炭鉱電車が走った頃

何気ない風景に歴史を読む・・・ 今一度風景を眺め直してみるのだ(@_@)

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▲御花史料館「殿の倉」の白壁とお堀

撮影日:2009.9.5
撮影地:福岡県柳川市

遠来の友を案内して 〜筑後は水郷“柳川”へ〜

遠来の友を案内して、9/5(土)の午後の柳川を散策いたしました(*^_^*)
残暑厳しい九州ですが、この日は水路上を渡る風が吹き渡り、結構涼しい日和でございました。

さて、九州は筑後の柳川といえば・・・
うなぎの蒸籠蒸しに川下りでしょうか?
名物の「越山もち」も知れわたっていますが、皆が訪れる場所といえば「御花」でしょう。

まずは旧柳川藩主立花家の別邸であった「御花」を訪ねます。
ここ「御花」は、江戸時代この地域が“御花畠”と呼ばれていたことから、立花家のこの別邸のことを「御花」と呼びならしてきたそうです。

現在の「御花」の建物や庭園は、明治時代の終わりに建設・建造されたもので、入り口正面には“西洋館”と呼ばれる西洋建築の迎賓館が建っています。
西洋館の正面玄関を入って、中庭経た大広間の先には広大な庭園が広がります。
その名は“松濤園”  仙台は松島を模したといわれ、樹齢200年以上の松が約280本植えられています。

実はこのお庭の水も、外堀より一度庭園東側のため池に導かれ、その上水が庭の池に注がれています。
もちろん、池からあふれた上水はまた水路へと戻っていきます。


冬場は、多くの鴨たちでにぎあう“松濤園”であります。


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▲旧柳川藩主立花伯爵邸 御花(おはな)


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▲明治43年建築の 西洋館


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▲西洋館 入り口


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▲西洋館 2階の広間天井シャンデリアとマントルピース


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▲大広間の廊下かもいに並ぶ兜  


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▲中庭から見た 西洋館


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▲松濤園に面する 大広間の建物


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▲旧仙台藩・松島の景を模したとも言われる 松濤園 その1


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▲旧仙台藩・松島の景を模したとも言われる 松濤園 その2


北原白秋曰く
「一体郷里の柳河という処は小ベニスのようで小さい数多の運河の上に市街がある。それが人の邸に注ぎ、縁側の下を流れる。その水は飲料水であり、洗い水であり、すべての用を足している」

「TONKA JOHNの悲しみ」後記より


(つづく)

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鈴川倶楽部です。
柳川掘割物語というドキュメンタリーをみました。
そもそもクリークは、この地にどのようにして生まれたのでしょうか。
中国の影響とかあるのでしょうか。
お忙しいなか、もしお時間があれば教えてください。
たいへん、興味深い地です。

2009/9/6(日) 午後 10:25 KEN 返信する

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おはようございます、管理人です。
製作・宮崎駿、脚本監督・高畑勳のドキュメンタリー映画ですね。
さて、クリークについてですが、筑紫平野の有明海沿岸には、クリークが縦横に走っています。これは、低湿地・干拓地での農業用水として利用されてきました。ポイントは、干満の差が激しい有明海にあります。これらのクリークには必ず水門や堰が設けられています。
これらの水利施設がなければ、クリークの水を保つことは出来ません。また、柳川では城の防備という要素もありますし、生活用水・船運・洪水防止など、多くの機能があったと思います。
私などは、春先の田植前に行われる水落(溝さらえ)が印象に残ってます。この日、クリークの水門は開けられ、魚のつかみ取りも出来たりして楽しみでもあります。
それにしても、柳川市の約20%・総延長470劼水路だと言いますので、まさしく“水郷”ですね。

2009/9/7(月) 午前 7:06 ed731003 返信する

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鈴川倶楽部です。
ありがとうございました。
上記映画でみた、川沿いの洗濯場と同様の風景が、地元でもあったので、今回、とても興味をひいたのでした。
でも、そこは、富士山の地下水がわき出た地区なので、地区の成り立ちは違うと思いました。
そこは、わが市の近代製紙工場発祥の地で、今では、水を汲みあげすぎて、往年の風景はありません。

2009/9/7(月) 午後 9:48 KEN 返信する

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こんばんは、管理人です。
富士山の地下水は、澄み切ったように美しい湧き水ですが、ここ柳川のクリークの水は濁った水です。
かつてはもっと透明度が高かったのかもしれませんが、富士山の湧水のような水にはとうていかないません。
実は、私の母方の実家近くには・・・○○まで水が来たら、柳川は水に浸かる(水没する)といったことが伝えられています。
クリークは、洪水調節機能をも有したマルチ水路だったのです!(^^)!

2009/9/7(月) 午後 10:30 ed731003 返信する

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鈴川倶楽部です。
実に興味深い話です。
(私は有明海を詳しくわかりませんが、)駿河湾は日本で一番深い形状で、波が増幅される(高波になる)傾向にあります。
従って、近代の海浜堤防ができるまで、たえず津波被害を受けていました。
河口を利用した風待ち湊がありましたが、自然被害に勝てず、海岸付近の街は発展せず、街の中心部は内陸移動しました。
おまけに、江戸に近いので、交通要害として、土木技術の発展を抑制されて、近代水門ができたのは、明治中期ごろだったようです。
その技術は、九州の大分から導入したとのことです。

2009/9/8(火) 午後 2:54 KEN 返信する

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こんばんは、管理人です。
鈴川倶楽部さんの吉原湊の記事を読ませて頂きました。吉原湊は、駿河湾最奥部にあって、沼川と潤井川の合流点に位置していたのですね。ちょっとだけ調べたところ・・・現在の田子の浦港は、昭和30年代に掘込式港湾として整備されたんですね。
現在、三池港築港の歴史を繙いていますので、少なからず港湾には関心があります。夏休みに買って読み捨てたままになっている松本健一著『海岸線の歴史』の続きを読んでみようかな〜 という気が湧いてきました。

2009/9/8(火) 午後 8:25 ed731003 返信する

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