのが、この「最急行」かどうか解りません。「最急行」は、どうも昼行列車だったようで、「その食堂の朝の葡萄酒」というからには、夜行列車が静岡あたりで夜明けを迎え、沼津あたりから朝の営業時間になったので早速朝飯を兼ねて飲みに行った、という感じもするのです。ここら辺は、大宮の「鉄道博物館」へ行けば資料もありそうに思いますが、面倒なので省略させて頂きます。(無精やな〜)
「草ふかき富士の裾野」とは、この当時、丹那トンネルはまだ開通しておらず(開通は牧水没後の昭和9年)、今の御殿場線が「本線」でした。牧水の紀行文などで、「三島駅」と出てくる場合、これは今の三島駅でなく、御殿場線の下土狩駅のことです。
私自身、食堂車に行った記憶が数えるほどしか無いのです。結構汽車旅にでている割に、食堂車で朝食を採ったのは2回だけ。加えて、昔は酒を飲みませんでしたしね。ちょうど私が一人旅を始める年、北陸トンネルの列車火災事故(急行「きたぐに」)で死者が発生し、火元が「オシ17型」という食堂車だったことから、この型や、ビュッフェ式の「オシ16型」などの連結が一斉に取りやめとなり、また、食堂車の営業成績自体も芳しくなかったのか、編成としては食堂車を連結しながら、営業は休止、というのも多くなった頃の世代なんですよ。
やっぱり、車窓にながれる風景を肴に、あの「食堂車のテーブルで」飲んでみたかったですな〜。今流の「なんとかクルーズトレイン」も、まあ、良いですが、特別の料理なんて、値の張るもんは要らないんですよ、ね。
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晩夏(おそなつ)の光しづめる東京を先づ停車場に見たる寂しさ
前回だったか書きましたが、この頃、まだ東京駅は出来ておらず、この「停車場」とは、旧新橋駅であろうと思います。今のご時世、「晩夏の光しづめる」という感慨を抱かせるような駅は、東京にはあるのだろうか?際限のない雑踏ばかりがあるのではないか。
また、この歌を詠んだとき、牧水は故郷から上京して、新橋に着いたところなのではないでしょうか?これが「先づ停車場に見たる」という言い回しになっていると思われます。そうなると、この「停車場」は、なおいっそう、ただの「駅」ではなく、旧新橋駅や上野駅地平ホームのような、通り抜けの出来ない末端式のホーム構造を持つところであって欲しくなります。
これを書いていて思い出したのですが、阪神淡路震災の後、大阪方面に応援に出されましてね。たまの休日、周辺の電車を乗り歩いていたときのことです。南海電鉄の高野線、ほとんどの電車は難波から和歌山方面へ行く本線と複々線で並走し、岸里玉出で橋本方面に別れていきますが、その岸里玉出のホームの外れから、路線としては高野線の一部でありながら、運転系統としては全く独立した、汐見橋方面への電車が出ています。これに乗ったのは、日曜日の初夏の夕暮れ。あのころは、古い吊り掛けモーター式の電車で、線路は、ブレーキを掛けた時に飛び散る鉄粉で茶色一色。大阪市内で、こんなところがあるのかい?という路線でした。
大したお客さんもいないまま、終点の汐見橋へ着くと、駅の周りには全く人気が無く、近くを走る車の騒音がまるで別世界のもののように聞こえました。この汐見橋も、行き止まりの末端式ホームです。今はどうなったんだろう。
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