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挑戦。

 父の異変を聞いて、おじとおばが病院に来てくれました。いったいどうなっとるんや、おじの語気は、荒かったように思います。集中治療室で、窒息死したんさ。そのいきおいのまま、怒りのままに、わたしは、ことばをかえしました。。母がわたしを押さえ、父、まだ生きている。処置は続いている、と訂正しました。
 おじ、おば、弟、わたしは、患者サロンに移りました。事実を聞き出そうとするおじは、苦痛でした。普段から、おじとの不仲を知っているおばは、おじを黙らせて、わたしをとにかく落ち着かせようとして、わたしの話す言葉だけをきいていました。そうか、そうか、を繰り返しバッグに顔をうずめました。血のつながりなんて信じないけど、やはり、わたしは、おじに似ている。なぜか、あきらめたような、あきれたような気分になり、少し、落ち着きました。遠からず、父は、その生を終えるのです。いつの間にか、わたしはおばと、ケーキづくりのはなしをしていました。無口な弟とじょう舌なおじは、むかいあって手持ち無沙汰のようでした。
 再びわたしたちは、集中治療室に呼ばれました。おばは、一人で病室に残っている母を迎えにいってくれました。みんながそろうと、これから二十四時勘かけて、陣こうとうせきをしたい、ということでした。

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 再び集中治療室に、わたしたちは、呼ばれました。
 父の心臓はが再び自力で動き出すことのないことを執刀医の先生は、自ら、心臓マッサージをして、示されました。瞳孔反応もないということも、父の目を開いて、ライトを当てて確認させてくださいました。でも、わたしは、怒りとあきらめ、そのような感情で嵐のようでした。母と、弟は、機械室のような部屋で、先生が示される心電図を見ながら、説明を受けているようでしたが、わたしは、いつの間にか現れた医師の、今まで見たこともないよう激しい心臓マッサージを眺めていました。わたしは、そのほうが楽でした。
 十分ほどたって、執刀医の先生が父のベッドに呼ばれました。しばらくしてわたしたちも、父のベッドに呼ばれました。父は、やはり、今まで見せたことのないようなおだやかなかおでやすんでいるようでした。執刀医の先生は、父の心臓が自力で動き始めたことを示されました。
 父は、蘇生したのです。一度だけ。。。。ありえないことですけれど。
 再び機械室に戻ったわたしたちに、先生は再び、心電図のグラフを示して、父の心臓の動きの並を示されました。機械で動いている鼓動の波よりは、はるかに小さいけれど、父の鼓動の波がありました。そのときに、先生が何をおっしゃったかは、よく覚えていませんが、わたしは、ずいぶん昔のことになりますが、たとえ脳死状態になっても、延命措置は続けてもらう、と、父に約束したことがあります。しかるべく、と、お願いしました。先生は、しっかりうなづいてくださいました。そして脳死ではありません。心臓は、動いています、と、なぜか、繰り返し、言われました。
 父は、動向反応がないといわれた父は、意識がないまま、その穏やかな顔のまま、「挑戦」を始めたのでした。生きつづけるために。

