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「お犬様」(狼)が関係する所といえば、埼玉県下ではまず三峯神社。火伏せの神様、盗賊除けの神様として、お犬様のお札を良く見かけます。
この前、同じくお犬様(大口真神)を奉る青梅の御嶽神社へは行きましたが、やっぱり三峯、行ってみようよ、ということになって、昨日、ムスメと二人で行ってきましたが、いた、遠かった………上尾から3時間近くかかったもんな〜。
圏央道桶川北本ICから県央鶴ヶ島まで高速、あとは日高市を抜け、八高線高麗川駅南の陸橋を越え、正丸峠の長いトンネルをくぐって秩父市へ。以前三峰口までは行った事があり、まあ2時間はかかるので、覚悟はしていたものの、もう行きがけから幾分へばり気味。距離的には片道102kmと、青梅・御嶽神社の倍以上。そんな険しい山道も無かったんですが、やっぱり「トシ」ですかね?
特徴的な形の鳥居。
これを「狛犬」と言うのが正しいのかどうか。不謹慎ながら、今でも放映しているのかどうか、NHKの某アニメに出てくる狛犬の兄弟、「オコ坊」、「ニコ坊」を思い出して、思わず笑ってしまいます。まあ、あんなもンが本当に出てきたら、怒りますが。(笑)
随身門。
これも「狛犬」的位置づけですが、先程のものと同様、顔は、いわゆるオオカミですな。ただ、「ニホンオオカミ」というもの、どうも正体がはっきり分かっていないという説もあります。結局、いまだに生きているという説が後を絶たず、真相はヤブの中。
本殿。とにかく寒かった。帰路、神社から半分程下がった道路途中の標識に温度計が併設されており、これが「5℃」。神社本殿ではさらに低かったのでしょう。ただ、平地では木枯らしが吹きまくっていたようですが、山の上は無風。日だまりではむしろ暖かかったですよ。
いくつかお守りの類を買い、酒を買って帰ろうとしたら、手頃なワンカップ酒はみな「糖類」が入っているのでヤメ。ワインの小さい瓶を赤白1本づつ買って終わり。
駐車場付近まで降りてきて、これは廃業した宿泊施設なんだろうか、軒先に干し柿が吊されていました。あんまり構図が良く無いけど……
そろそろ昼なので、手近の食堂で昼食。秩父名物?「わらじカツ丼」。食べきれるかな〜、と、少々不安でしたが、あっさり完食。肉も軟らかくて、\1,000.-なら、まあ観光地であることも考えたら、許容範囲ですナ。
この後、秩父市内の「民芸カフェ」でコーヒーを飲んで帰って来ました。
朝家を出たのが7:15頃、帰って来たのが15:35。帰路の圏央鶴ヶ島ICに乗る手前で少々流れが悪かった程度で、全行程順調に走りました。やれやれ……
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20番線、親父の「鉄道以外」
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「上京記」は単行本未収録、全集第10巻に収録されています。既に沼津に居を移していた牧水が、東京日日新聞が東宮(後の昭和天皇)ご成婚記念事業の一つとして公募した「國民の歌」の選者を依頼され、とにかくその選評会に出なければならないと、大正12年12月22日、沼津を6:45発の汽車で上京した時の様子を、牧暁村宛の手紙の形で書いています。
今までならば四時間と少しで沼津から東京へ行けたのですけれど、今では五時間半ばかりかヽります。やはり地震(注;この年が関東大震災の年)後の線路の修繕がまだ充分に出來てゐないのです。横濱または品川をすぎてからの東京の燒跡の哀れさ物凄さが汽車の窓から見えましたけれど、それらの事はもう大抵御存じでせうから略します。とにかく、十二時三十何分かに東京驛に着きました。
当時は御殿場経由ですから仕方ないにしても、これは急行等を使っての話かどうか書かれておりません。震災前の4時間少々が1時間半も余計に掛かるようになったというのは、よくよく最高速度その他に制限が掛かったと言う事でしょうか。ちなみに現在のキロ程で東京〜国府津〜御殿場〜沼津は137.9km。表定速度を計算すると震災前、それでも35km/h程だったものが震災後は25km/h程に落ちています。
