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ここまで、いろいろな人の「旅の歌」、あるいは「望郷の歌」を採り上げて参りましたが、では、お前の「旅の歌」、「望郷の歌」はどうなんだ、と聞かれますと、頭を掻いて笑うしか無い状況でして……
以前、私が神奈川県藤沢市の海近くに生まれ育ったことは申し上げました。大学の専門課程が清水市(現在は静岡市清水区)だったので、昭和53年、20歳のとき、日本平の麓、鉄舟寺に程近いアパートに移り住んだところからが私の流離の始まりとなります。「故郷」というものを強烈に意識したのもこの時が初めてでした。自分が本当に「旅の中にある」と意識したとも言えます。とにかく、街の貌が違う。三保の松原は立派でしょうが、鵠沼のように大きな松が茂る住宅街も見あたりません。潤いというものを感じられませんでした。当時走っていた清水港線は、1日5本、ディーゼル機関車が盛んに汽笛を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり貨物列車を牽いていました。東海道本線からは遠く、藤沢時代、夕刻に慣れ親しんだ下り寝台特急の汽笛も、この下宿では聞くことができませんでした。
大学の裏手はすぐ駿河湾で、海岸沿いのサイクリングロードは、自転車通学だった私のお気に入りのコースでした。特に観光のオフシーズンとなれば、蕭条とした風景が広がっておりました。下宿にいると、町内には有線放送があって、正午には「椰子の実」のチャイムを流しました。私は無意識に二番の歌詞、「我もまた渚を枕 独り身の浮き寝の旅ぞ」を口ずさむようになっておりました。
そして昭和55年、今の会社に入り、最初の配属先である名古屋に移ります。名古屋という土地は、西には濃尾平野と呼ばれる広大な海岸平野、東には尾張丘陵と呼ばれるなだらかな丘が広がる起伏の少ない地形で、とにかくその広大さに戸惑いました。このころ読んだ豊田穣の「長良川」に影響されて、自分の雑記帳に「濃尾平野」と題を付け、「風土記」的な作品を試みては失敗し、これまた物にならず、清水時代同様2〜3編の小品が残るのみです。
私の生涯でもっとも大きな転機となったのが、昭和59年2月の仙台転勤でした。日本地図をご覧になればわかるとおり、日本列島は、関東平野を境として西側は東西に延び、東側は南北に延びています。東海道線〜山陽線を旅すると、いろいろな季節が混在して出てきますが、東北線の旅は、季節の変化を一直線に眺めることになります。山形県の豪雪地帯の現場、さらには岩手県の安代町への、月2回の地下水観測の仕事などをずっと手掛けることで、季節感、気候、風土が全く違う、自分が今まで知らなかった世界に飛び込んだことが良くわかりました。加えて鉄道趣味の点、合唱音楽の点でも実りの多い2年間でした。文筆の方は、相変わらず進まないながら、手紙形式の作品をいくつか残すようになりました。
平成30年2月
五十鈴拓磨・父
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2018年02月18日
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