生よ。

 十一月十日、父は、その生を終えました。
 一ヶ月たって、周りの人の励ましもあり、落ち着いて父が生を終えて言った過程を記録しておきたいという気持ちになりました。
 手術の前、父は、便秘を気にしておりました。浣腸をしてほしいと、何度か、看護婦さんにお願いしていましたが、かなえられず、何度か母が摘便を試みましたが、うまくいきませんでした。
 でも、父は、手を振りながら、手術室に向かい、半日以上かかった手術に耐え、その日のうちに集中治療室で、意識を取り戻しました。少し、ほっとしたような、まだ生きているのが信じられないっといった、表情のように見えました。手術は、成功したのです。
 その後の記憶は、はっきりしないのですが、集中治療室から出て、父は、自分でトイレに行こうとして,ベッドから,ころげ落ちたということです。その日から、母は病室に泊り込むことになりました。とにかく、座位が取れない。材をとると、貧血を起こしておこしてしまう。そのころから少し、幻覚があるようでした。
 何度も、自分で『挑戦」といって座位をとろうとするちちをなんども、だきおこしました。何とか、すわれるようになってほしい、父が望むようにトイレまで連れて行きたい。母と私は、内緒で二人がかりで、吊り上げても、トイレまで運ぼうかとも、相談していました。母は、下が詰まっているのに、食事ができるわけがない、といいました。
 実際食欲はなく、口まで運ぶものを、わずかづつ咀嚼し、飲み込むことはできるもののそれは、じぶんのためにしてしていることでは、なかったように思います。
 父が、手術のあと、弱っていっているのは明らかでした。それでも、人工透析は、受けなければなりません。手術の後、一度、二十四時間かかる、ゆっくりとした人工透析を受け、それに耐えることができました。でも、四日後、普通の人工透析を受けている最中に、父の容態は、悪化し、連絡を受けて駆けつけると、大きな透析室の隣の個室で、医師と看護婦さんの付き添いを受けながら、許可を受けて入室した母に、カルピスが飲みたい、といったそうです。危険な状態であることは、ただならぬ母の様子から察せられました。信じられない思いでした。この透析が終わったら、浣腸をしていただける予定だったのです。
病院内にカルピスは打っていないということなので、車を走らせ、近くのスーパーでカルピスを買いました。病院に戻ると、父は、危険な状態は切り抜けたということでした。そして、集中治療室に戻され、そこで改めて人工透析を受けることになりました。
 何時間かたって、手中治療室での面会が許される時間が来ました。呼吸器をつけられ、点滴を受けながらの人工透析が続いていました。父は、意識はあるようでしたが、いかにも弱弱しい様子のように見えました。もう、官庁は望むべくもない、と。思いました。看護士さんが独りいて、僕は、人工透析室から、きました。と、声をかけてくださいました。もしも、可能でしたら、これが終わったら摘便をお願いできませんか・と、おねがいしました。せめて、さいごになっても、、、 でも,それは、こちらのひとがはんだんして、ひつようであれば、してもらえるでしょう。という答えでした。わたとは、それは、もう、どしてもかなわないことだとわかっていました。 
 父に、もうすぐミチタカがくるから、とにかくがんばって、と声をかけました。冷たい足や手を名でさすり、母が左手を私が右手を握り、しっかりして、とにかくがんばって、ミチタカは、くるから。というような言葉をただ繰り返しました。ほかに、何ができたでしょう。その時の面会が、最後だったのかもしれません。次の面会時間だったかもしれません。よく覚えていません。父は、訴えていました。とにかく、訴えていました。人工呼吸器銜えたまま何かを言おうとしていました。何かを母と、私に伝えようとしていました、父の両手は、白い紐で拘束されていました。集中治療室の看護婦さんに、この紐だけでもとってもらえませんか、と、お願いしてしました。看護婦さんは、オクダさんは、人工呼吸器を取ってしまうとするので、申し訳ありませんが、と、おっしゃいました。そして、しばらく躊躇した後、ご家族の方が見える間だけでよければ、かまいません、でも、人工呼吸器だけは取られないように注意してくださいといわれました。母と、私は、まるで自分たちがもがくようにして、固く縛られた白い紐を解きました。拘束が解かれたとたん、果たして、父は、人工呼吸器を取ろうと手を口元に持っていこうとしました。こんなに、弱り弱った父にこれほどの力が残っているのか、ここまでよく、と思うほどの力を腕に感じながら、父の右手を両手で握り、押さえながら、あかん、これを取ったら、お父さんは死んでしまうんや、そう何度も、自分に言い聞かせるようにいいながら、母と私は、もがく父を押さえました。父は、まるで声を発しようとするように、全身でもがいていました。両手が使えないことがわかったのか、頭を左右に振りのけぞって、人工呼吸器を何度も、はずしてしまいます。そのたびに、私は人工呼吸器を、押し込みました。そして、とうとう、看護婦さんに声をかけ、人工呼吸器をはずしてらいたがっているようです、と、言いました。看護婦さんは、気をつけてください、と、言われました。そのとき、父の舌には黄色の舌苔がついており、息には、異臭がありました。なにやら、酸っぱいようなにおいでした。でも、そのときは、さぞ気分が悪かろう苦しいだろうという思いしかありませんでした。父と、母と私の格闘は、どれくらい続いたのか、それも今は、思い出せません。
 父の手術を執刀した下さった先生は、土曜日であるにもかかわらず、集中治療室に泊り込んでおられました。カーテンの向こうで仮眠を取っている先生を起こす声がしました。先生がおきだされる気配がしました。面会時間は、終わりました。看護婦さんが、先生が処置されますので少し、出ていただけますか、といわれました。私たちは、未練を残しながら、父に届く最後の言葉をかけました。お父さん、先生が見てくださるからしっかりして、がんばって。やはり、同じ言葉を繰り返し間ながら、集中治療室を出ました。わたしたちが父のそばを離れたのと、先生が、父のベッドにこられるまで、数十秒くらいあったかと思います。
わたしたちは、父の病室に帰って話し合いました。わたしは、お父さんの舌に苔みたいなものがあったから、今度面会時間がきたら。ガーゼで拭いたろう、と、言うと、母は水を含ませてふいたるといい、少しは楽になるやろう、と、いいました。そんな話をしながら、時を過ごしているうちに、弟が、やってってきました。どうなんや、と、聞かれると、先生に処置してもらってる、と、のんきに答えました。弟は、居心地が悪そうでした。気まずい時間が過ぎていきました。ガーゼを探して荷物をかき回していると、バタバタと、廊下を走る音がして、看護婦さんが現れ、急いで集中治療室にお願いします、と、言われました。不吉な予感が、いきなり走りました。三人は、とりもあえず集中治療室へ向かいました。ドアを閉めて。消毒液で、手を洗おうとすると、それは、いいですから、とにかく早く、と、言われました。
 父のベッドではなく、ガラス越しに父の姿が見える、機械室のようなところで、わたしたちは、執刀医の先生に迎えられました。先生は、落ち着いておられましたが、少し青ざめておられるように思えました。先生の話は、とても信じられない、受け入れがたいものでした。
 父は、嘔吐してした言うことでした。そして、嘔吐物は、肺に流れ込み、今、胃の内容物と、肺に流れ込んだ嘔吐物をチューブで吸いだしたものの、きわめて危険な状態であるということでした。そんなことがあってたまるものかと、思いました。頭に体中の地がカーッと上っていきました。先生の案内で、父のベッドに向かいました。父は、今まで見せたことのないような顔で休んでいました。先生は根父の右手元にある、小さな装置と、右手上にある数値を示しながら、今は、心臓につないだ装置のおかげで心臓は、動いていますが。そして、装置のスイッチを切って、自力では、心臓は、動いていない状態です。どうなさいまますか。わたしが人工呼吸器をはずしたときには、口まで嘔吐物がいっぱいでした、と、言われました。わたしが、わたしたちが出るときには、父の舌に、黄色い苔が見えていたので、今度の面会時間には、ガーゼで拭いたらんならんなぁ、と、母と話していたんですよ。と、言うと、先生は、少し驚かれました。魔という時間が本当にあるとしたら、わたしたちがベッドを離れ、先生が父のベッドに近づくまでのその間にあったのだ。父は、胃の嘔吐物を耐えられず一気に戻してしまったのだ、と思いました。あきらめ切れませんでした。どうなさいますか、と、聞かれても、わたしは、少しでも希望がある限り、治療を続けてください、と、お願いするしかありませんでした。母は、黙ってうつむいていました。母の目にも、涙は、ありませんでした。先生は、治療を続けることを承諾したくださいました。そして、念のためにとおっしゃって、ご親戚の方々に、一応連絡はされたらどうですか、といわれました。
 部屋に戻ると、母は、おじに連絡を取るといって、また、部屋を出て、戻ってくると入院するときに持ち込んだ荷物を片付け始めました。落胆した様子でした。でも涙は、こられませんでした。

