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「渓谷集」は大正7年5月5日の刊、印刷所の都合で、「さびしき樹木」(同年7月23日刊)より先に出ております。
(秋の曇冬の晴)
―晝―
はつはつに秋を霞める武藏野の練馬の里の汽車よりぞ見ゆ
これはどこへ行った時の歌か、特定できておりません。大正7年11月12日、午後からふらりと飯能へ行って一泊、原市場や名栗などで三泊の旅をしており、この「渓谷集」の中心をなす歌がこのとき詠まれているようですが、この旅の往路であったのでしょうか?「武蔵野の練馬の里」と言うのは、今からは考えられない程のどかな風景があった、という事で、江戸川乱歩の「怪人二十面相」は、練馬の奥に三階建ての洋館を建てて、ここをアジトにしていたとか。「当時、洋館というだけでも目立つのに、三階建ての家を建てて、なおかつ隠れ家として成り立つ位当時の練馬は田舎だったということだ」と、これは評論家の小室直樹が何かで書いておりました。今の西武池袋線は、大正4年4月、池袋〜飯能間が開業。当初は蒸気機関車であったようです。大正11年所沢まで、大正14年に飯能まで電化されます。
我々の子供の頃、まだ「郊外」、「郊外電車」なる言葉は聞かれましたが、今は際限の無い都会化が進んで、昔なら荻窪あたり「郊外」だったんでしょうけど、今じゃどうなんですかね?高崎線で言いますと、桶川と北本の間あたりから、何となし雰囲気が変わります。道路でも、旧中山道を通ると、桶川の宿あたりから、いかにも古い街道だなぁ……という雰囲気が出てきます。
そういえば、何年か前、若死にした会社の同僚の葬儀が多磨霊園であり、西武の多摩川線に乗ったのですが、ここも、武蔵境からたった2駅ばかりの間に、「ここが都下か?」とぶっ飛ぶ位ののどかな風景がありましたなぁ……
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(上總の海)
(大正6年) 十一月末、上總國大原海岸に遊ぶ。
―途すがら−
停車場の裏の冬田に風わたり田尻にひくき晝の月見ゆ
上總野(かづさの)の冬田行きつつおほけなく富士のとほ嶺を見出でつるかも
大原というと、少々私も因縁があるのです。私が卒業論文書きのフィールドとして選んだのが、小湊鐵道の上総牛久から飯給(いたぶ)間と久留里線の馬来田(まくた)〜久留里間を囲んだ範囲で、嫌気がさすと原付バイクで「脱」とか称して大原、小湊、鴨川などに海を眺めに行きました。大原には、当時町営の国民宿舎「大原荘」というのがあり、海岸沿いのいささか侘しい、やや古びた建物が気に入りまして、会社に入って何年後か、銚子電鉄などに乗るため名古屋から出てきて、ここに泊まってみたのですが、飯は良くないし、朝飯が8:00からとか言うので、翌朝の食事は断って、バスも何も無いので駅まで歩き、結局売店でパンか何か買って食べたのかな?あの時は。
大原町は市町村合併で「いすみ市」となっておりますが、「大原荘」は廃止になったようですね。この卒論書き当時、よく泊まっていた市原市営の国民宿舎「月崎荘」も、その後は老人福祉センターとなってしまいました。
で、「上總野の」の歌ですが、本当に「上総の国」に入ってから詠まれた物でしょうか?大原に行くには、蘇我から外房線(房総東線)に入るわけですが、蘇我はまだ下総国ではなかったか?誉田・土気と峠を越えて大網に至ると上総国山武郡ですが、この先、房総東線で富士山見えたかな?
(渓谷集 おわり)
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