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ナンテン。
実はよく知られていますが、その花は、花ともいえぬ小さな花です。
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「獨り歌へる」より
「獨り歌へる」から、もう一首、小枝子に関する歌を挙げます。
六七月の頃を武蔵多摩川の畔なる百草園に送りぬ、歌四十三首
涙ぐみみやこはづれの停車場の汽車の一室(ひとま)にわれ入りにけり
年表によると、牧水は小枝子とともに百草園、現在の京王百草園を訪れ、2泊しているようです。京王電鉄の笹塚〜調布間開業が大正2年ですから、この当時であれば今の中央本線立川駅あたりから行ったのでしょうか。この「みやこはづれの停車場」は、飯田町であったかもしれません。
「汽車の一室(ひとま)」、牧水がどんな汽車(客車)に乗っていたのか?ウイキペデイアで「中央本線」と検索して記事を読んでみますと、大正4年当時の国分寺駅における列車の写真が載っています。鉄道国有化法によって主要幹線は官設鉄道に編入されたとはいえ、今の客車の原型となる、中央通路型の「鉄道院基本型客車」が製造されるのは明治43年から。ここに写っているのも、鉄道開業当時と余り変わらない?側面の数多いドアから乗り込む、どうやら二軸車。機関車はタンク機関車で、乗り心地にせよ、車内設備にせよ、とうてい私ごときの想像を超える世界です。
ここで、牧水の長男、旅人氏が、全集の「月報」に「牧水片々」として書かれていた事に思い至ります。大正4年3月19日、当時腸結核を煩っていた妻、喜志子の転地療養先である、三浦の南下浦へ、牧水に伴われて横須賀線に乗って行った時の客車の印象が、中央通路式のもので無く、この写真のような車両であったと記憶されているのです。旅人氏は、自分の記憶の誤りかもしれない、とは書かれておりますが、中央線の客車がご覧のとおりであれば、軍港である横須賀を抱えた主要幹線といえども、鉄道開業当時とあまり変わらない客車が走っていてもおかしくはないかと思います。
子供の頃の記憶というのは、曖昧なようで、後に考えるとかなり正確なことが在るのでは無いかと思うのは、私にも若干にたような経験があるからです。昭和40年ころだったか、何かの用向きで父(辻堂の爺様)と平塚へ行った帰りに乗った上りの客車列車の1両がオールロングシートのつり革つきだったのです。
「戦災復旧車」といわれる、70系客車は、内装が木製のオールロングシートでつり革付きという、かなり劣悪なものだったらしいのですが、それらも、昭和29年には、郵便車・荷物車などの「事業用客車」に改造されて姿を消しており、昭和40年代にそんなものが居るはずもなし、旧2等車の格下げ車だったのか、末期の113系電車のごとく、車番を変えずにロングシート改造したものがあったのかどうか?この当時ですら、客車列車というのは、大阪行き・姫路行きなど、相当長距離の、ごく一部の列車に限られており、それにこんな通勤型改造の車を組み込むか?という疑念も残るのですが、これはもう、客車に堪能な方のご教示を頂くしかありますまい。
って、結局、予想どおり、牧水鑑賞から脱線しまくっておるでないの!まったく!
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