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 『安楽集』にいはく、
 「諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かさば、
 『大集経(だいじっきょう)』にのたまはく、
 〈説法のひとにおいては、医王の想(おもい)をなせ、抜苦(ばっく)の想をなせ。
 所説の法をば甘露(かんろ)の想をなせ、醍醐(だいご)の想をなせ。
 それ聴法のひとは、増長勝解(ぞうじょうしょうげ)の想をなせ、愈病(ゆびょう)の想をなせ。
 もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆(しょうりゅう)するに堪へたり。
 つねに仏前に生ぜん〉と。








               
                    親鸞著『教行信証』信巻 「真仏弟子釈」より


これは宗祖・親鸞が著した『教行信証』信巻にある一節であるが、
「七高僧」の第四祖である道綽禅師(どうしゃくぜんじ・562−645、中国)が著した、
『安楽集』から引用したものである。

『安楽集』には以下の如く記されてある。


   第二に諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かすとは、なかに六あり。
   第一に『大集経』にのたまはく、
   「説法のものにおいては医王の想をなし、抜苦の想をなせ。
   説くところの法には甘露の想をなし、醍醐の想をなせ。
   それ法を聴くものは増長勝解の想をなし、愈病の想をなせ。
   '''もしよくかくのごとく説く者、聴く者は、
   '''みな仏法を紹隆するに堪へたり、つねに仏前に生ず」と。




                     道綽禅師著 『安楽集』巻上 「第一大門」より



かれこれ15年前、私が本山伝道院に学んだ折、講師が最初の講義の冒頭、
「讃題」として読み上げられた一節である。

仏法を「取り次ぎ」する者としての心得を、この一節に依ったのである。


  
   あらゆる大乗仏教の経典によって、教えを説く者と聞く者の心得を明らかにするならば、
   『大集経』には以下のように説かれている。
   「仏の真理を説く者は、優れた医師であると思うべきである。
   聞く者の苦しみを取り除くと思うべきである。
   説く教えに対して、甘露(かんろ・※)の味わいを思うべきである。
   醍醐(だいご・※)であると思うべきである。
   翻って、仏法を聞く者は深く真理を理解する心が育まれると思え。
   病が癒えていくと思え。
   このように思いを巡らせるならば、説く者も聞く者によって仏法がいよいよ栄え、
   いつも仏の御前に在ることができよう…」。

    ※甘露 不老不死の効能がある仙酒・霊薬のこと。
        仏法の優れた深い味わいを表現する時の譬喩として用いる。
    ※醍醐 生乳を精製して作った乳製品。
        最上の薬であり最高の美味を表す語として用いられる。



今、我が宗門(浄土真宗本願寺派)と真宗大谷派(東本願寺)では、
布教の在り方がシステムの部分で異なるようだ。

我が宗門には「布教使」という資格が設けられていて、
概ね、前述の伝道院に修学して所定の成績を修めればこの資格が与えられ、
宗門から「布教使」に任用されるのである。
本山や別院での法座に出講する場合、「布教使」に任用されないと出講できない。

ところが東本願寺は「布教使」資格が廃止されている。
住職に就任するための資格である「教師」を以て出講が許されるようだ。

我々本願寺派の者から見れば、頭角を現せば誰でも出講できるということなのだと思う。
これは、一寺を預かる資格を有する僧侶ならば、説教ができて当然という前提があるのかも知れない。
ある意味、我が宗門のような専門職化を抑制する上でも画期的なシステムとも思える。

我が宗門では「布教使」という資格は、説教の“専門家”のようなニュアンスが常に付きまとう。
これは長所でもあり短所でもあると思う。
同じ僧侶であっても分業化が進み、
“専門外”のことはテキトーにこなすことを容認してしまう甘さが出てくる。

全く自身の現実をして言わしめることなのだが、資格が選考しすぎて自身が伴わなかったりする。
全くゆゆしきことと言わねばなるまい。


私はあれから15年の歳月を経て、親鸞が引用した『安楽集』の一文に思いを致している。
法話を聞いても、そのままを聞けない。
講者のここがおかしいあそこは改めるべき…など、全く無関係なところを見ている。

近年特に復興を見る「節談説教」は、その話術と内容が絶妙に絡み合った時に初めて、
聞く者の心に響くのだと思うが、技術の方ばかりに目がいってしまう所以である。

梵唄声明にしても同じことが言える。
音律に執着することではない。
はじめに法義ありきである。
しかし「お勤め」としての梵唄声明は、法義が後からついてくる。
そして技術も後からついてくると思う。
ここにも、絶妙に絡み合うことが要求されるのだと思う。

私は、魚山で聞く天台声明が美しく聞こえるのは、
「法義」と「法儀」が絶妙に絡み合っているからだと考えている。
単なる音曲としてだけの声明ではないのである。


いずれにしてもこの教えに出会えたことに対する、純粋な喜びを伝えることが肝要なのだと思う。
何かを得るために仏教に帰依するように考えてしまいがちだが、実はそうではない。
体中に背負いすぎているものを、捨てるためにある教えだと思う。
何もそれは通仏教で説かれる“執着を断つ”ことではなく、
背負ってきたものを下ろした時、何とも言えない解放感に浸ることなのだと思っている…。





釈尊生まれまします、4月8日に思う…。







   













■写真■
大津市坂本の延暦寺里坊・惠光院にて、2007年4月9日撮影。

転載元転載元: ◆京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草◆

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初めまして…。
駄文を転載して頂き、恐縮であります♪♪
本文アップ後、若干、再度推敲を致しました。また御笑覧下さいませm(_ _)m

2012/4/10(火) 午前 1:36 Rev.Ren'oh

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