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今回は「砂丘」収録の歌です。この歌集は大正3年春から大正4年夏にかけて作られた歌を収録しており、大正4年10月15日刊、自序は「三浦半島海浜にて、大正4年9月14日」とあります。大正3年11月には、喜志子が心労続きで倒れ入院、翌大正4年1月には腸結核と診断され、3月、療養のため三浦半島の北下浦長澤、齊藤方に間借りして転居、といった時期のものです。なお、採録された歌は、編年が逆で、新しく詠まれた歌の方が先に載っております。
(山の雲)
「七月中旬下野なる瀬山君を訪ねむと思ひたつ」と題された一連の作品で、「友と相酌む歌」、「或る夜うち連れて川狩に行く」と続き、最後の「別離」にこの歌があります。
別れ來しけふの汽車路(きしゃじ)は夏雲の湧き立つ野邊のなかにしありけり
この時の経緯は、「旅とふる郷」の「野州行」に出ており、歌集中「瀬山君」とあるのは、「創作」の主要同人である「高鹽背山」のようです。汽車を降りたのは氏家で、ここからは馬車で喜連川まで行っています。背山氏と別れたのはやはり氏家、ですかねえ。あるいは、喜連川で別れて、氏家から東京へ戻ったのでしょうか。「野邊のなかにしありけり」とは、「野州行」によれば、
上州野州といふ樣な想像から上州同様山深い國としてのみ描かれてゐた。(中略)
ところが、大宮から小山宇都宮と行けどもゝ山らしい影も出て來ぬ。全くの平野である。 とあり、だいぶ自分の想像と違っていたと書いていますが、それよりも、広い、広い関東平野のただ中をひた走る汽車、その後ろに、まぶしい夏空と湧き上がる入道雲、という一幅の絵を見るようではありませんか。
そう、入道雲の彼方にも、また遙かな地の空を思うものなのです。
実は、「獨り歌へる」から採りこぼしていた一首に、
八月の初め信州輕井澤に遊びぬ、その頃詠める歌三十五首、
蟲に似て高原(たかはら)はしる汽車のありそらに雲見ゆ八月の晝
というのもありまして、やはり、ここで言う雲は、沸き立つ入道雲であって欲しいと思います。
ここから先は、あまり情緒の無い話、いや、牧水がその場に居たら、どんな歌を詠んだかな、と思うのですが、ある夏の午後、宇都宮店の監査を終えて東北線の各駅停車で帰ってきました。宇都宮を出るとき、すでに空模様は十分怪しかったのですが、次の雀宮あたりから、降ってきたな、と思うまもなく、文字通りバケツをひっくり返したような猛烈な夕立。石橋に着く直前、車掌が、
「現在強い雨が降っております。電車の後ろのほう、○号車より後ろは、ホームに屋根がございません。お降りになるお客様、○号車より前からお降り下さい」
という、気の利いたアナウンス。なかなかやるのぉ‥‥
「曇日」は、小石川時代の作品でしょう。最初の歌は、
再びは斯く晴るる日もあるまじと惜みつつ日ごと野に出づるかな
私も仕事柄「現場」によく出ました。特に山岳地の現場で、秋、本当に、一年に一日あるかないか、という絶好の好天に当たることがあるのですよ。山道に車を駐め、どこまでも見通せる素晴らしい景色を眺めながらものを想うひととき、そんな時間が、これからは持てるでしょうか?
