高崎線userのRailLIFE

倅:オカシイ。妹の方がネタ撮ってる 親父:偶然は怖いだろう??

13番線、「親父の部屋」

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 「電気工学のおべんきょう(?)」も、国鉄車両で言いますとようやく昭和5455年、即ちこの隠居が会社に入社する前後、40年ほど昔まで追いつきました。今回は、対象とする形式が少ないので「鉄道図鑑」と併合して書いていくことにします。
 
 私鉄各社が複巻電動機を使って停止ブレーキとしての回生ブレーキを実用化させているのにも係わらず、旧国鉄はあくまで直巻電動機にこだわり、各種試験を重ねた結果、直巻電動機で停止ブレーキに回生ブレーキが使用できる「大容量サイリスタを用いた電機子チョッパ制御」の電車を登場させます。これが、中央線快速に投入された201系、昭和38年の103系以来久々の「通勤電車の新型」で、平成22年に至るまで活躍したので、多分「営業のY君」も「宇都宮のS君」も一度は目にしたことがあると思います。

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中央線快速の201系(セガレ撮影) 

 201系は中央線快速のみならず中央・総武緩行線(黄色い電車)、京阪神地区の東海道緩行線などにも投入され、後に関東では営業のY君が通勤で使う京葉線、関西では大阪環状線、関西本線、奈良線などにも転用されていきますが、JR東日本管内では既に絶滅種となってしまいました。セガレの初期の頃の写真しか無く、あまりデキが良くないのですが、これをご覧になれば「ああ、あれか!」とお解りかと思います。

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京葉線の201系(セガレ撮影)

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大阪環状線鶴橋駅での201系(隠居撮影)
 
 また、同系列でアルミ車体の203系という電車もありましたが、これは常磐線緩行〜地下鉄千代田線直通運転用の車両で、他の相互乗入れ区間には拡まらぬまま絶滅してしまいました。これは多分「営業のY君」の目にはほとんど触れなかったのではないか。宇都宮の前に水戸に駐在していたS君は、多少記憶にあるか?

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203系(セガレ撮影)
 
 旧国鉄がここまで直巻電動機にこだわったのは、やはり車両の「全国展開」という条件があったからだろうと思います。そして交流電化区間も抱え、通勤型から近郊型、急行型、特急型と用途の違う車両にもなるべく共通の構造を持たせたかったのでしょう。さらには「国鉄車両規格」のような物が一旦出来ると、これから外れることがなかなか出来ない事、当時の厳しい財政事情などもあったかもしれません。
 
 では、そもそも「サイリスタ」とは何か?中学時代の「技術家庭科」だったか、理科の時間だったか、「トランジスタ」の絵があって、「PNP型」と「NPN型」があり、PからNへは電流が流れるが、NからPへは流れないことを習いました。うまい具合にこの頃読んだ「鉄道ジャーナル」で「サイリスタチョッパ制御」の説明が出ていて、それには、
 
「サイリスタチョッパ制御とは、半導体をNPNPの順で接続した“サイリスタ”の、3つ目にあるN(これをを“ゲート”と呼ぶ)を抜き差しすることで電流(電圧)を制御する方式」
 


というような事が書いてありました。今になっていろいろ調べても、私の理解はそうそう間違って居なかったようです。ただ、「ゲート」の抜き差しを機械的にやる訳では無く、「ゲート電流」を流すことでサイリスタが導通すること、ゲート電流を止めても自動的に導通は停まらず、また別の仕掛けが必要な事などは最近知りました。

 また、「チョッパ制御」の意味は、「チョッピング=切り刻む」という事であり、チョッピングの周期、つまりは先に述べた「ゲート」が開いている時間を変えてやれば、全体の電流(電圧)が制御できる訳で、これは下の図のとおりです。なお、この絵は覚えておいてください。大分後になりますが、三相交流かご型誘導電動機の所で話しする、なんで直流の電気が三相交流に変換できるのか、その理屈の基本がここにあるからです。

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(「モータのキホン」より引用)

 これで力行時の話は大体ご想像が着いたかと思います。即ち、抵抗制御車であれば抵抗器で電流・電圧を制御するため熱で損失してしまう電気エネルギーが、サイリスタチョッパ制御であれば損失無く制御出来るという事なのですが、実際はどんな物であったか?

