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人の縁は、日本全国につながっている。互いに支え次世代の人材が育つ。
昨日の77才の大衆芸能プロデューサーは、若いころから熊本の労働会の活動家の妻として、様々な活動に参加して来られた。全国には出て行かなかったが、九州各地に友人がおられます。
今朝の熊本日日新聞のコラム「新生面」に、会津と熊本の明治初期の人の縁が紹介されています。会津藩は、青森に移され開拓をしながらの生活再建に取り組んだ。生活は厳しく、食うや食わずの厳しいなかで、人材教育に務めた。
その若い青年と青森県の大参事に赴任した熊本出身の軍人との縁の話しです。その青年は、後に陸軍大将になる柴五郎、熊本の軍人が野田裕道(ひろみち)でした。
新島八重もそうだが、明治維新の敗者となった会津藩の人々は、流浪しながら、様々支援をうけながら、明治を生き延び、活躍の場を見つけて行った。敗者としての厳しさは、辛酸を舐めるような生活だったことは間違いない。それを支えたのは、会津の教育と思います。
『童子訓』
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬ
新島八重が、よく語る「ならぬことはならぬ」は、この童子訓の番外の言葉です。七つの訓示と番外の言葉、会津の方々が、厳しい生活環境の中でも、強くたくましく、生き延びたベースになっていると思います。
しかし、辛酸を舐める厳しさはなかなか直ぐには改善できない。それを支えたのは、縁あった方々存在です。長岡藩もまた敗者の藩ですが、その厳しさを百俵の米が送られた。その米を、小林虎三郎は金に替え、学校を建てた。更に、日本初の奨学金制度もできた。この奨学金制度から、多くの優秀な人材を排出した。その一人が、太平洋戦争の海軍を率いた連合艦隊長官の山本五十六です。
話題からだいぶずれましたが「人は様々な縁の中で生きている。生かされている」と思います。地域の次の時代を担う人材を育てるために、名もない方々が支えているように思います。
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