くろぐろと汽車こそ走れ秋の日のその長き汽車のあとに立つ風
野ずゑゆく汽車のかげのみはるかにて秋の日いまだ暮れずあるかな
この二首も、余計な事は言わずにおきましょう。
(砂丘、終わり)
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20番線、親父の「鉄道以外」
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「秋風のうた」には、“夏の日の苦悩”、“秋日小情”、“秋風のうた”、“病院に入りたし”、“秋風の海及び燈臺”、”夜の歌”、”さびしき周囲”という小見出しが付いております。“秋風の海及び燈臺”は、大正2年10月、伊豆の神子元島で灯台守をしている早稲田時代の旧友、古賀安治を訪ね、「お前もこんな島で灯台守をやらんか?」と勧められます。”病院に入りたし“は、歌集の順番とは逆に、神子元島から帰って、借金取りを避けるためも手伝って小石川区大塚上町28、「芳静館」という下宿に逼塞していたころのものです。
この歌集での「大きな旅」というと、先の神子元島行きくらいのようで、汽車・電車の出てくる歌も、日常風景の中のものばかり、それこそ「下手な解説不要」の歌です。
(秋日小情)
いつしかに夏はすぎけりただひとり野中の線路われの横ぎる
大正時代の話、池袋の改札を出たらあたりは麦畑ばっかり、という時代の歌なので、詠まれた場所が何処であるのか、この「線路」が、何線のものであるか特定することが出来ません。ま、そんな事はどうでも良いのであって、野原の中の線路を横切るとき、遠く目を遣れば、日差しも、風も、雲もいつしか季節の移ろいを確かに見せています。牧水の心をよぎるのは、生涯の思いであった「さびし」、その裏表をなす「あくがれ」であったのでしょう。都会の、往来烈しい踏切では、流石にこういう気にはなれませんねえ……
たたずみて蟻に見いれるわがすがたごうごうと滊車かたはらをすぐ
この全集では、ほとんど「汽車」という表記の所、どういう理由かここだけ「滊」の字を使っています。この辺は、底本となったものの違いか、編集方針の違いか判断しかねます。
知る人も無けれ電車のかたすみにしづかに重き眼をとぢにける
この二首も、これ以上余計な事は言わないでおきましょう。
(さびしき周圍)
電車よりとびおりするな死にやせむこのごろのごとうつつなければ
牧水が大酒を飲んで、路面電車の線路にひっくり返って寝てしまい、電車を止めて大騒ぎになったというのは、よく知られた話です。「電留朝臣」(でんりゅうあそん)というアダ名まで着けられたそうですけど、まあ、低速の路面電車だからいいけどね。その一方で、「創作」復刊はしたものの、資金繰りに困って、心ここにあらず、というような状況だったのでしょうか?
で、「とびおりするな」、この時代の路面電車、いや鉄道線の電車でも乗降口に「ドア」というものがどこまであったのか?まず無かったので、満員の電車に、わずかにステップに足を掛け、つかみ棒を握りながら軽業的に電車に乗ることもあったのではないか?椎名麟三の「美しい女」は、昭和初期から戦後すぐまでの山陽電鉄を舞台にした小説ですが、初めの頃は鉄道線のくせに運転台も雨ざらしだったような記述があります。「とびおりするな」どころか、よく走行中に落ちて死ななかったものよ、と感心します。
これで、「秋風のうた」からの引用は終わりなのですが、前々から気になっていることをひとつ。
牧水という人の業績が今日もなお燦として語られているのは、奥さんの喜志子さんという人の「業績」ではないかと思うのです。生前は、歌名日本中に轟いているとはいえ、借金は山ほどあるくせに雑誌を次々作っては続かず、金が無い癖にふらっと旅に出てしまい、家にいれば「一日一升」の大酒飲み。家で荒れて妻子に当たる、等と言うことは全くなかったようで、娘のみさきさんが、
「(牧水は子供たちに)貧しさというものを一向に感じさせなかった」(全集十巻月報より)
という位ですから、よき父であったとしても、同じく歌人でありながら、妻として、母として家計をやりくりし、子供の面倒を看、はては「大きな子供」に近かったろう牧水の世話までしていた喜志子さん、どういう思いで暮らしていたのか?
この件については、また日を改めて語るべき重要な話題であり、たまたま目に付いた一首を紹介しておきます。
わが如きさびしきものに仕へつつ炊(かし)ぎ水くみ笑むことを知らず
「秋風のうた」 おわり
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「秋風のうた」に行く前に、「みなかみ」の補足をば……
櫻島はけむりを噴かぬ山なりきあはれ死にたる火の山にありき
大正2年1月5日、大牟田で開催された「暖潮」という雑誌の新年大会に招かれた後九州をほぼ一周した旅の歌の中にあります。桜島というと、しょっちゅう噴火して鹿児島市内が灰だらけになり、路面電車が前面に竹箒をつけて線路に積もった灰を取り除いているようなイメージがありますが、一時的に静かな時期があったんでしょうね。この翌年の大正3年の大噴火は、溶岩を出して、それまで「島」だったものが大隅半島と陸続きになってしまいます。「あはれ死にたる」どころの話ではなく、火山を嘗めてかかったらいけません。
さて、本題に入りましょう。「秋風のうた」は、牧水がなんとか周囲を説得して上京、小石川区大塚窪町20番地に家を借り、長野から妻子を呼び寄せての生活を始めています。以前掲載した「病院に入りたし」も、この「秋風のうた」の中に入っています。上京はしたものの、経済事情は苦しかったようで、
(夏の日の苦悩)
折しもあれ借金とりが門をうつくもり日の家の海の如きに
なんて歌もあるくらいです。そのくせ、どこでどうやって飲み代を工面するのかよく解りませんなあ……
―山蘭君とともに醉ふ、歌二首―
朝まだき夏の市街のかたすみの酒場(バア)に醉ひおれば電車すぎゆく
徹夜で飲んでたって事かい!呆れたもんだな。「おい、もう、一番電車動き出したぜ、山蘭君、どうする、これから?」ってなもんか?