 もうひとつは、制御機の無接点化による保守の簡略化、電圧の無段階制御による急激なトルク変化、これから来る動揺の防止などもあったようで、確かに103系など、ブレーキを掛けた瞬間ですとか、ノッチオフの瞬間の動揺はかなりのものでしたが、最近電車が新しくなってから、あまり感じませんよね。

 103系との比較がウイキに出ていますが、駅間距離が長い中央線快速での使用ではあまり大きな差が出なかったようで、山の手で力行時4.4%・回生時22.9%、中央線快速では力行時何と0.6%・回生時21.3%(ともに回生失効は想定していない)で、これでは確かに「コスト倒れ」であったかもしれません。
 
 旧国鉄において、201系、203系以外に電機子チョッパ制御の車が発展しなかったのは、界磁電流より大きな電機子電流を扱わなければならないので制御装置が大型で重いことに加え、高価だったこと、後述の通り回生ブレーキが使えることを考慮してもなおコストを吸収出来なかったこと、そして全国展開の難しさもあった事でしょう。私鉄では前回も書いたとおり昭和30年代というかなり早い段階から、構造は複雑になりますが複巻電動機を使って回生電力も利用し、時代が下っては、扱う電流が小さい(即ち制御機の容量がより小型で済む)界磁チョッパ制御の車両が相当数走っていたという事を知って、私鉄に全く興味の無かったこの隠居は少々驚いています。
 
 で、期待された回生ブレーキの方はどうであったのか?抑速ではなく停止ブレーキですから、中央線快速であれば最高速度は少なくとも100km/h近かったのではないか。回生失効は車両側の発生電圧が架線電圧より低い場合にも、極端に高い場合にも起きるんだそうで、当然それを想定した電動機も作り、対策も考えていたようなのですが、それでも回生電圧が架線電圧を上回ることが多く、高速域では回生ブレーキの機能を絞らなくてはならないので、空制への依存が思ったより増えてしまい、足回り(ブレーキ系統)の保守簡略化にも役に立たなかった、という結果に終わったようです。

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 上の図は、電機子チョッパ制御車の回生制動時の回路図ですが(鉄道メカニズム探求より)、これに加え、「建設の施工企画 09.1号」に掲載された「電力回生ブレーキ技術の変遷」(佐々木拓二、国鉄で201系の開発に加わった方)という論文からも引用します。

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 単なる発電ブレーキであれば架線電圧は関係ないので、制動時の発生電圧は力行時の3倍くらいまで許容していたのが、電機子チョッパ制御車の場合、普通とは逆に電動機から発生する回生電圧が「架線電圧より少し低くなければならない」のです。これは、
 
・チョッパONで、電動機が平滑リアクトル(一種のコイル)を介して短絡
 状態になり、発電電流を増加させる。
・チョッパOFFで平滑リアクトルの端子電圧と発電電圧の和が架線電圧よ
 り少し高くなるので、架線に電気を返すことが出来、電流が減少する。
・このチョッパの高速なON・OFFとその周期(時間比率)の制御で回生
 ブレーキが作動する。
 
