高崎線userのRailLIFE

倅:オカシイ。妹の方がネタ撮ってる 親父:偶然は怖いだろう??

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 皆様、あけましておめでとうございます。管理人の五十鈴拓磨です。まず最初に、年末のご挨拶ができなかったこと、並びに、新年のご挨拶が遅れましたこと、お詫び申し上げます。

 今年は、ご隠居の投稿で新年スタートとなりました。TOP画どうしようかな〜なんて考えているうちに新年になってしまって...TOP画も貼れない、情けない結果になってしまいました。来年は失敗しない(鬼が笑うかな?)

 さて、今年のトップを何も考えてなかったので、去年撮りためたもので申し訳ないのですが、四本載せます。

 まず一枚目
イメージ 1
 11月に有った、銀座線線路架け替え工事に伴う折り返し運転を撮った写真です。溜池山王幕が出るのは珍しいことなので、この時も、同業の方々が沢山いらっしゃいました。いつぞや、定期であった日本橋行や銀座行(これはあったか記憶が怪しい)も、もう一度くらい拝みたいですが、残念ながら01系は間に合わないでしょう。

 二枚目
イメージ 2
 719系の8連定期がなくなるといって飛び出していった時の写真。
なぜ8連の写真がないのかというのは、申し訳ないのですが、お察し頂きたいと思います。この時に、ご隠居がお勤めになっている会社の、北日本支社の方々とお会いし、お忙しい中、支社長樣・部長樣と少しお話しました。(入社試験の面接みたいで緊張しました(笑))

 三枚目・四枚目
イメージ 3
イメージ 4
 12月、コッペさんに誘われて、コッペさんの友人さん含め、三人で中央西線の大桑に行った時の写真です。夜は満天の星空が見えていたのですが、朝方には曇ってしまい、さらには三枚目はピン甘かましている残念な結果に。かなり悔しいので、この場でリベンジを誓います。近日中に必ず!リベンジします。(晴れカットほしい)

 一ヶ月に一回ぐらい、遠征やらネタやらを、チョクチョクと撮ってはいるんですが、掲載する気力と体力がないってオチなんです。(去年も同じことを言った気がしますが...)今年は同じことにならないように、モチベーション上げていこうと思います。

 最後に。セガレ失踪状態の当ブログも、皆様のおかげで八年目に突入いたしました。ありがとうございます。又、失踪中は、ご隠居に頑張っていただいたので、私も、色々治して頑張ろうかと思います。今年も、親子鳶のブログを、どうぞよろしくお願いします。


 私の愛読する詩人、萩原朔太郎は、牧水と親交があったんだなあ、と、この全集読破によって知りました。牧水没後の昭和3年11月号「創作」に、「追憶」として朔太郎が一文を寄せています。

 若山氏の死について、遺族の方から御通知がなかつた為、僕はずつと遲く、最近になつて始めて知つたわけであつた。明治大正の歌壇にかけて偉業を殘した、このなつかしい巨匠を失つたことは、個人としての友情以外に、深く痛惜に耐へないことである。
 僕が始めて牧水氏を知り、文學上での交友關係を結んだのは、以前の雜誌「創作」の頃からだつた。當時僕は、室生犀星君と共に詩壇に出て、北原白秋氏の雜誌「ザムボア」に寄稿してゐた。然るに「ザムボア」が廢刊になつた為、白秋氏は僕の誌稿を保存して牧水氏の「創作」に廻送された。(これは當時の僕にとつて、非常に嬉しいことであり、未だに深く白秋氏の御親切を忘れない。)

 ここで朔太郎は「ザムボア」と片仮名書きにしていますが、朔太郎の年譜やら、白秋に関するHPなどから推測するに、第一期の「朱欒」(読みは“ざむぼあ”。明治44年〜大正2年)の時代で、朔太郎の年譜によれば、大正2年「朱欒」」に朔太郎の短歌が掲載され、短歌と詩の爆発的な創作が始まる、とされています。また同じ朱欒」に詩が掲載されていた金沢の室生犀星と文通するようになります。
 牧水と白秋は、早稲田時代からの盟友ですから、朱欒」がダメになったとき、牧水の「創作」に紹介してやった、という事でしょう。
 一方、室生犀星の「我が愛する詩人の傳記」の「北原白秋」によると