いつしかに頭かたぶけ晝のまどとほき電車を聞いてゐにけり
この「電車」は、鑑賞する場合は、路面電車でも、既に走り出していた今の山手線の原型となる電車でも、どちらでも良いように思えます。ただ、牧水は「線路のそば」という随想を「海より山より」(T7.7刊)に入れていますが、大塚窪町の家が今の山の手線沿い、というか、題名の通り「線路のそば」で、牧水本人の筆を借りますと、
電車はそれほどでないが、汽車の通るたびに夥しい音響の襲って來るのが引越して來た當座の最大苦痛であつた。知つてるだらうが、山手線を通る汽車といつたら現今は貨物ばかりで客車はない。その貨物もまた無闇と長く、時には三四町にもわたるかと思はれる位ゐのすら走つて行く。それが前に言つた楢林一つを距てヽ走るのだから眞實夥しい音だ。音ばかりじやない、土地が搖れるのだ。或る午後、庭いぢりをした泥足のまヽ縁側に腰かけてぼんやり煙草を吸ってゐると、例の貨車がやつて來た。恐しい煙だと先づ遠くから來るその煤煙を眺めてゐたら、やがてゆさゆさと縁が搖れ始めた。見るともなく見てゐると、庭のはづれにずつと植つてゐる薔薇の青葉がさかんに搖れてゐる。幾つも咲いてゐるなかの一つの花などは、折も折、その時こぼれ落ちてしまつた。
「あれですものねエ!」
といふ聲がしたので氣がつくと、妻も隣室の三疊でこの汽車を眺めてゐたのだ。 こうなると、遠くの「路面電車の音」かな、という気もします。でも、この当時「時には三四町にもわたるかと思はれる位ゐ」というのですから、全長300〜400mもの、今と較べても遜色のない長い貨物列車が、山の手貨物を走っていた、という事なんですね。
また、この強烈な振動、どう考えるべきか?住所が「大塚窪町」である事を考えると、牧水の借りた家は、あの辺一体の台地に刻まれた谷(=窪)地形の中にあり、そこを山手線が掘り割でつっ切るように走っていたのではないかと、今の地図からも読めます。そういう場所の地盤は、表層に関東ローム層の再堆積した軟質な土層が分布している可能性があります。よく揺れるのは、このせいだったのではないでしょうか?
停車場の大扇風器向日葵(ひぐるま)のごとく廻れり默せる群衆(むれ)に
そうですよねえ、昔は、天上からでっかい扇風機がぶら下がっていましたもんねえ。私の小さい頃の記憶にありますよ。どこの駅だったのか、あるいはデパートのような所だったのか、記憶が定かでないのが残念です。
廃驛にならむといへる新橋の古停車場の夏の群衆
今の東京駅が開業したのが大正3年。以前、「旅とふる郷」の「秋亂題」を引用しましたが、上野駅は嫌い、新しい東京駅も馴染みが無くやはり旧新橋停車場がお好きだったようです。今の汐留口、超高層ビル群にかこまれて、旧新橋停車場の一部が復元されています。何度か用事があってあの辺も行きましたが、流石に昔を偲ぶのはなかなか困難な気がしました。
あと1回、「秋風のうた」から紹介します。
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今回は「みなかみ」収録の歌です。明治45年7月20日、牧水は「父危篤すぐ帰れ」の電報を受け取ります。しかし汽車賃すらなく、「死か芸術か」の原稿を東雲堂に渡しいくばくかの金に換えて7月22日新橋発、神戸から船を使い25日坪谷に着いています。
帰郷直後の歌は、父の健康状態も安定していて、「ふるさとの尾鈴の山よ」のような精神的にも安定した歌が多いのですが、同年
11月14日の父の突然の死に逢い、親族から故郷に留まることを強要されるようになってから、前歌集「死か芸術か」に始まる句点つき、破調の、口語に近い短歌が増えてきます。なお、7月30日、明治天皇が崩御され、元号が「大正」と改まります。
しんしんと頭痛めり、悲しき幻影(まぼろし)、輝ける市街(まち)の
停車場の見ゆ
この歌も、まだ父の死の前であろうと推定されますが、とにかく早く東京に帰りたい牧水と、長男のくせにとんでもない、地元で仕事を見つけて親を養え、という周囲の圧力とで、帰郷当初から相当に悩んでいたと思われます。「市街」といっても、これは東京のことで、当然、その停車場とは、当時の新橋駅でしょう。
さて、11月14日の父の死後、ほとんど顔を会わせれば母親や親族との口論が続き、旅に出ることなど思いもよらなかった所へ、翌年正月2日、大牟田の「暖潮」という雑誌の新年大会を1月4日に開くので是非出席して欲しい、旅費滞在費はこちらで持つ、という手紙を貰い、加えて大牟田には従兄の若山俊一が居て、何かと相談に乗って貰いたかったので、渡りに船とばかり出かけて行きます。実際は従兄も貧窮の中にあり、相談も出来ず漫然と顔を会わせては酒をのんでばかりだったようです。
