高崎線userのRailLIFE

倅:オカシイ。妹の方がネタ撮ってる 親父:偶然は怖いだろう??

20番線、親父の「鉄道以外」

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
 過日の、「美を求める心」(小林秀雄)に関する記事、興味深く拝見しました。「音楽が解る」とか「絵が解る」という物言い、私は嫌いですから、滅多にこういう言い方はしません。ところが、どうしても「解った」と言わざるを得ない瞬間が何度かありまして、S様へのお手紙の中で言及しようと思いつつ少しも筆が進まず弱っていた所でしたので、良い本をご紹介くださり大変に感謝しております。早速県立図書館から借りてきて、先ほど読了いたしました。

 小林秀雄は、文中で、

 極端に言へば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいふのが、もう間違つてゐるのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言ふべき筋のものではありますまい。

と書いています。これについては私もそのとおりと思っております。ただ、ここで考えました。「何が“解る”のか?」と。小林が「解る」という言葉で表しているのは、受け手の感性に訴えるものがある(“心”に響く)、という意味でしょう。一方、絵や音楽の技法などを論じようとした時、それらの事柄が理論的に(それこそ“頭で”)把握できていなければ、その面では「解った」とは言えないでしょう。ここでは小林は、“心”という面からこの文を書いているのです。

 さて、先ほどの私の経験談に戻ります。ひとつは、例のマーラーの交響曲について、もうひとつはシューベルトの「未完成」についてです。


 マーラーの交響曲は、1番、「大地の歌」、8番、6番、5番、9番と聴き進んできて、7番はショルテイのCDを買って聴いてみたのですが、これがちっとも解らない。つまり私の感性に引っかかって来ないのです。そんなことで長いこと放ってあったのですが、たまたまNHKの番組で、デイビッッド・ジンマンという指揮者がN響に客演してこの曲を振った番組を見ていて、解説者の解説もあったのでしょうが、何か突然この曲が「解った」気になりました。もちろん、これは曲の構造や和声などの「理解」とともに、私の感性に訴えてくるような演奏だったからでしょう。でも、その当座は自分でもひどく不思議な気がしたものです。「解説」という言葉を媒介にして感性が動くものであるのかどうか、その後このジンマンの演奏、NHKアーカイブスなどを検索しても引っかかって来ず、結論は出ていません。


 もうひとつ、シューベルトの方は、ジョージ・セルの指揮するクリーブランド管弦楽団の1960年の演奏です。セルという人は非常に厳格な音楽を創るので、どうにかすると時折「ちょっと、食い違ってないか?」と思いたくなることがあります。この「未完成」も、非常に美しい演奏なのですが、あの有名な、低弦で始まる序奏が、第一主題が提示された後に5度上に転調してヴァイオリンで出て来るところ、またその後の展開部や再現部など、曲の構造が丸見えになるような、即ち論理的に解った(いや、“解らされた”)ような印象を受け、「“未完成”って、こんな安っぽい造りだったっけ?」と興ざめしてしまいました。一方、同じCDに入っている「ザ・グレート」、これは全くそんな感じは無く、まさに小林の言う「言葉を失う」ような良い演奏でした。更に、小林の言う、


 見ることも聴くことも、考へることと同じやうに、難しい、努力を要する仕事なのです。

というのも、私の経験に照らし合わせてハタと膝を打つものでした。この文の前段で、小林はこのように書いております。

 昔の絵は、見ればよく解るが、近頃の絵は、例えば、ピカソの絵を見ても、何が何やらさつぱり解らない、と諸君は、やはり言いたいでせう。それなら私は、かう言ひます。諸君が、昔ふうの絵を見て解るといふのは、さういう絵を、諸君の眼が見慣れてゐるといふことでせう。ピカソの絵が解らないといふのは、それが見慣れぬ形をしてゐるからでせう。見慣れて来れば、諸君は、もう解らないなどとは言はなくなるでせう。だから、眼を慣らすことが第一だといふのです。頭を働かすより、眼を働かすことが大事だと言ふのです。