電化された現在の御殿場線は、速い列車では1時間25分くらいで国府津〜沼津間を走り、表定速度は43.0km/h、単線区間だからまあ仕方ないか。国府津〜東京間の東海道線区間は、それこそ表定速度60km/h近い、当時の急行よりもっと速い列車が沢山走っては居ますが、現在でも沼津から御殿場経由東京までは、まあ3時間見ておいた方が無難でしょう。
こういった数字を比較すると、どうも「震災前には4時間少々」というのは、勿論電化前の話ですから、やはり優等列車ではなかったかな、という気がしてきます。
さて、東京に着いて、会議が14:30からということで、先ず昼飯を食べようと「精養軒で出してゐる食堂」に行くと、ものすごい混雑。駅の反対側、丸ビルの地下が食堂街であったことを思い出して、そちらに廻ってみれば、精養軒以上の混雑。人いきれの凄さに食欲も何もすっとんで、丸ビルを出、馬場先門あたりで、「文化食堂」なるバラックの食堂に一升瓶が並んでいるのを見て俄然食欲復活。馬鹿馬鹿しい、と言いながらも食券を買う行列に並び、“二合瓶二枚、鴨南蠻二枚”を買って、尻半分くらいしか載せられない席で食べる事になります。結局鴨南蠻の一杯は、隣で飲んでいた人にプレゼント(原文でもこう書かれている)して、食堂を出てきます。この描写からすると、今時これ程の混雑というのはとうてい考えられない状態です。そんな有様なら私も人の勢いにはじき飛ばされて終わりでしょうね。
とても我々の樣な氣の弱いものには割り込む事の出來ない物凄い力がそこら中に張り滿ちてゐるからです。
(中略)
とにかく何ぼ時間だとは云ひながらこの食物に群がつてゐる人間の夥しい數だとかそんなごたごたした中で平氣でガブゞ喰べてゐる有樣だとかいふものが、いかにも現在の「東京」の象徴の樣な氣がしたのです。イヤ、單に「東京」のみでなく、「日本」そのものの縮圖の樣にも思はれないではありませんでした。
ここで、その「文化食堂」の食券メニューを牧水が書き残してくれているので、眺めて見ましょう。
さうして竝んだ順序に天どんだとかお刺身だとかジヤミ附パンだとかカツレツだとかチヤアシユウメンだとかお汁粉だとか云つてめいゝたべたいものヽ切符を買つて中に入つてゆくのです。
ほお、大正も12年になると、カツレツ、チャーシューメンなどが食堂の定番メニューになっていたのか。「ジヤミ附パン」は、今で云うジャムパンでしょう。
さて、その東京日日の「國民の歌」の選者ですが、作曲家の山田耕筰、北原白秋、牧水に佐佐木信綱(但しその日は病欠)という顔ぶれ。三万通の応募の中から、先ず東京日日の学芸部で予選をし、それを印刷した物が各選者の所に送られてきた訳ですが、因果なことに、いかにも拙いものばかり、50点をも付けてやれるものが無いという有様。白秋、山田耕筰も、牧水と同意見で、牧水などは当初「一等、二等無し、三等のみ」を主張しますが、其れでは会社が困るということで、「一等なし、二等二人、三等三人」と決まります。この後、演奏会があるので先に帰った山田耕筰を別として、食事から続けて飲み、河岸を変えるとか言ってもとの有楽町駅下のバラックで飲み、気が付いたら深夜二時頃?大森海岸の料亭に、牧水、白秋、東京日日の学芸部長が三人して座っていたという、お決まりのパターン。
とろゝとしたかとおもふと軒下を通つてゐる京濱電車の響に眼を覺されました。や、これはやかましい、もっと靜かな家に行つて飮み直さう、とツイその筋向うの松淺といふのに移りました。
「大森海岸」は、今の京急の大森海岸、当時「八幡」と呼ばれていました。ですから「京濱電車」は京浜東北線ではなく、京急の事です。当時の社名は「京濱電氣鉄道」で、明治38年には、品川(現;北品川)〜神奈川間を開通させています。大森海岸は当時は「八幡」と言い、昭和8年、現在の「大森海岸」に改称されます。もともとは明治34年、大森停車場から六郷橋までの路線の途中に出来た駅で、大森海岸から大森までの支線は昭和12年まで営業されていました。
「移りました」と言うけど、まだ朝っぱらの話ではないの?続く文章が、とうてい想像できない代物です。でも、こういった事があちこち出てきますので、当時は当たり前の事だったのでしょう。