(海及び船室)
一月初旬より二月初旬にかけ、九州の沿岸を一周せり、歌四十四首
乘換驛、待ちゐし汽車に乘りうつる、窓にま白き冬の海かな
大海の荒れの岸辺の浪のかげに人群るる見ゆわが冬の汽車
汽車の窓べに蜜柑の皮をむきつつも身をかきほそめ昨夜のこと悔ゆ
松の青さよ、とある悔をばおもひいで眼の痛きとき、
わが汽車の窓に
冬山の國ざかひなるいただきを搖れまがりつつ行けるわが汽車
細かい工程は解りませんが、1月3日別府港より葉書を出し、1月8日大牟田、14日島原港、31日及び2月1日鹿児島からの書簡があり、2月9日には坪谷へ帰りついて喜志子に手紙を出しています。鹿児島には、森園天涙、牧暁村、その他知り合いの歌人も多く、延岡中学時代の回覧雑誌「野虹」の仲間、前田霧岳が女学校の教師をやっていたので、会いに行ったもののようで、
「致るところで青年歌人たちから熱烈な歓迎を受けたが、悩みのある牧水にはあまり楽しめる旅ではなかった。」(大悟法氏の”牧水伝“から)
ようです。汽車の歌としても特段目を引くようなものは無いのですが、四首目の「とある悔」とは、松が多かったであろう安房の国の海辺、小枝子との悔恨であろうと思います。
なおこの年、大正2年4月24日には、信州で長男の旅人が生まれています。
――――「みなかみ」、終わり
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いや〜、昨夜は、あちらで買ってきた「多満自慢」(福生市)と「澤乃井」(青梅市)の飲み較べをやったら(といっても、ワンカップ同士ですが)ひっくり返って寝てしまいましてね……
御嶽神社本殿はケーブルカー終点から徒歩30分、最後の所がえらく坂がきつくて、ムスメや女房と「明日、大丈夫か?」と笑いながら歩いておりました。
さて、この御嶽山神社、事前にHPで見てはいたのですが「レンゲショウマ」なる植物、名前を聞くのすら初めて。どんなもんかいな、と思ったら……
今回は、せっかく買ったんだから、とFujiのFinepixを持って行きましてね。i-phone6とカメラ性能を比較してみたんですが、ホントi-phone6は綺麗に写りますね。ちなみにこれはFinepixの画像。
御嶽山は最高地点で標高900m位、ケーブルカー終点でも700m位あって、まあ、それなりに涼しかったですな。秋の七草のひとつ、キキョウも咲いておりました。そういえば8/7は、もう立秋。
辛うじてi-phoneと拮抗できる発色で撮れたFinepix画像。比較のためi-phone画像もお見せしたかったのですが、甘ピンなので割愛。
これも夏の花と言って良い、フシグロセンノウ。この花を採ってひっくり返すと、やぐら炬燵の形になるので「コタツバナ」という所もあるそうです。井伏鱒二の短編小説に「コタツバナ」というのがありますが、文章を読む限り多分この花を指していると思います。
最後に、山道を歩きながら、よくさえずるトリがおりまして、最初オオルリかと思ったのですが、どうも違う。皆であたりを見回しているうちに、ムスメが「おとん、あそこ!」と指さした木の上に居たのがこやつ。なんとか写真の撮れる所にいたのでズーム機能(35mm換算で800mm)を目いっぱい使って、手ブレと戦いながら撮ったうちの1枚が、これ。
こんなトリ知らんぞ、と言いつつ沿道の「野鳥ガイド」を見ても解らず、家に帰ってネットで検索したら、やっぱり「ガビチョウ」。日本居住の中国人が飼っていたペットが逃げ出したもの、あるいは、1970年頃のペットブーム後、値段が下がったのでペット業者が相当捨てたものもあるかもしれないという事。なにぶん「外来生物法」で「特定外来生物」の指定を受け、しかも2005年1月31日付、「指定第一次指定種」に加えられたという代物。
こやつ、中国では一般的な飼い鳥で、囀りを楽しむために飼われるそうで、ウグイス、オオルリなどのまねをするのも上手、都内では高尾山などでよく観察され、現在の所日本の固有種に対する影響はよく解っていないのが実態だそうです。従って、本格的な駆除にも至っていないようですが、鳴き声が大きく、棲息地付近の方々にはかなり嫌われているとも聞きました。因果なトリですナ……
なお、小生、女房、ムスメとも、翌日の筋肉痛はナシ、ということで、めでたし、めでたし……
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