 


 


 

 父ががんである疑いが強いと知らされたとき、私は、どうしてもそれを事実として受け入れる人ができませんでした。
 父の横顔の絵を何枚も描きました。描かずに入られませんでした。
 どの絵も父の顔は、苦痛でゆがんでいるようでした。背景の色は、赤と黒の混じったものでした。三枚の画用紙をクレパスの赤と黒で塗りつぶして、ようやく、父は、がんで死ぬであろうことを認めることができました。
 ところが、がんどころではない問題がありました。
 父の心臓には、生まれつき穴が開いていて、ふさがっていませんでした。。去年の冬は、血流が悪く、右手の指の先がえそしてきたのです。生きている人間が,生きながら腐ってゆく有様をみることは、恐ろしいものでした。
 今年になって、胸部外科に有名な先生がみえました。
 父は、心臓の手術を受けることに決めてしまいました。
 十月二十六日に、家族全員が集まって医師からの説明を受けます。行方不明のはずの弟も,おじたちもきます。たぶんに危険が伴う手術手あっても、当人が望むなら、と、もう誰も反対はしません。
 おばも、輸血が必要ならと、手術当日に、京都から来てくれます。
 父が精神的に不安定になって、つらいと思うこともありますが、当人には、自分が死ぬことも考えてのことですから、周囲がしっかりしなければ。
 今は、人事を尽くして天命を待つの心境です。
 

 父ががんである疑いが強いと知らされたとき、私は、どうしてもそれを事実として受け入れる人ができませんでした。
 父の横顔の絵を何枚も描きました。描かずに入られませんでした。
 どの絵も父の顔は、苦痛でゆがんでいるようでした。背景の色は、赤と黒の混じったものでした。三枚の画用紙をクレパスの赤と黒で塗りつぶして、ようやく、父は、がんで死ぬであろうことを認めることができました。
 ところが、がんどころではない問題がありました。
 父の心臓には、生まれつき穴が開いていて、ふさがっていませんでした。。去年の冬は、血流が悪く、右手の指の先がえそしてきたのです。生きている人間が,生きながら腐ってゆく有様をみることは、恐ろしいものでした。
 今年になって、胸部外科に有名な先生がみえました。
 父は、心臓の手術を受けることに決めてしまいました。
 十月二十六日に、家族全員が集まって医師からの説明を受けます。行方不明のはずの弟も,おじたちもきます。たぶんに危険が伴う手術手あっても、当人が望むなら、と、もう誰も反対はしません。
 おばも、輸血が必要ならと、手術当日に、京都から来てくれます。
 父が精神的に不安定になって、つらいと思うこともありますが、当人には、自分が死ぬことも考えてのことですから、周囲が失す利しなければ。
 今は、人事を尽くして天命を待つの心境です。
 

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