程なく風呂が沸き、日あたりの座敷のお掃除が出來、鍋だ天ぷらだ海鼠の酢だとごたくを竝べて飮み始めました。
朝からこういう営業、してたんですね……
いま、インタ−ネットで、大正10年頃、昭和5年頃など、古い地形図が、日本のごく一部ながら閲覧でき、これを見ると、京浜電鉄は本当に海のそばを走っていたことが良くわかります。大森海岸など、現在の姿しか知らない私には想像着かないのですが、第一京浜国道のすぐ向こうはもう東京湾で、それこそ”山は上総か房州か”の世界だったようです。この前の「お祖師樣詣り」でも、大森、森が崎という地名が出てきて驚きましたが、明治34年湧出の「森が崎鉱泉」があり、戦前は東京の保養地、海水浴場として賑わったようです。1920年の地形図を見る限り、現在の大森南、大森東などは、既に陸地になっております。これが江戸時代からの干拓地か、もとからの陸地か、これまた調べが付いておりません。なお、唐突ながら、昭和5年の、いわゆる帝国陸軍の「十月事件」に関する、「特高 二・二六事件秘史(小坂慶助著)によりますと、
十月四日(日曜日)、に橋本(欣五郎)中佐、長(勇)少佐、田中(清)大尉、小原(重孝)大尉の四名が、大森、森ガ崎の料亭万金に会合した席上、橋本中佐は、……
というのがあり、当然憲兵隊にも目を付けられている急進派将校達が「密会」とは言わずとも、ある程度人目を避けて会合できる場所、それが森が崎あたりであったという事のようです。この「料亭万金」、今でもあるのかどうか、インタ−ネットでは引っ掛かって来ません。
で、牧水ら一行、結局夕方まで飲んで大森から各方面に別れます。この当時白秋も小田原に住んでいたので牧水と一緒になる訳ですが、その大森駅、明治9年開業という古い歴史を持ち、現在のような京浜東北線のみが停車するようになったのは何と昭和5年というから、これまた古い話。大正12年当時は、まだ遠方へ行く列車も停まっていて、牧水・白秋が同行出来るわけです。なお、現在でもその気になって見ると、何となく昔は貨物も扱っていた(昭和49年廃止)ような感じが線路の配置から見えます。
更にそれから、
北原の奴はまた謀反を起し、大船驛の近くの大船閣といふ温泉宿に行つて今夜は泊らう、あそこには多少イハクがあるとか何とか言ひ出し、たうとう其處で一人で降りてしまひました。
まあ、懲りない連中ばっかし、ですな。大船に温泉なんかあったんかい?多分沸かし湯でしょう。あんな所、熱源が無いもの。
さて、これで一応「紀行文」は終わり、残るは随想、書簡・日記、そして一編だけですが「小説」もあります。いま少しお付き合いください。
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紀行文の中で、二編ほど漏らしてしまったものがあります。古い方からご紹介致します。
「お祖師樣詣り」(全集第5巻 単行本未収録)は大正5年、まだ家族を三浦に置いたまま、仕事のために上京して居た頃の話と思われます。本当に三浦の借家を引き払い、小石川区金富町に居を構えるのがこの12月です。
二三日前、或る心祝いの事があって、折柄出逢ったE――君を捉えて軽く一杯を挙げたのがもとで、とうとう二三日を酒に浸ってしまった、という牧水が、大正5年10月17日の「旗日」、結局仕事も進まず、手元にあった一升瓶を開けてまた飲み始めた所へ5円の郵便為替が来ます。どこか場所を変えて、郊外の非常に静かなところでもう少し飲んで、充分に眠って、このだらだらした酒飲みを打ち止めにしようと言っていた所へ近所の英ちゃんが飛び入りで仲間に入り、郵便為替を現金化して軍資金の調達なった所で、ちょっと面白い記述があります。この英ちゃん、なりにも顔にも若旦那風が残り、頭が非常に聡明で、並外れた怠け者、という、チト古い表現ながら「モラトリアム」みたいなものです。まあ、何時の世でも、金のある階級には、こういうのが出てくるんでしょう。「旗日」というのは、「神嘗祭」の祝日だったようです。この郵便為替が来たのは午後になってから。窓口での現金化は本来午前中だけの扱いであった事が知れます。