のだそうです。(イメージ的には、チョッパONで平滑リアクトルに電気を蓄え、チョッパOFFで放電する、というのも間違ってはいないように思えます。)それでも、回生制動時は電動機を45%の弱め界磁にして回生電圧を抑えたり、何と回路に抵抗を挿入して発電電圧を抑えるなど、様々な手を尽くしたのですが、高速からの回生制動は苦手だったようで、思ったほどの効果が出ず、論文の著者、佐々木氏は「嘘つき」呼ばわりされた、とも書かれています。最も、同論文で、佐々木氏が中央線快速の運転台に同乗して架線電圧を見ると、限界一杯の1,650Vもあって、これではまともに回生ブレーキが使えないで当然だと反論した、とも書かれています。回生ブレーキを使用するにあたっても、鉄道路線全体での「電気システム」として考え、変電所も力行時ばかり考えて高電圧で送電するのでは無く、時間帯によって送電圧を変えて回生電力を有効に利用することも考えなければならない、と論じておられます。確かに、首都圏から較べればかなり列車密度の低い信越本線新潟地区や大糸線などの127系電車は、電気を食ってくれる列車が居ないときのために発電ブレーキとしても使えるよう別に抵抗器を持って居るそうです。もちろん、回生できる部分は回生し、不足するブレーキ力の分だけ抵抗に流しているんでしょうが、せっかく回生ブレーキで電力を発生させても電気を食ってくれる列車が居ない時は、変電所で抵抗に流してしまうのではなく蓄電のための設備を設けるなど、大きな捉え方をしなければならない、という論旨には納得する次第です。
 ダイヤ改正から約1週間、安中貨物にキンタトップ、大館貨物は某サイトの情報を信じればキンタの4番、ということで、時刻変更で少し早くなった大館貨物を撮りに桶川駅へ。

 貨物列車時刻表では、熊タを9:39に出るから桶川通過は10:00過ぎか、と予想しつつ、露光合わせなどもあって、9:40頃には桶川駅ホーム北端に陣取りました。

 待つこと約10分、え?あれ、キンタだよな?まだ9:50だゼ!?

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 積み荷のコンテナから見て、どうあっても大館貨物の6098レ。しかも、予想と違って30番。雨がぱらついて来たので早々に引き上げてきました。

 午後になると打って変わって晴天快晴、南風が強くなりました。キンタトップが牽く安中貨物、これなら北上尾のホームからでなく、隣接する道路から撮るしか無かろう、と、セガレの脚立を拝借して線路際へ。しかし、手前の道路に車や歩行者がいると写り込んでしまうので、脚立使用をあきらめて線路際へ。

 露払いの8883レ、ダイヤ改正後も桶川で安中待避なのかどうか、今日は確かめられませんでした。チト露光オーバーだナ……しかも、この前ほど酷くは無いが、やっぱり「ガングロ」。こりゃ、マズいぜ!

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 で、本命の安中貨物5097レは、というと……

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 う〜ん、前回(H31.1.17)よりはマシか……ちなみに前回のはこれ。今日はなぜかトキばかり。

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 この機関車とはどうも相性が悪く、なかなか土曜日の大館貨物に入ってくれないんで、未だ綺麗に撮れたものがありません。本当に関門に転属してしまうなら、東北本線スジまで出張って撮って来にゃならんナ……
 あんまし能書きが続くと退屈でしょうから、電車編を始めたいと思います。まずは、これまで能書きを垂れてきた「抵抗制御」の電車、首都圏のJRでは唯一となってしまった185系から行きましょう。
 
 185系は昭和56年登場。東海道線の田町電車区に長らく在って伊豆方面の急行に活躍してきた153系も老朽化が進み、置き換えが検討されるようになりました。また、153系同様通勤輸送にも使える車両、かつ、当時183系で運転されていた特急「あまぎ」も併せて置き換えようといういささか八方睨み的な設計思想で、10両編成グリーン車2両組み込みの基本編成と普通車のみ5両の付属編成が作られました。翌昭和57年には、新前橋電車区の165系電車急行を置き換える為に塗装が横線1本で7両編成の200番台が車両増備され、大宮暫定開業であった東北・上越新幹線の大宮〜上野間を結ぶ「リレー号」としても使われました。しかし、世は移って、現在の特急定期運用は「踊り子」だけ。営業のY君、S君ともに、臨時列車として走る姿しかもう見られなくなりました。S君は大宮車両センターへの出入りで、まだ自宅から10両基本編成も見る機会があるかと思います。

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由緒正しき?第一編成

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第一編成のクハ、トップナンバー

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臨時用6両とはいえ、登場当時のストライプ模様、両毛線足利藤祭り臨時
 
