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「別離」より
「別離」は、牧水3冊目の歌集ながら、本格的な出版物としての「歌集」はこれが初めてで、実質的には処女歌集と言っても良いかと思われます。内容としては「海の聲」、「獨り歌へる」からの再録と、明治43年1月までに新しく詠んだ133首で構成されているのは、ご存じのとおりかと思います。
これは、上巻に掲載されている、新しく詠まれた歌の中のものです。「別離」の上巻は、明治41年3月までの作品のようですから、この歌、「新作」とはいえ、「海の聲」、「獨り歌へる」に採り上げなかったものを拾い上げたのか?
草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒
「朝から飲むなって!」と言いたい所ですが、まあ、それは置いておきましょう。今の東海道線では、官設鉄道が明治39年4月から、新橋〜神戸間に「最急行」という速達列車の運転を始めており、運賃以外の別料金、今でいえば特急料金を取る列車でもあったようです。食堂車も連結されていたと推定しております。
牧水の乗っていたのが、この「最急行」かどうか解りません。「最急行」は、どうも昼行列車だったようで、「その食堂の朝の葡萄酒」というからには、夜行列車が静岡あたりで夜明けを迎え、沼津あたりから朝の営業時間になったので早速朝飯を兼ねて飲みに行った、という感じもするのです。ここら辺は、大宮の「鉄道博物館」へ行けば資料もありそうに思いますが、面倒なので省略させて頂きます。(無精やな〜)
「草ふかき富士の裾野」とは、この当時、丹那トンネルはまだ開通しておらず(開通は牧水没後の昭和9年)、今の御殿場線が「本線」でした。牧水の紀行文などで、「三島駅」と出てくる場合、これは今の三島駅でなく、御殿場線の下土狩駅のことです。
私自身、食堂車に行った記憶が数えるほどしか無いのです。結構汽車旅にでている割に、食堂車で朝食を採ったのは2回だけ。加えて、昔は酒を飲みませんでしたしね。ちょうど私が一人旅を始める年、北陸トンネルの列車火災事故(急行「きたぐに」)で死者が発生し、火元が「オシ17型」という食堂車だったことから、この型や、ビュッフェ式の「オシ16型」などの連結が一斉に取りやめとなり、また、食堂車の営業成績自体も芳しくなかったのか、編成としては食堂車を連結しながら、営業は休止、というのも多くなった頃の世代なんですよ。
やっぱり、車窓にながれる風景を肴に、あの「食堂車のテーブルで」飲んでみたかったですな〜。今流の「なんとかクルーズトレイン」も、まあ、良いですが、特別の料理なんて、値の張るもんは要らないんですよ、ね。
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晩夏(おそなつ)の光しづめる東京を先づ停車場に見たる寂しさ
前回だったか書きましたが、この頃、まだ東京駅は出来ておらず、この「停車場」とは、旧新橋駅であろうと思います。今のご時世、「晩夏の光しづめる」という感慨を抱かせるような駅は、東京にはあるのだろうか?際限のない雑踏ばかりがあるのではないか。
また、この歌を詠んだとき、牧水は故郷から上京して、新橋に着いたところなのではないでしょうか?これが「先づ停車場に見たる」という言い回しになっていると思われます。そうなると、この「停車場」は、なおいっそう、ただの「駅」ではなく、旧新橋駅や上野駅地平ホームのような、通り抜けの出来ない末端式のホーム構造を持つところであって欲しくなります。
これを書いていて思い出したのですが、阪神淡路震災の後、大阪方面に応援に出されましてね。たまの休日、周辺の電車を乗り歩いていたときのことです。南海電鉄の高野線、ほとんどの電車は難波から和歌山方面へ行く本線と複々線で並走し、岸里玉出で橋本方面に別れていきますが、その岸里玉出のホームの外れから、路線としては高野線の一部でありながら、運転系統としては全く独立した、汐見橋方面への電車が出ています。これに乗ったのは、日曜日の初夏の夕暮れ。あのころは、古い吊り掛けモーター式の電車で、線路は、ブレーキを掛けた時に飛び散る鉄粉で茶色一色。大阪市内で、こんなところがあるのかい?という路線でした。
大したお客さんもいないまま、終点の汐見橋へ着くと、駅の周りには全く人気が無く、近くを走る車の騒音がまるで別世界のもののように聞こえました。この汐見橋も、行き止まりの末端式ホームです。今はどうなったんだろう。
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20番線、親父の「鉄道以外」
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もう一首、「獨り歌へる」からご紹介して、先に進むことにいたしましょう。
停車場に札を買ふとき白銀の貨(かね)のひゞきの涼しき夜なり
当節、駅の窓口で切符を買うことも少なくなりました。かなりのローカル線へ行っても、無人駅でも「自動券売機」があって、近在へ行き来する程度の切符は買えます。小生の日常生活圏であれば、「スイカ」などの磁気カードでほとんどの用が足ります。
出張などで特急券・指定席券が必要になった時でも、混雑している「みどりの窓口」より、券売機を使ってしまうわけですが、大都会の駅の雑踏の中、機械の投入口に硬貨を流し込むときの音は、これからの時期、いっそう涼しく聞こえるのではないでしょうか?