地圖が出た、鐵道案内が出た。市川、稲毛、大宮、飯能、立川、玉川、大森、森が崎、などそれぞれ心當りの場所が繰り返されたが、何しろ單に行つて一杯飮んで來ようといふので無いその場の思ひ立ちだから、なかゝ定らない。電車まで出るうちにはきまるだらう、とそのまヽ、下宿を出た。
この当時の「郊外で、静かで、一杯やれる所」というのが、多分これらの市川、稲毛に始まる場所なんでしょうが、大森、森が崎というのは意外でした。実は私の勤めている会社、かつては大森駅前にあり、森が崎というのは倉庫の場所、現在の地番なら大森南地内ですが、あんな所に飲んで泊まれる所があったのか?地元出身の人に訊いてみると、どうも平和島のあたりでは無いかと言うのですが、確証はありません。競艇場が出来るまで、あのあたりには料理屋さんなどが建ち並んでいた、板塀の風景をその方は記憶していると言います。
この後、結局どこへ行くと決まらぬまま、水道橋の「停留場」に入り、中野までの切符を買い、「電車」に乗ります。結局中野で、あと5分で「汽車」が来るから立川へ行かないか、と提案しますが、結局此處と変わるまいという事で、堀の内妙法寺の門前に「御料理御宿泊」の行灯を掲げた店で、一人
80銭という予算(?)一杯に収まったので泊まることにします。
この頃、つまり大正5年どころか、明治37年の「甲武鐵道」時代、すでに中野まで電車運転が始まっていました。良く写真で見る2本ポールの電車で、これは、地磁気観測所が沿線にあり、直流電流が地面を流れると観測に影響するという事だったようです。ちなみに、現在の地磁気観測所は茨城県石岡市にあり、取手以北の常磐線、守谷以北のつくばエクスプレスが交流電化されているのは、そのためです。
またふらゝと歩いた。私はたうとう、水道橋の停留所に入つて行つた。そして、中野までの切符を買つた。電車に乘ると、段々冷酒が利いて來ると見えて、兩人はすぐ頭を窓にあてヽうとゝとやり始めた。
電車を降りると直ぐ私は汽車の時間表を調べた。そして、四邊を見廻すと、兩人が居ない。停車場を出て探すと、ずつと向うの踏切の所に立ちながら、新井の藥師の方から歸つて來る綺麗な女たちの一群を見附けて、何だか頻りに笑ひ合つてゐる。
「オウ、いま五分すると汽車が來るが、それで立川まで行かないか。」
「さア、……、どんな所です。其處は。」
「どんなつて矢張り野原なんだが、近くに林や川やらあるよ。」
「まア此處とさう變らないでせう。此處にしときませうよ、此際汽車賃が勿體ない。」
それもさうだと私は思つた。此處とすれば新井か堀の内だが、どうも堀の内の方が靜からしい。そして、うすら覺えの道を左にとつた。
この「新井」は中央線より北側、真言宗豊山派、梅照院薬王寺で、今の西武新宿線新井薬師前がもより。「堀の内」は中央線の南側、日蓮宗堀の内妙法寺「やくよけ祖師」の周辺で、今の中央線ですと高円寺からの方が近く、営団地下鉄丸ノ内線なら新高円寺が最寄りです。
で、この話の結末は、と言いますと、もう牧水自身の筆を借りた方が良さそうなんで、原文から引用して終わりとしましょう。これでは悪酔いしそうですなァ………
矢張り年下の英ちやんが一番さきに醉つた。
「ねェ、若山さん、今夜といふ今夜、私といふものに對する根本的の批評を聞かして下さい、是非何卒。」
「戲談ぢヤない。そんなものは僕は持ち合わせませんよ。」
「無いとは言はせません。貴下は用心深いから隱してゐるのです、隱さずに聞かして下さい、是非聞き度い。」
「隱すも隱さないも、お互ひの仲だ、君にはもう解つてゐるでせう。」
「否ヱ、解りません。解るには解つても、もつと根本的に具體的に聞かして下さい。」
「それぢア、其うしませう。またいつか酒なんか飮まない時に話しませう。今夜はそんな場合ぢアない。」
「否ヱ、場合です。またといふともう駄目です。第一貴下は私が如何なるものと見てゐます。」
「解つてゐるぢアありませんか。速く今の學校を出て……」
「それぢアありません。私に藝術家的、創作家的素質が……」
「英ちやん、君は一體本氣でそんな事を言つてゐるのですか。」
「本氣かとは餘りだ。私はこれでも……」