 現代音楽、というのに、どこまで定義があるのか知りません。ただ、学校で習ってきたような音楽から比べたら、そう簡単に「解る」ことができない物もあるでしょう。もう40年以上前の話ですが、藤沢市の社会人合唱団に入って最初に出くわしたのが、柴田南雄の「優しき歌・第二」(作詩;立原道造)でした。簡単な和声ではない、教科書的には「不協和音」の連続ですが、「不協和音」即ち「不快な音」ではないということ、何とも不思議な響きの世界であるということが、練習を重ねていくうちに全身で「解りました」。小林の言う「努力」と同列に扱うのはお恥ずかしい限りですが、中学・高校レベルからいきなり日本のアマチュア団体で五指に入るような所へ飛び込んでしまって、ここでの経験、とくにこの柴田南雄や、翌年やった三善晃の「五つの童画」(作詞:高田敏子)など、いきなり聴いてもちっとも「解らない」曲が、演奏者の一人として練習を重ねていくうちに、こんなにすばらしい物であったか、と、感動をもって気づかされた瞬間が何度もありました。絵が「見慣れ」であれば、音楽は「聴き慣れ」、「歌い慣れ」ということになるでしょうか。実は昨年、これも大昔籍を置いていた仙台の合唱団に数年ぶりに顔を出したのですが、練習していた曲がペンデレツキの「無調」の合唱曲で、さすがに初見では二進も三進もいきませんでした。この合唱団、この曲を持ってコンクール全国大会に望み、金賞を貰ってきましたが、私が会場でこの演奏を聴いても「解らなかった」でしょうね、多分。

 一方で

 言葉は眼の邪魔になるものです。

といいつつ、ならば詩は言葉で出来ているではないか、という問いについては、

 成る程、詩人は言葉で詩を作る。しかし、言ふに言はれぬものを、どうしたら言葉によつて現す事が出来るかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した人を詩人と言ふのです。


と、東京帝大仏文科の同級生、生涯を賭けて「日本語における詩語の形」を求め続けて変転止まなかった、堀口大學のいう「詩に死んだ」人、そのために家族も、どうにかすれば自分の健康すら擲った三好達治を彷彿とさせるような事を書いています。達治の全集にひととおり眼を通した私としては、この所にも深く頷かざるを得ません。


 まあ、こんな屁理屈をこねるのも、私が「文学老年・音楽老年」?でありながら、地質学を専攻し、土木技術者として生業を立ててきた経歴があり、全く異なる世界を行き来しているのが日常であるからなのでしょう。技術レポートというのは、とにかく「頭で」解って貰わなければその用を足しません。会議用の資料、委員会議事録などまた然りで、そういう点で、こちらはまた全く別の形の「努力」が必要です。


 小林は言います。

 さういふ姿を感じる能力は誰にでも備はり、さういふ姿を求める心は誰にでもあるのです。たゞ、この能力が、私たちにとつて、どんなに貴重な能力であるか、また、この能力は、養ひ育てようとしなければ衰弱して了ふことを、知ってゐる人は、少ないのです。


と言いつつ、小林も「評論家」でありました。「姿を感じる能力」とともに、言及こそしていませんが「姿を言葉で現す能力」を共に養い育てていったのは、この人もまた同じであったと思います。


 いや、「モオツアルト」に歯が立たなくて投げ出してしまったので、読み切れるかどうか心配だったのですが、何とかなりましたわ。(笑)
 ここまで、いろいろな人の「旅の歌」、あるいは「望郷の歌」を採り上げて参りましたが、では、お前の「旅の歌」、「望郷の歌」はどうなんだ、と聞かれますと、頭を掻いて笑うしか無い状況でして……

 以前、私が神奈川県藤沢市の海近くに生まれ育ったことは申し上げました。大学の専門課程が清水市(現在は静岡市清水区)だったので、昭和53年、20歳のとき、日本平の麓、鉄舟寺に程近いアパートに移り住んだところからが私の流離の始まりとなります。「故郷」というものを強烈に意識したのもこの時が初めてでした。自分が本当に「旅の中にある」と意識したとも言えます。とにかく、街の貌が違う。三保の松原は立派でしょうが、鵠沼のように大きな松が茂る住宅街も見あたりません。潤いというものを感じられませんでした。当時走っていた清水港線は、1日5本、ディーゼル機関車が盛んに汽笛を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり貨物列車を牽いていました。東海道本線からは遠く、藤沢時代、夕刻に慣れ親しんだ下り寝台特急の汽笛も、この下宿では聞くことができませんでした。

 大学の裏手はすぐ駿河湾で、海岸沿いのサイクリングロードは、自転車通学だった私のお気に入りのコースでした。特に観光のオフシーズンとなれば、蕭条とした風景が広がっておりました。下宿にいると、町内には有線放送があって、正午には「椰子の実」のチャイムを流しました。私は無意識に二番の歌詞、「我もまた渚を枕 独り身の浮き寝の旅ぞ」を口ずさむようになっておりました。