ほんと、小生の世代では、隣の藤沢駅、運賃区間で言えば最低額かもひとつ上の区間である隣の駅まで、「大人1枚、小人1枚、いくらになる?」と、窓口でやりとりしていたのが普通の話だったのですからねえ。うちのセガレやムスメあたりは、この歌をどう鑑賞するのか、聞いてみたいものです。
最近で、窓口のお世話になったという記憶は、昨年よく乗り降りした常磐線広野駅で、ここは、例の原発関係の仕事をする人にとっての最前線みたいな所。乗車券(いわゆる普通の切符)は、遠距離でも窓口ですぐ買えるのですが、全社座席指定の特急「ひたち」、「ときわ」を初めとする特急券や指定席券は、いちいち“いわき駅”まで、駅員さんが電話で問い合わせ、その結果を手書きの券面で発行してくれるという、「みどりの窓口」が出来る以前の辻堂駅みたいなことをやっておりました。なんか、久しぶりだよな〜、窓口で、人から手書きのキップ買うのって……
あの、出札口の、お金をやりとりする大理石?の、窪んだ台。残念ながら写真を撮ってこなかったんですね〜。
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獨り歌へる より
ほこり湧く落日(いりひ)の街をひた走る電車のすみのひとりの少女(をとめ)
当時は、路面電車が走るほどの道路でも、舗装などされておらず、さぞかし埃が立ったんでしょうね。周囲が朱く染まって行くなか、乗り合わせた電車の片隅に座っていた少女、この姿は、是非逆光で眺めたい所ですね。彼女の、その周辺だけ、妙に明るい雰囲気が漂っていたのだろうか、と思います。
これも、平成2年の事ですから、大昔ですがね。新潟から、夜、「いなほ」酒田行きに乗りました。新潟を出ると周囲は真っ暗、いくら特急電車の蛍光灯照明の下でも、夜の電車には、独特の重い雰囲気があります。そのなかで、同じ車両に乗っていた若い女の子たちのまわりだけが、わずかに華やいでいたのを記憶しております。
おぼろ夜の停車場内の雜沓に一すぢまじる少女の香(か)あり
同じ「獨り歌へる」の下巻の方にあるこの歌も、そんな所なんでしょうか。この「少女」、歌の成立年代から見て、小枝子のことをそう歌ったという事も考えられますが、ここは、ごく普通の、街で見かける少女、という事で良いのではないかと思います。「少女の香」というのは、嗅覚というより、先に書いた「雰囲気」、「空気」に近いものと思いますが、いかがなものでしょうか?