今度は見兼ねてE――君がその先を引き取つた。彼は仲間一番の毒舌家として聞えてゐる。
兩人が顔を火の樣にして聲高に罵り合つて居るのを耳遠く聞きながら、今夜もまた終に埒もないことになつて了つたと私は思つた。一本宛位ゐのつもりで取り始めた銚子はもうその時既に六七本も竝んでゐた。それを見ると見るゝ眉根の締つて來るやうな醉が頭に込み上げて來た。
(「お祖師樣詣り」、終わり)
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「九州めぐりの追憶」
この紀行文は単行本未収録、全集では第12巻に収録されています。大正14年10月から12月末にかけて、大阪、岡山から九州各地を揮毫、講演で巡り、故郷の老母を別府に誘って遊ぶという旅です。ただ、これまでのように詳細な記録でなく、まとめて「追憶」という形ですので、あまり書く内容も無いのですが、ざっと眺めてみましょう。
牧水の言うには、珍しく当初の予定を少しも狂わさないで50日間歩き回ったそうですが、10月28日、喜志子と共に沼津発、大阪で歌会。29日岡山、四泊してこの附近の揮毫会を済ませ、11月2日から山口県下で二泊、11月4日八幡に着き、ここで五泊して揮毫会を開催。11月9日には福岡に入り、揮毫会開催で四泊。11月13日には長崎入り。四泊し17日大牟田の従兄弟、若山俊一宅へ。船小屋温泉一泊で再び俊一宅へ戻り、24日まで滞在。25日熊本、26日阿蘇山麓栃の木温泉泊、27日には阿蘇山に登り、28日は熊本、12月1日熊本を出て霧島温泉へ、12月4日鹿児島入りして揮毫会を開き、当初の予定を終えます。ここで少しのんびりできて、阿久根のツルを見に行ったり、指宿温泉に一泊したりして、12月10日宮崎入り。都濃の長姉の所で二泊。老母なども来ており、12日には揃って別府温泉へ。14日、姉や母を駅に見送って、大阪まで航路、船中一泊で15日大阪着、京都へ行って二泊し、沼津には12月27日に帰っています。
「温泉のこと」という一節は、この旅中歩いた温泉場の事をまとめたものですが、ここで笑えるのは、最初人吉から球磨川沿いに一里半あまりの林温泉、「こんどの旅」で、長男の旅人氏と共に泊まったところですが、社友?高木大樹に勧められて霧島温泉に行く事にします。
其處へ行くには鹿兒島線牧園驛(注;現在の肥薩線霧島温泉駅、昭和37年霧島西口、平成15年現在の霧島温泉口に改称)で降り、霧島火山の裾野の傾斜を約一時間自動車で驅け登らねばならなかつた。驅け登る自動車の右手下には廣々として裾野が開け、裾野のはてには鹿兒島灣(普通錦江灣といふ)が輝き、灣の中には櫻島が聳えて居る。これが健常者で何の用事も荷物をも持たぬ旅客であつたなら如何にも珍しいそして景色のいヽ温泉の道であるに相違なかつたが、因果と我等はさう行かなかつた。既に五十日近い難行苦行の旅を續けて來てゐる我等夫婦の身體にとつてはこの雄大な坂道を驅け登るべく餘りに痛快にわが自動車は疾走し、動揺した。今にも放り出されるか、放り出されたら何處まで轉げて行くか量り知れぬ道下の崖である。必死とばかり車體の其處此處にしがみついてゐるのであるが、そのうちに頭は痛み、眩暈はするといふ風になつて來た。やれゝ高木君はエライ所を教へて呉れた、休息どころか難儀をしに來た樣なものだ、向うに着いた所で爲事も何も出來はしない、第一これでは身體がもたぬ、と思はれた。入浴とは云つても矢張り今までに申込んである鹿兒島での揮毫会の分を其處の温泉で書かねばならなかつた。ほんとにこれはひどい目にあつたと今は早や景色どころか兩眼を瞑しながらひたすらにたヾ悔いられた。
漸く終點に着いた。見廻せばこれはまた老樹大木しんゝとして聳え立つた中にしよんぼりと小さな小屋が立つてゐるという終點である。エライ處に來たものだ、とまたしても思ひながらそれでも意外に深切な青年運轉手に荷物を擔いで貰つて、更に五六丁の急坂を登つて行つた。洋傘に縋つた妻などはまさしく半泣きの態である。