 さて、昭和56年と言いますと、このご隠居は23歳、就職して2年目で既に名古屋に居りましたが、鉄道雑誌で185系の概要を読んで怒り心頭に発しました。まず、型式番号の10の桁は「8」ということは、「特急用車両」を意味します。185系より10年ほど前の昭和47年、房総方面の特急用に作られた183系が普通車に装備していたのは「簡易リクライニングシート」、まあロクな代物では無かったのですが、185系が普通車に装備したのは、何と、これよりさらに落ちる「転換クロスシート」。快速列車とか急行列車並の装備なのに、「あまぎ」から「踊り子」に改称し、従来の急行「伊豆」や「おくいず」を統合した「特急」に使おうとは、何という「やらずぶったくり」商法であることか!加えて設計最高速度が、急行型の165系と同じ110km/hというので、更にアタマに来ました。まあ、今からして見たら、185系の投入された線区は、線区の最高速度そのものが110km/hであるうえ、夏場や冬場の臨時列車対応として走るのが、上越線や信越線、中央東線などの勾配線区となるのは目に見えており、まあ仕方が無かったかと思うのですが、「転換クロスシート」の特急車というのだけは断じて許せませんでした。追い討ちを掛けるように、新前橋電車区に配備された200番台車両は、それまで165系で運行されていた急行「あかぎ」や「なすの」を置き換え、「新特急」に格上げするというナメた真似をしてくれましてネ。ですから、この隠居、185系の事を良く言った試しがありません。そのくらい「ど〜でも良い」車両だったのですが、いろいろ塗色変更などが出てきて、「末期的症状」を呈しだしてからようやくカメラを向けるようになりました。

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新宿行き「あかぎ」、ブロック塗装

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上越線スキー臨時快速、ブロック塗装

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157系「あまぎ」を模した塗装

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かつての80系急行「草津」を模した湘南色塗装

 なお、200番台車両で追記しておきますと、製造当時、まだ長野新幹線の開業前であり、信越線は碓氷峠の横軽区間が運行されていました。この区間は66.7‰という急勾配のため、「重い車両を坂の下の方に繋げる」という原則があり、電動車のユニット(モハ185とモハ1842両で1ユニット、詳細は別途)の向きが田町の車両と逆でした。平坦区間での原則は、ユニットを組む電動車のうち、型式番号が奇数の「M車」、主幹制御機を積んでいる車両が「北より」なのです。これも、平成25年の田町電車区廃止〜大宮車両センターへの集結前から、編成毎の方向転換が行われて、ユニットの向きをそろえました。また、グリーン車の位置が6号車(北から2両目)であったのを、4号車に組み直しました。このへんの写真が、無いんだよな〜。

 唯一、185系の事で良い方の思い出と言いますと、185系の搭載している電動機、MT-54型の音は、その前身であるMT-46型、つまりは幼少期から聞き慣れた153系に通じる音であり、夜など会社から帰ってきて北上尾で聴く特急「あかぎ」の通過音は、はるかな昔を思い出させる瞬間でもありました。

まあ、平成7年から新前橋所属の200番台車両、平成11年からは田町の車両も、リクライニングシートへの装備変換が行われ、ようやく特急車らしくなりましたが、シートピッチは転換クロスシートそのままのため、他の特急車より狭いと聞いております。新前橋の車両は、特に、前の座席の下に暖房装置があって、足を伸ばしづらいのが欠点ながら、まだ「切れ込み」というのか「凹み」を作って足を伸ばすスペースを稼いで居るのですが、田町の車両は暖房機のカバーに切れ込みが無く直壁になっているのです。