なお、牧水の歌のなかには、「汽車」だけでなく「電車」という言葉も出てきます。この「電車」、時代的に見て、まあおおかたは路面電車の事であろうと思われますが、甲武鉄道が飯田町〜中野間で最初の、まっとうな、鉄道線としての電車を走らせたのが明治37年、気をつけて読まないといけないものがあります。最初の歌のように、どう見ても「路面電車」と解るものは良いのですが、「さびしき樹木」(大正7年7月刊、大正6年夏〜秋に詠まれたものを収録)にある、
麥ばたの垂り穂(たりほ)のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村
のような歌もあり、この頃は既に今の山手線の原型となる電車も走っておりますので、どちらの電車(鉄道の電車なのか、路面電車なのか)か判断着きかねる部分があります。
最後に、これは、妙に心に留まったので、書き写しておいたものです。「獨り歌へる」の上巻に採られています。
父の髪母の髪みな白み來ぬ子はまた遠く旅をおもへる
牧水は当時24歳。「長男である」という事は、今より遙かに重いものであったでしょう。故郷へ帰って父母に孝養を尽くすのが当然であるのに、しかも、もう、父も母も、頭に白いものを頂く歳となったのに、文学で身を立てるという志止み難し、その思いが、「子はまた遠く旅をおもへる」に込められていると感じます。
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ナンテン。
実はよく知られていますが、その花は、花ともいえぬ小さな花です。
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「獨り歌へる」より
「獨り歌へる」から、もう一首、小枝子に関する歌を挙げます。
六七月の頃を武蔵多摩川の畔なる百草園に送りぬ、歌四十三首
涙ぐみみやこはづれの停車場の汽車の一室(ひとま)にわれ入りにけり
年表によると、牧水は小枝子とともに百草園、現在の京王百草園を訪れ、2泊しているようです。京王電鉄の笹塚〜調布間開業が大正2年ですから、この当時であれば今の中央本線立川駅あたりから行ったのでしょうか。この「みやこはづれの停車場」は、飯田町であったかもしれません。
「汽車の一室(ひとま)」、牧水がどんな汽車(客車)に乗っていたのか?ウイキペデイアで「中央本線」と検索して記事を読んでみますと、大正4年当時の国分寺駅における列車の写真が載っています。鉄道国有化法によって主要幹線は官設鉄道に編入されたとはいえ、今の客車の原型となる、中央通路型の「鉄道院基本型客車」が製造されるのは明治43年から。ここに写っているのも、鉄道開業当時と余り変わらない?側面の数多いドアから乗り込む、どうやら二軸車。機関車はタンク機関車で、乗り心地にせよ、車内設備にせよ、とうてい私ごときの想像を超える世界です。
ここで、牧水の長男、旅人氏が、全集の「月報」に「牧水片々」として書かれていた事に思い至ります。大正4年3月19日、当時腸結核を煩っていた妻、喜志子の転地療養先である、三浦の南下浦へ、牧水に伴われて横須賀線に乗って行った時の客車の印象が、中央通路式のもので無く、この写真のような車両であったと記憶されているのです。旅人氏は、自分の記憶の誤りかもしれない、とは書かれておりますが、中央線の客車がご覧のとおりであれば、軍港である横須賀を抱えた主要幹線といえども、鉄道開業当時とあまり変わらない客車が走っていてもおかしくはないかと思います。
子供の頃の記憶というのは、曖昧なようで、後に考えるとかなり正確なことが在るのでは無いかと思うのは、私にも若干にたような経験があるからです。昭和40年ころだったか、何かの用向きで父(辻堂の爺様)と平塚へ行った帰りに乗った上りの客車列車の1両がオールロングシートのつり革つきだったのです。
「戦災復旧車」といわれる、70系客車は、内装が木製のオールロングシートでつり革付きという、かなり劣悪なものだったらしいのですが、それらも、昭和29年には、郵便車・荷物車などの「事業用客車」に改造されて姿を消しており、昭和40年代にそんなものが居るはずもなし、旧2等車の格下げ車だったのか、末期の113系電車のごとく、車番を変えずにロングシート改造したものがあったのかどうか?この当時ですら、客車列車というのは、大阪行き・姫路行きなど、相当長距離の、ごく一部の列車に限られており、それにこんな通勤型改造の車を組み込むか?という疑念も残るのですが、これはもう、客車に堪能な方のご教示を頂くしかありますまい。
って、結局、予想どおり、牧水鑑賞から脱線しまくっておるでないの!まったく!
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