 その後、たった一度、若山牧水の詩歌雑誌「創作」に、詩の原稿を送ってくれるよう白秋に頼んだが、翌月掲載されはしたものの三段組の投書仲間にはいっていて、私はブルブル震えて怒った。私はすでに当時生意気にも一人前の詩人になった気でいたが、若山牧水はまるで私なぞもんだいにしていなかったらしい。白秋をたずね三段組の悲哀をうったえたが、白秋はそれだから原稿を他の雑誌に送ることがいやだというのだ、向うには向うの雑誌のなりふりがあるのだからと言い、白秋は不機嫌であった。しかしその翌月号からは二段組になり、一家のあつかいをしてくれたが、白秋が手紙で牧水にそう言ってくれたものであろう。それは白秋だけにたよって他の雑誌に書かないでいるはずなのが、私のとるべき清節であったのに、そういう清潔さを知らなかった私の無礼も咎めずに、わざわざ手紙をかいて二段組にするよう、牧水に言ってくれたことも、なかなか出来ないことである。

 この犀星の一件が何時頃の事であるか特定できておりません。「朱欒」は2年そこそこの命でしたが、実はその前身が牧水の雑誌「創作(第一次)」(明治433月〜)で、明治449月、出版社である東雲堂から改革案なるものを突きつけられた牧水と佐藤緑葉は、即刻創作社解散を決め、10月号はなんとか出して、11月から白秋が編集する「朱欒」となります。
 「創作(第二次)」は、大正2年8月、あくまで以前の「創作」の復刊という形で始められ、朔太郎や犀星の書いている事柄、つまり「朱欒」がダメになって「創作」に原稿を送った、あるいは「朱欒」と「創作」が一緒の時期に刊行されていたのは、おそらくは大正2年のこのごく短い時期ではないかとまでは推論出来たのですが、これ以上の確証が掴めません。なお、復活した「創作」、大正2年8月号には、朔太郎、犀星の名が見られます。(「若山牧水伝」による)
 朔太郎の追悼文に戻りましょう。

 かうした關係から、僕も次第に牧水氏と文通し、遂に創作社を訪ねて逢ふことにした。僕が訪ねた時、牧水氏は二階の汚い部屋に案内され、酒など出して待遇されたが、當時僕は頭髪など縮らして大いにハイカラぶつて居たので、田舎者ムキ出しの牧水氏には、いさヽか意外の苦手らしく、妙な顔をして僕を不思議さうに眺めてゐた。僕の方でも、牧水氏の意外に田舎者であり、百姓然たる風貌に少しく面喰つた形であつたが、その中に話してみると、非常に親しみがある人物なのですつかり打解けて懇意になつた

 「二階の汚い部屋」というのは、恐らく明治44年1月、「創作」の出版社、東雲堂との間がおかしくなり、編集所を分離しようということで、麹町区飯田河岸31号、日英社という印刷所の二階を「創作社編集所」とします。「神田川の濠に沿って、濠の側から見たら三階になっている八畳の一室」という様な事を、牧水自身が「創作」の同年2月号「机邊より」に書いております。ここで、何時の時期まで編集を続けていたのか、同年5月には、牛込区横寺町36番地の佐藤緑葉宅に編集所を移動、9月には東雲堂との行き違いから創作社解散、大正2年の「創作」復刊のときは、小石川区大塚窪町の自宅だったのでしょうか?まだ特定できておりません。さて、懇意になったとはいえ、

 しかし僕の都會的な趣味性格と、牧水氏の田園的な野性とは、どこかで食ひちがふところがあるらしく、お互に好意と敬愛とを持ちながら、眞に氣心まで打ち解ける機會がなかつた。

と、朔太郎が書くのも無理はなかろうと思うのが、何せ犀星でさえ、先程の「我が愛する詩人の傳記」の中で、朔太郎を前橋に訪ね、始めて逢った時の印象をして、

 前橋の停車場に迎えに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口に咥え得ていた。第一印象は何て気障な虫酸の走る男だろうと私は身ブルイを感じたが、反対にこの寒いのにマントも着ずに、原稿紙とタオルと石鹼をつつんだ風呂敷包一つを抱え、犬殺しのようなステッキを抱えた異様な私を、これはまた何という貧乏くさい瘠犬だろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。と、後に彼は私の印象記に書き加えていた。