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前橋車、暖房カバーに切れ込みあり

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田町車、暖房カバーに切れ込みなし

 185系も、田町電車区が無くなって、基本番台も200番台も大宮車両センターに集結しましたが、さらには「あかぎ」、「草津」が6511000番台に置き換えられて定期運用を失い、グリーン車を外して臨時列車用の6両編成、また田町の付属編成5両からサハを1両抜いて4両編成、など、過去の優等列車用車両が辿ってきた路を、185系もまた辿りつつ在ります。185系「踊り子」の後継は、中央東線で「あずさ」、「かいじ」に使われて居た257系、多分房総方面の余剰車も加えての話でしょうが、いよいよ最初の編成が落成した模様で、とうとうこの電車も「過去帳入り」が近くなってきました。このご隠居が「定年」、人間で言えば入社1年下、という事になりますから、まあ、仕方ないんだろうなあ……
 先週の月曜日のことですが、会社で「営業のY君」に会ったら、
 
 「五十鈴さん、今週、ブログ上げませんでしたね。オレ、またいつ何時ひと様をイジるのかと思って、土曜・日曜に今朝までチェックしましたからね!」
 
だと。しっかりチェックしてくれてますね〜!
 
 前回まで「力行時」、つまり発車してから必要な速度まで加速していく段階での話をしてきましたが、今回は「制動時」、つまり停まるための段階について書いてみましょう。ここでは「モーターに外部から力を与えて回転させてやると発電機になる」原理を利用して、列車の持つ運動エネルギーを電気エネルギーに変え、更に抵抗器を通して熱エネルギーに変えて放散してしまう「電気ブレーキ(発電ブレーキ)」(以下特に断りが無く“電制”と言う場合、このブレーキシステムを指します)が主体となります。旧国鉄でこのシステムを使い出したのは、昭和32年に登場した90系電車(後の101系電車)からで、それまでは車輪を機械的に締め付ける物理的なブレーキが専らでした。電気ブレーキの併用により、車輪の損耗が減り、物理的なブレーキを掛けた時の鉄粉の飛散も相当に減らすことが出来ました。(もちろん、物理的なブレーキは「基礎的なブレーキ装置」として持っていましたが、この話はまた別途しましょう。)

 私の経験ですが、高校1年の時(昭和48年)、豊橋から静岡までを80系電車(13番線の最初の記事に出てくるあの車です)という電制を持たない電車に乗ってきたのですが、当然冷房など無く、窓を全開にしていましたら、家に帰ってふと目に違和感を覚え、こすってみたら角の尖った鉄粉が出てきました。よくも眼球を傷つけずに済んだもので、とくに乗っていたのが最後尾でしたので、ブレーキを掛けると各車両の台車から鉄粉が巻き上がるのが見えた位です。また平成7年、阪神淡路大震災の後、大阪店へ応援に行っていたとき、南海高野線の支線(天下茶屋〜汐見橋)に乗りに行きました。その当時でも電気ブレーキ付き車両が主流なのに、この線はかなりの「お古」が走っていて、当然電制を持っていませんでした。本線や高野線の線路を見ると、バラストが真白なのに、この線は電車がブレーキを掛けた時に飛び散る鉄粉で見事に赤茶けていて、その差には本当に驚きました。
 
 既に私が物心着いたころの首都圏では、電制を持った車両がほとんど、上述の80系も東海道線東京口では1運用しか無く、電制の無い電車に乗ろうとすれば、横浜線、南部線、鶴見線、御殿場線などに行かなければなりませんでした。この電制を持った電車の話についても、やはり中学時代に「鉄道ジャーナル」で読んだのでまとめておきます。また、ウイキペディアの「回生ブレーキ」というページもあり、併せて読んで頂ければ幸いです。
 
・電制と物理的なブレーキ(圧縮空気を使ってブレーキ装置を動かすので、
 以下“空制”と略します。)をまともに併用すると、電制の効く電動車(モーターを持っている車両)はブレーキ力が過大になる。
・従って、電制が効いている間は電動車の空制を加減していて、速度が下
 がって来て20km/hだかを切ると電制が切れて空制に切り替わる。なお、
 “切れて”、というより、速度の低下=回転の低下によって十分な発電力
 (=逆起電力)が得られなくなって電制が効かなくなるので、空制に切り
 替える。(この現象を前出のウイキペディアによれば“打ち切り”と言う
 そうです。)
・これが一番良くわかるのが、クモハ(制御電動車、運転台があってモー
 ターも持っている)で、ブレーキを掛けている時、クモハであれば運転台
 の圧力計は1.5Kg/cm2までしか上がらず、速度が落ちて20km/hだかを切る
 と、サッと圧力計の針が跳ね上がる。
 