と、とんでもない苦難の道、だったのですが、湯量は豊富、また、「人」と「人事」のうちに包まれ通しであった今回の旅で、ようやくそれらから解放され、夫婦二人の普通の旅に戻ったような、そんな気になります。翌日は雪。あまりにも突拍子の無い事ばかり起きるので思わず大笑い。この日はほとんど仕事せず、休養に努めたせいか、翌日は早くから墨を磨り、揮毫に勤しみます。雪の後の好天で、眺めも良く高千穂の峯、韓国岳なども見えたようです。
滯在三泊、十二月四日、鹿兒島に向つた。今度下りの自動車は寧ろ快く乘りおほせる事が出來た。矢張り先日も堀がけの神經質は疲勞から來たものであつた。
まあ、休養がとれたのなら何より。なお、昭和2年川内まわりのルートが完成し、こちらが「鹿児島本線」、人吉廻りの路線は「肥薩線」と改称されたのは御存じの通りです。この、現在の肥薩線について書かれた部分を抜き出してみましょう。
熊本を立つ朝は雨もよひであつた。汽車が球磨川に沿ふ樣になると、こまかに降つて來た。それが一層あの大きな山あひの渓の姿を生かしてくれた。靜かにもし、深くもしてくれた。ともすれば眠らうとする勞れた妻を、わたしは幾度か搖り起した。まつたく彼女にしては生れて初めて見る見事な渓谷であつた。木曾川をば幾度か見てゐるであらうが、木曾には此處の明るさ、こまやかさ、すがゝしさが見られないのである。
球磨川を過ぎるとわたしの呼ぶ日本の高山鐵道になる。大畑、矢嶽、眞幸驛あたり、わざゝ遠い處を望まずともいかにいま自分等の汽車が山の高みを辿りつヽあるかヾ解るほとにある邊の車中の眺めは高爽である。肥後大隅日向の平を遙かに見下して走るのは全く心地よい。
小生も、昭和50年4月2日、熊本からの急行「やたけ」、「えびの」でここを越えました。33/1,000の急勾配を、列車は28km/hでやっとこさ這い上がって行きました。大畑のループとスイッチバック、この程度しか写真が残っていません。牧水が言うような記憶も残っておりません。昭和47年だったかの山津波で、真幸駅は土砂に埋まり、その時の大きな岩塊がホームに残っております。また、この影響で線路有効長が短くなり、鹿児島行きの「やたけ」はそれ以来2両編成に減車(宮崎行き「えびの」はグリーン車を含む4両、「やたけ」もかつては4両だったのでしょう)になっています。
大畑駅遠景
大畑駅ホーム風景
真幸駅(スイッチバック)。ホームの大岩が山津波の名残り
一方、都城から宮崎までの、いわゆる「青井岳越え」については、
先に矢嶽附近の高山鐵道をば説いたが、汽車が日向路に入つて山之口、青井岳驛あたりを走る附近がまた甚だ山深い。此處をば高山でなく山中鐵道と呼びたい。汽車は多く山腹を走り、周囲に原始林らしい森林を見て過ぐるのである。青井岳驛で降りた獵師らしい二人の男が貂(てん)に似た獸を背負ひ、藁の笠を冠つてゐたのなども土地に似つかはしい光景であつた。
小生、この区間も、昭和50年4月2日は南宮崎からDF50の牽く下り客車各停で、暗くなってから通りましたが、ちっともスピードが出ず、「あれ、結構登っているのかな?」と思いました。その翌日、上り?急行「えびの」(宮崎行き)で夕日の中を都城から宮崎まで乗り、「結構キツイ所だな」と、改めて思いました。その後、平成25年になって、電化されたこの区間を817系で越えています。山之口では、この区間1本だけのDC運用と行き違い、悔しい思いをしたものです。
山之口で交換したキハ40上り列車
其處を通り過ぎれば日向路の汽車は全部平地を走るのである。宮崎までは乾いた平野、其處からは海に沿ふ。海に沿うた中にも高鍋から美々津岩脇附近の海岸は松林の明るさ美しさ、磯から濱の曲折に富んだことなど、眼に殘る景色である。太平洋の遠いはてのうす紫に光るのもわたしには思ひ出深いものがあつた。
この区間は、同じ旅行中の4月3日、宮崎を夕方日暮れ頃出る「日南」だったか、急行電車で大分まで行ったのみ。真っ暗で何も見えませんでした。もう一度行きたい所ではあるんですがね……
鉄道関係の話は以上ですが、「おまけ」として酒にかかわる話。
呑兵衛と云うより「アル中」の牧水の事ですから、この旅でも相当に飲んだはずです。健康を害するまでになり、自分でも「節酒、いや禁酒」と考えていたのでしょう。本人も「アル中」の自覚はあり、別府に呼び寄せた母に、