と書いている位ですから、当時の前橋どころか都会へ出てきても、髪の毛を縮らせているなんてのは、相当突飛な方だったんでは無いでしょうか?とは言え、

 かうして牧水氏との友情は、さまで親密とは言へないながら、お互いに深い敬愛と好情とを感じ合つて、割合に長く續いてゐた。僕はどうかして一度、牧水氏と思ひきり酒を飮み、倒れるところまでやつて見たいと考えてゐた。牧水氏の雅號が示す通り、その眞に牧歌的な風貌を考へると、何となく物なつかしく、いつでも逢ひたいやうな親しみを感じてゐた。端的に言ふと、僕は實に牧水氏の人物が好きだつたのだ。また、牧水氏の方でも、一首の苦手とは感じながら、何となく僕が好きであつたらしい。なぜならその後も、機會ある毎に僕を訪ねて、わざわざ前橋の家まで來てくれたから。

 牧水が朔太郎を前橋に訪ねたことを書いているのは、紀行文集「比叡と熊野」収録の「山上湖へ」で、大正8年6月2日、半日語り続けて昼飯をご馳走になって帰って来た、とあります。夜になって朔太郎が、ゆっくり飲まないか、と誘いに来ますが、体調思わしくなく断った、ともあり、この辺りが、朔太郎が書いている「一度倒れるまで飲んでみたかった」という所と関係するのではないかと思います。これは以前にも書きましたが、ある年の9月頃、乞食坊主のような格好の牧水が朔太郎の家を訪ねてきて、折悪しく外出中だったため、応対に出た父・密造に怪しまれて追い返されてしまったという一件、何時の話なんですかねえ?大正8年の訪問の時には、医師であった密造から薬を処方して貰っているくらいなので、この時密造とも面識が出来たのではないかと思うのですが、さて?

 しかし父の誤解にも、一面無理のないところがあつた。なぜなら牧水氏は、この年の前後に上州の温泉四萬へ行き、やはり風采上から安く踏まれて、非常な惡い待遇を受けたさうだ。牧水氏はそれを憤慨して居たけれども、あの粗野な風采と態度を考へ、僕はユーモラスの微笑を禁じ得なかつた。

 四万温泉で酷い目に遭ったというのは「みなかみ紀行」の旅、大正11年の10月からの旅です。この、朔太郎の父に追い返されたのが、何時の旅なのか、もうひとつ特定できません。また、この後機会が無くて一度も逢わずじまい、となると、外の旅の行程から見ても、大正11年の話ではなかろうか?そうすると、大正8年の訪問の時は、朔太郎の父とは顔を合わせていなかったという事になりそうですが、薬を貰っていることでもあるし、さて、どうなんだろう?「みなかみ紀行」以降、群馬方面への旅を特定するような紀行文もありません。旅の途中でちょこっと寄ったくらいはあるかもしれません。

牧水氏はいつも好んで、場末の汚い繩のれんで酒を飲んだ。銀座あたりの堂々としたカフェーには、どうしてもきまりが惡く、身が引けて這入れないのださうである。僕はさうした話をきいて、いかにも牧水らしく、自然で、純朴で、愛すべき人物を考へた。さうした内氣な、恥しがりな粗朴な心は、眞に叙情詩を本質してゐる人でなければ、決して持ち得ないものである。

 朔太郎は続けて、このように書いています。片や都会に憧れる田舎のキザ男朔太郎、片や田舎者丸出しの牧水、しかし、内気で恥ずかしがりという点では、どこか通じる物がありながら、外見?がこの二人の間を邪魔したのかも知れません。酒の飲みっぷりという点では、犀星の語る朔太郎は、とことん飲む泥酔派だったようで、徹夜で飲んでなお、朝方端座して微吟しているという牧水と徹底的に飲んだら、どういう事になったか、酒徒として朔太郎にどういう評価をしたか、興味津々ながら適わぬ話となってしまいました。
 さて、最後に、朔太郎の牧水評、こういった追悼文の文章を、どこまで額面通りに取って良いのか解りませんが、最後の所をご紹介しましょう。

 僕の見るところで故人の如きは眞の「生まれたる歌人」であつて、その人間として歩いた道も、昔の芭蕉や西行と全くひとしい。世に詩歌人の數は多いけれ共、眞の詩情を有するところの、眞の本質的の詩人はすくない。そして牧水氏の如き、この得がたく稀少の者の一人であつた。

 これをどう取るか、朔太郎の持つ世界と、牧水の持つ世界と、それこそ天地の開きがありながら、やはりどこかで引き合うものなのでしょうか?これは、当分の間「宿題」とさせて頂くことにしましょう。

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五十鈴 拓磨
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