 打ち切り現象発生の速度と空制調整中の圧力計の値は、もう記憶がアヤシイのですが、これを実際に確かめられたのは、多分京浜東北線の浦和電車区所属の103系、73両の編成、あるいは平塚や小田原の競輪開催日に走った臨時電車の7両編成であったと思います。というのは、当時の東海道線東京口の主力車両である153系、111113系には、元来「クモハ」が無く、同じ103系でも山手線用にはクモハを組み込んだ編成はありませんでした。そんな中で中学時代に私が乗る機会があったものと言えば、浦和の103系くらいだったと推定しております。
 
 結局、ブレーキを掛けるときに発電していながら、その電気は全部熱で捨てているというもったいない話を、電力として再利用出来ないか、というのが電力回生ブレーキの発想なんですが、「機関車図鑑 EF64」の所で書いたように、当時の半導体技術ではなかなか難しい面があったようです。というのも、「電制」の中には目的に応じて「停止ブレーキ」と「抑速ブレーキ」と大まかに二種類があり、長い急勾配を下るときに空制を使わず、電制だけでほぼ一定の速度で下って行くのが「抑速ブレーキ」、これに回生機能を持たせていたのがEF16だったわけです。回生ブレーキとして作動させるためには、発電された電気の電圧が常に架線の電圧を少し上回っていなければならず、もし下回るとたちまち「回生失効」と言って、回生ブレーキが効かなくなってしまいます。こうなると、単なる直巻電動機ではダメで、回路を追加して界磁を制御し、常に電動機から出た電圧を架線電圧より上げてやる操作が必要になります。つまり、事実上は「複巻電動機」に近い構造となっていたわけです。
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「鉄道メカニズム研究」より引用。別に、回路図が読める訳では無く、これでどうして回生ブレーキが使えるのか、説明できません…………


 EF16が「発電ブレーキ」でなく「回生ブレーキ」を採用したのは、何しろタイヤ緩みの対策が急務であり、これをなんとかするのが最優先であった事、当時の技術では大容量の抵抗器は重量が増えてしまい、最急勾配38‰という奥羽本線では列車の牽引重量に大きな影響を与えたからと推定するのがひとつでしょうか。後継機のEF64が回生機能を持たない発電ブレーキとしたのは、抵抗器の容量を大きくして熱で飛ばす方が当時の技術レベルでは楽だったのでしょう。また、抵抗器をなるべく小さく、軽くして、強制的にファンで風を送って冷却するという発想が、101系電車あたりから出てきて、技術的にもこの要求に追いつけるようになったからかと推定します。また、ほぼ一定の速度で勾配を下るための「回生機能の無い抑速ブレーキ」であれば、その制御も比較的簡単であったと考えられます。先ほどの「回生失効」は、電圧の問題だけで無く、電気を「食ってくれる列車」が居なくなれば発生します。ですから、ネットダイヤが組まれ、常に電気を食ってくれる列車が走っている横軽区間(碓氷峠)のED42や福米(板谷峠)のEF16でようやく実用化されていたのですが、「発電抑速ブレーキ」ならば、自車の抵抗器で電力を消費してしまう訳ですから、抵抗器の容量(冷却機能も、ですが)さえ確保しておけば問題は無い訳です。

 旧国鉄で最初に抑速ブレーキを装備したのは、「デラックス準急」の名で呼ばれた準急“日光”用の157系電車(昭和34年登場)で、その後上越線の特急「とき」用の161系、勾配線区急行用の165系、同じく勾配線区一般向けの115系などが作られました。実は、結構長野県下を歩いている割に「抑速ブレーキ」というものを意識したのは1回だけ。松本から夜行の「アルプス」で帰って来たとき、長い下り25‰を45km/h程でコンスタントにトロトロ下って行くので、「ああ、これが抑速ブレーキを効かせている走りか!」と思ったものです。