「阿母さん、わたしも随分ともう酒を飮んで來たからこれから少し愼しまうとおもふよ。」母の返事は意外であつた。「インニヤ、酒で燒き固めた身體ぢやかル、やつぱり飮まにやいかん」これにも皆笑つた。
と言われます。「この親にしてこの子あり」か……この小文を、牧水は次のように締めくくっています。
今度の九州旅行は要するに大酒ぐらひのわたしとしての最後であつた。とにかく思ひおくことなく飮んで來た。五十一日の間、殆ど高低なく毎日飮み續か、朝、三四合、晝、四五合、夜、一升以上といふところであつた。而して、この間、揮毫をしながら大きな器で傾けつつあるのである。また、別に宴会まるものがあつた。一日平均二升五合に見つもり、この旅の間に一人して約一石三斗を飮んで來た、と數字に示された時は、流石のわたしも物がいへなかつた。
が、これで安心してこの馬鹿飮みの癖をやめることが出來るといふものである。現にもうやめている。やめねばならぬ所まで到達して來たのである。やれやれ長い道中でがあつたぞよといふ氣持である。
と言いながら、北海度行脚、さらには朝鮮行脚と、これらでも飲み続けて、寿命を縮める結果となるのは、皆様御存じの通りです。
(「九州めぐりの追憶」、おわり)
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北海道行脚日記 つづき(3)
10月14日、午前中は揮毫、土地の医師、中島竹雄宅で昼をご馳走になります。中島は鹿児島の人で、北海道生活の寂しさをしみじみと語った、とあります。その後中島の誘いで街の郊外にある富士製紙のパルプ工場を見学。終わって工場長の招待で工場のクラブで会食。この工場長も九州は鹿児島の人で、話しているうちにその奥さんに来て貰ったら、何と、牧水の幼友達であったという奇縁。
思いの外工場に長居し、遽しく旅館に帰って荷物をまとめ、18:08、帯広へと向かいます。19:00帯広着。第七師団の演習中で、帯広はその中心的な場所。普通ならとても泊まれない所、地元の医師にして沼津出身の神部哲朗の世話で辛うじて一室を確保したようです。ここでも齋藤参謀長がひょっこり顔を出します。
10月15日は、神部哲朗の家を訪ね、帰りに散髪。16日は午前中揮毫。社友進藤雪子が訪ねてきたので外出して昼食。宿に帰って揮毫。夜は歌会。
10月17日は再び池田の人たちが訪れ、偶然にも歌会が始まりますが、この頃から牧水夫妻、旅の疲れで不調。喜志子は始め歌会に加わっていたものの、熱があるとかで寝てしまい、神部の往診を受けますが、まあたいした事はなかったようです。
10月18日、夕張方面の行程調整がようやく出来、ここで5日間の静養日が出来ました。例の第七師団演習で、また兵隊が帯広に戻ってきて観兵式をやるというので、一つ池田寄りに戻った札内駅近くの途別温泉に行き、10月22日まで過ごします。同日午後帯広の宿に戻った所で、この紀行文は終わっています。10月18日、夕張方面の行程調整がようやく出来、ここで5日間の静養日が出来ました。例の第七師団演習で、また兵隊が帯広に戻ってきて観兵式をやるというので、一つ池田寄りに戻った札内駅近くの途別温泉に行き、10月22日まで過ごします。同日午後帯広の宿に戻った所で、この紀行文は終わっています。
この後の行程を「若山牧水伝」から拾って見ると、10月23日帯広を発って上砂川へ。確かこの線は「函館本線の支線」ではなかったか?更に幾春別、歌志内、幌内と夕張炭山地方を回り、10月31日に夕張着。中学時代の同級生、甲斐猛一宅で10日ばかり滞在し、甲斐の案内で夕張炭坑の坑内を見学もします。11月9日夕張を出て岩見沢泊。10日札幌へ入りここで8泊。新琴似一泊、小樽三泊、函館一泊、11月23日青森へ、更に盛岡、福島、三春などで揮毫会を行い、沼津には12月6日、約80日ぶりに帰ります。
なお、北海道の風物、食べ物などについて書かれている「北海道雜感」という、「北海道行脚日記」の「補足編」のような小文があります。北海道の自然、風景について、牧水独特の捉え方、いや、これは北海道に限らず、僕水流の風物への感じ方であろうと思いますので、ちょっとご紹介致しましょう。
北海道の噂をばわたしは注意して聞いてゐた。そしてその多くが言つた、北海道の自然は雄大である、北海道の景色は實に雄大である、と。