 
 初めての一人暮らしは、やはり「寂しかった」のが本当でしょう。その中で、大して勉強もしないけど、遊びもせず、ただ自室に籠もって、この中から何かが結晶のように現れてくるのを待っている、そんな「透明な時間」、今では絶対に持ち得ない時間をどれほど過ごしたでしょうか?残念ながら程度の低い小品がほんの2〜3編得られたのみでした。


 この下宿も、4年生に進級し、卒業論文を「房総半島中部付近の地質踏査」としたため1年強で引き払い、しばらくは千葉の定宿2軒と藤沢の自宅の行き来となります。中古の原付で山の中を走り回っておりました。房総半島に来てから、中学入学以降9年間、毎日目の前にあった「海」と離れてしまいます。「目の前に、日常的に海がある」というのは、私の中でも相当に大きな要素だったようで、踏査がちっともはかどらないのに、矢も楯もたまらなくなって、大原、天津、鴨川などに海を見に行ってしまった日もありました。

 そして昭和55年、今の会社に入り、最初の配属先である名古屋に移ります。名古屋という土地は、西には濃尾平野と呼ばれる広大な海岸平野、東には尾張丘陵と呼ばれるなだらかな丘が広がる起伏の少ない地形で、とにかくその広大さに戸惑いました。このころ読んだ豊田穣の「長良川」に影響されて、自分の雑記帳に「濃尾平野」と題を付け、「風土記」的な作品を試みては失敗し、これまた物にならず、清水時代同様2〜3編の小品が残るのみです。


私の生涯でもっとも大きな転機となったのが、昭和59年2月の仙台転勤でした。日本地図をご覧になればわかるとおり、日本列島は、関東平野を境として西側は東西に延び、東側は南北に延びています。東海道線〜山陽線を旅すると、いろいろな季節が混在して出てきますが、東北線の旅は、季節の変化を一直線に眺めることになります。山形県の豪雪地帯の現場、さらには岩手県の安代町への、月2回の地下水観測の仕事などをずっと手掛けることで、季節感、気候、風土が全く違う、自分が今まで知らなかった世界に飛び込んだことが良くわかりました。加えて鉄道趣味の点、合唱音楽の点でも実りの多い2年間でした。文筆の方は、相変わらず進まないながら、手紙形式の作品をいくつか残すようになりました。


 本当はこの辺で気づくべきだったのでしょう。「移動も日常のうち」という暮らしが続けば、いつまでも「流離の憂い」だけで物が書けるわけでは無いことを。また、3度の転居は、知らず知らずに自分の故郷をいつも相対化して見る癖が着いてしまったことを。仙台以降、東京、新潟、群馬、長野、水戸、横浜、再び東京、現在の埼玉、と転居が続きましたが、今日に至るまで、「その後の自分の世界」は見いだせずに終わっており、文筆の雑記帳も平成の4年頃にはあえなく筆を折ってしまいます。


 新しい土地には、新しい四季があります。“杜の都”も、これからその本当の姿を見せてくれることでしょう。もし、新しい想いが私の中で形を成したら、その時にはまた、お便りを差し上げます。


 仙台時代の、「春の手紙」と題した作品の最後、当時26歳の私は、こんな気障な物言いで文章を締めくくっております。自分に約束した「新しい旅の歌」、もう詠う日は来ないのでしょうか。


 J様は、綿帽子を被るごとき白髪の身となられてなお、再び旅立とうと思われている、と詠まれました。J様、どちらへおいでになられますか?私が「新しい旅の歌」を詠うためには、「幾山川」の哀感や、「遠き邊土のたび人のさびしき眼」を取り戻すことともまた違った何かが必要であるように思います。しかし、短期の出張でも旅疲れを感じる昨今、これは難しい話になりそうです。


 四通にも及ぶ手紙、ご退屈されましたでしょうか?未熟者の不作法をお許しくだされば幸いです。まだ激しい寒暖の差が続く折、何卒お体にお気をつけてお過ごしください。


平成302
 五十鈴拓磨・父
だいさぎ の さつえい せいこう で まい あがった ごいんきょ は いきおい に のって ちかく の ぬま に いき ました が かんむり かいつぶり を あいて に げきちん されて きました と さ ざま〜


いや〜、相手が悪すぎた。カイツブリの仲間、とにかくやたらと潜っては、とんでもない所に浮き上がってくるので、あのカメラとこのご隠居の腕で勝負を挑むほうが、初めっから間違っているのですが……


イメージ 1


イメージ 2


AFで、ズームを800mmまで効かせて、さて、どこにピンが合っているやら?