 では、今度は「停止ブレーキ」として回生ブレーキを使おうとすると、極論100km/h以上の所から停止までブレーキを掛けてくるわけですから、その発生電圧、電流ともに変化の幅が非常に大きく、高速域では電圧を抑制し、低速になるに従って電圧を上げてやる必要が出てきます。これは全く知らなかったのですが、昭和35年という早い時期に、東急が6000系(初代)で、複巻電動機を使った回生ブレーキ付き車両を世に出しており、直巻電動機のような電気子電流の抵抗制御ではなく、界磁電流の抵抗制御で力行、回生ともに行っていたんだそうです。時代が進み、界磁チョッパ制御の8000系なども出来て、私鉄の方は回生ブレーキが相当早くから停止ブレーキとして使われて居た訳です。

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同じく「鉄道メカニズム研究」より引用。


 ところが、旧国鉄は、あくまでより構造の簡単な直巻電動機にこだわり、営団地下鉄千代田線と常磐線緩行の相互乗入れの時、営団では既に発熱量の少ない電機子チョッパの6000系が出来ていたのに、抵抗制御オンリーの1031000番台を投入し、営団の者からは「結局アイツが入ってきて熱出して行く!」と後ろ指を指されていたような記事を読んだような記憶があります。

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営団(現;東京メトロ)の6000

 実際、冷房装置自体が又熱を出しますから、地下鉄の冷房というのはなかなか困難であろうと創造します。私の名古屋時代(昭和5558年頃)、地下鉄東山線は抵抗制御の100系、200系、300系が主力で、もちろん車両冷房は無く、新栄町など、12月中旬になっても改札口の係員が半袖のYシャツを着ているのを見て驚いた事があります。確かにあの発熱量はハンパではなく、昭和57年からアルミ車体で冷房付きのチョッパ制御車、5000系が出るに至って、やっと「冷房車」の恩恵にあずかれるようになりました。


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名古屋市交通局東山線 100


 地下鉄でなくても、多分昭和50年頃の夏場、山手線にもまだ冷房車がほとんど居なかった時代、窓全開で内回り電車に乗っていて、外回りの電車とすれ違う度にものすごい熱風を喰らうので閉口した覚えがあります。また、昔の103系、113系などで通勤していた時代、夏など、ホームの最前列で電車を待っていて、電動車(モハ)が通り過ぎる時の暑さ(当然抵抗器の放熱ですが)も思い出しました。上尾に来てからでも、既に115系は高崎線上野口から退いていましたが、基本的には抵抗制御車である211系と、VVVFインバータ制御の231系では、ホームに入って来た時の暑さが大分違ったようにも思います。今やその211系が、高崎から先に行かないと見られないご時世ですが。

 という具合で、調べれば調べるほど解らない事が出てくる泥沼に自分で足を突っ込んでおりますが、まあ、トシヨリもアタマ使わないといけないから、脳トレとでも思って頑張りましょう!
だいや かいせい しょにち は だいたい なにか ある の に あて ずっぽう で おけがわ えき まで でかけた ごいんきょ が また はずれ を ひいて かえって きました と さ ざまー

ダイヤ改正の初日、ムスメ(五十鈴拓磨・妹)は専門学校の卒業式で、籠原運用の最終日です。4月からは浦和運用になります。

しかし、う〜む、某サイトを見る限り、今日の4074レはブルサントップだと踏んだんだが……何か、前にも同じ目に遭っておらんかな〜?

キンタクマイチことEH500-901も、相模貨物までやってくる運用に入るかと思いきや、小牛田に帰ってしまうし……


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牽いている貨車と積み荷から見て、4074レ(ダイヤ改正で列車番号変わったかも)ではあるんですが、ね……

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五十鈴 拓磨
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