成程、その雄大説にわたしも異を稱へるものではない。いかにも雄大である。が、單に雄大であるとだけで片附けてしまはないで、わたしはこれにもう少し附け足したい。曰く微妙である、曰く複雜である、曰く單調である、と。單調であつて複雜であるといふのは可笑しい樣だが、其處にいひ難い微妙さがあるのである。若しまたこれと同じ反語式口調を用ふるならば、もう一つある、曰く微妙であると同時に甚だしく粗野である、と。
單に雄大であると觀る觀方は其處の山や野や河や海を殆ど死物扱ひにしての觀方ではあるまいかとおもふ。それらのものを單に一つの「形」としてのみ觀てゐるのではなからうかと思はれる。山や河の間に動いてゐる雲や霧や、降り注ぐ、雨や雪や、日の光空の色星の輝き、夏過ぎ秋來る、さうしてそれらのものに包まれた斷えず生きて動いてゐる山河の姿、さうした事柄を忘れての觀方ではなからうかと思はれるのだ。
其處でわたしはいふ、北海道の自然は内地のそれに比し雄大であり、單調であり複雜であり微妙であり粗野である、と。といふとひどく褒めあげる樣であるが、強ちさうでもない。世にいはれて居る雄大さよりずつと型を小さくした雄大さをわたしのは意味して居るのである。
實際今度の北海道で、雄大とか單調とかを感ずるより前にわたしは先づ眼まぐるしい樣な複雜さ、微妙さを感じた。これは主として、雨風、雲、日光、温度、其うした氣象方面の變化の烈しさから來る感じであつたとおもふ。ぱつと日光が窓にさしたかとおもふと、もうばらゞと霙がガラス戸に音を立てヽゐる。珍しくほくらゝの暖かい日和だと喜んでゐると、いつしか木の葉を吹きまくつて凩が荒んでゐる。
初めて經驗するわたしにはこれが甚だ珍しく、且つ樂しかつた。が、同伴した妻などにとつては寧ろ少なからぬ脅威であつたらしい。初めはわたしと同じく、珍しく面白かつた樣だが、あまりにそれが續いて繰返されるのでしまひには恐ろしくなつたらしい。無理ならぬことヽわたしは微笑した。微妙と粗野との交錯は其んなところにも見られるとおもふ。
小生は、前述の通り北海道にほとんど足を踏み入れた事が無く、せいぜい新千歳空港からエアポート快速での行き来のみ。これ以外に乗ったのは、小樽から美唄まで。現場としても、大夕張の奥、いわゆる「シューパロダム」周辺で、12月の3週間を過ごした程度です。
確かに、新千歳から札幌に向かう途上でも、なんとなく「広々としているな〜」という感じは受けます。苫小牧上空から見る「これぞ原野」という風景もまた然りで、ここへ来ると人生観変わるンじゃないかと思っておりましたが、四国店長から異動した先々代の札幌店長は、やっぱり人生観変わった、と言っておりました。
北海道の風景が「雄大」という事について、小生も異論をはさむつもりはありません。しかし、この牧水の目、山や河だけでなく、光も、雨風も一緒になっての「風景」ではないか、という見方には、ちょっと虚を突かれたと同時に、かつての自分の旅の思い出を考えても、さもありなん、と思います。
一方、酒については、全く期待していなかった、いや、定めしひどいのを飲まされると覚悟していたら、実は各地ともみなうまく、とくに地酒に良いのがあって、旭川では、齋藤瀏が灘の生一本を多量に用意して待っていた所、出入りの商人が小さな樽を持ってきて、これを飲んだら灘の酒よりうまく、こちらばかり所望して、齋藤の機嫌を損ねたような事も書いております。また、サツポロの生ビールもおいしかったと書かれています。これはこれで笑えますね。
なお、先日(平成28年11月19日)サンケイ新聞記事で、JR北海道は「全路線の半分、10路線13区間、1,200kmが維持困難」と言っており、留萌本線(深川〜留萌)、根室本線(富良野〜新得)、夕張線(新夕張〜夕張)、札沼線(北海道医療大学〜新十津川)が廃止検討または廃止協議済み。それ以外についても、ほとんど全滅という感じです。もう、どこまで鉄道が減って行くやら、解ったものではありません。
(「北海道行脚日記」おわり)
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