イメージ 3


悔しまぎれのオオバンも、この体たらく。


イメージ 4


イメージ 5


ツグミだけは、幸い明るい所に出てきてくれたもんで、なんとか物になりましたが、やれやれ……
先ほどワン公の散歩に出かけ、川沿いを歩いていたら、シラサギが一羽飛んできました。ああ、コサギか、この前苦労して撮ったから、いいや……と思いながら歩いていたら、もう1羽います。へえ、珍しいな。

このとき、何となくコサギと動きが違うような気がしたのですが、というのは、コサギは脚を細かくプルプルと揺さぶって隠れている魚を追い出すのですが、この脚の動きがちょいと粗っぽい。あまり深く考えないままその辺を一周して戻ってきたら、ありゃ、!よくよく見たら、こいつ、嘴が黄色いではないですか!こりゃチュウサギかダイサギでね〜の!しかも、護岸の隙間に嘴をつっこんだと見るや、おお、みごとにアメリカザリガニを捕らえ、苦労して飲み込んで、また川の中に戻って水を一口……

こうしちゃいらんね〜!と、すっ飛んで家へ帰り、おっとりカメラで駆けつけましたら、幸いにまだ逃げずに居てくれました。しかし、なにぶんこのカメラだし、あいつらは警戒心のカタマリみて〜なヤツらだから、逃げられなきゃいいがナ……

イメージ 1


イメージ 2


撮り終わって家に戻り、ネットを検索して見ると、どうやらこいつは、嘴の先端まで黄色、嘴の切れ込みに続く模様が眼の下からさらに後ろの方まで伸びている、ということから、どうやら「ダイサギ」と特定出来ました。


イメージ 3


イメージ 4

そのうち、上流の方にいたコサギが飛んできて、縄張り争いでもおっ始めるかと思いましたが、特段のバトルも無く、またコサギは上流方へ舞い戻りました。ダイサギとのツーショットは取り損ない。

しかし、「ダイサギ」という割に、あんまし大きく無いですね。


イメージ 5

お、何か見つけたか?

イメージ 6

残念ながら覗いただけみたい……

もうちっと粘っていたら、お食事中の所も撮れたかも。まあ、そこまで根性無いから、この程度のもンであるところが、このご隠居のご隠居たる所ですか……
今朝方は寝坊してしまい、アテにしていたEH200-901、予想していた2092レではなく、ずっと時間の早い6086レに充当されたため、間に合わず。仕方ね〜な〜と思いながらワン公を散歩に連れて行ったら、近くの川に、これまた絶好の光線状態でカワセミ君が居るという……

この川にカワセミが来るのは、随分前から知っておりました。このカメラでは難しかろうと半ばあきらめておりましたが、やってみるべえかという気になり、家へ帰るなり朝飯もそこそこに「おっ取りカメラ」で家を飛び出し、徒歩で川沿いをウロウロ。最近顔見知りになった、やはりカワセミを撮っている近所の方とも顔を合わせ情報交換。

「下流の方に2羽居ますよ。いくらか撮って来ましたよ。」

と聞いて、川に目を凝らせながら歩いていくことしばし、いい加減帰ろうかと思っていた所へ、犬連れのご夫婦から、

「も一つ下の橋のたもと、2羽居ますよ。魚捕ったところも見ました」

おお、なら、もう少しがんばってみるべえ、と足音を忍ばせて歩いておりましたら、お!居ました、居ました!

イメージ 1

う〜む、チト露出オーバーか。

イメージ 2

このカメラ、有り難いことに発色は非常によろしい。

イメージ 3

これが本日のベストショット。

この後、上流へ移動するカワセミ君にくっついて行ったのですが、橋のあたりで折り返されてヤブの中に紛れてしまったので、本日は投了。帰り途、先ほどの顔見知りの方がじ〜っと構えているので、そろりそろりと近づいたら、あれ、こっちにももう1羽いたんだ!


イメージ 4

こっちの方は失敗。この後すぐ飛び去られてしまい、昼も近いので帰ることに。いや、トリを撮るのも、「根比べ」ですワ!今日は暖かかったから良いですが、寒風吹きすさぶ日などは、やっておれません。

.
五十鈴 拓磨
五十鈴 拓磨
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(24)
  • 485系雷鳥
  • さくらパンダ
  • ナハライン
  • いわたく
  • ∽霧雨 魔理沙√Gosupera∽
  • ウッチー
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事