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ある人がその時言った。神様が死ぬなんて信じられない、と。筆者も当時同じ思いを抱いた。死後、病室でも夜遅くまで漫画の執筆に明け暮れていたことが明かされた。まるで「最後の審判」を弓なりに身を反らして描いたミケランジェロの如き苦闘であっただろう。もっとも本人にしてみれば、骨の髄まで漫画が好きだったから当然だと答えたかもしれない。
エピソードに枚挙のいとまがない人だったが、漫画の神様はギリシャ神話のゼウスの妻ヘラの如く嫉妬深かったという点をいくつか。
福井英一という漫画家がいた。後のスポ根の先駆けともいうべき「イガグリくん」という柔道漫画で人気を博した彼を、手塚は自作の「漫画大学」の中で批判した。的はずれともいうべき指摘に当然福井は激怒。共通の親友であった馬場のぼるが仲裁に入りなんとか事無きを得た。
石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の時も深刻だった。手塚自身が発行人となっていたマンガ雑誌COM(コム)にて、石森は「ジュン」という作品を連載していた。セリフがまったくないという当時としては画期的な手法に、やられた!と思ったのだろうか。あんなものは漫画ではないと痛烈にこき下ろした。かつて彼自身が「ジャングル大帝」を、時の大御所から邪道と言われたというのに。
ショックを受けた石森は連載を打ち切ってしまった。己の発言の大きさが後輩の心をどれだけ傷つけてしまったか、手塚は愕然としあわてて石森の自宅を訪れて謝罪した。
「なんであんな事を言ってしまったのか、自分でもよくわからない……」
後に石ノ森は、手塚追悼の作品の冒頭にこのエピソードを取り入れた。彼にとっても、手塚を語る上で忘れ難いことだったのだろう。
手塚という人は神様と呼ばれたほどどこか世間離れというか、得もいわれぬ魅力に溢れた面があったがこの同業者に対するジェラシーという悪癖は生涯治らなかった。
「一体、これのどこが面白いのか教えてくださいっ!」
スポ根漫画の全盛期、「巨人の星」が連載されていた週刊少年マガジンを放りアシスタントたちに泣かんばかりに尋ねたことがあった。かつて自分が上京や住む場所を斡旋した藤子不二雄(後にコンビを解消)が全集を出すと、しばらくそっとしておいてくださいと拗ねたという。
他人から見たら、手塚治虫ともあろう者がと思うことも彼にとっては必死そのものだった。自分の漫画をいつもたくさんの人たちに読んでもらいたい。その焦がれるような衝動が、手塚を戦後におけるストーリー漫画の開拓者となさしめ最期につぶやいたという、
「仕事をする。仕事をさせてくれ」
と、もはや執念の鬼ともいえるほどの原動力となったのだろう。そんな手塚を評してある評論家が言った。彼の作品には、ヒューマニズムと同時に暗い情念が渦巻いていて、それが見事に調和していた。偉大な仕事を成し遂げる人は、そのような矛盾を己の内に包み込んでいるものだと。そうだったのかもしれない。
<この稿、続く。>
写真は、昭和62年に手塚が徳島にて阿波踊りをした際のもの。「手塚治虫マニアの部屋」より転載させていただきました。
http://www.nmt.ne.jp/~nakamura/tezuka/
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小さかった私は手塚治虫を人間ではないのだと思っていた。テレビで棺桶が映し出された時、「ああ、人間だったんだ」と思ったことを強烈に覚えています。手塚先生の作品を読むようになったのは、それからです。生前は、あまりにも、「雲の上」の人でした。
2007/2/10(土) 午後 4:43 [ aya ]
嫉妬って、人間を大きく成長させる大切な要素だと思います。全てを許してしまえる心の深さを持てる人間なんて、きっといない。人は皆、嫉妬を大なり小なり抱いているからこそ前へと進んでいく。・・・ん、ちょっと微妙な文章になりました。すみません。
2007/2/13(火) 午後 9:15
神様が死ぬはずがないと、あの時まで多くの人が思っていたと思います。棺置いて、事定まる。といいますが、亡くなってその偉大さが痛感させられました。>hoshimeguri2203さん
2007/3/27(火) 午後 9:36 [ edo*g*ngu ]
手塚治虫ほどの人が、なんで若手にそこまで嫉妬するのかという場面が多く見受けられたのを、アシスタントや編集者がしばしば証言しています。偉大である分、そのジェラシーは誰よりも強くそれが創作の原動力になったのでしょうね。>kotoさん
2007/3/27(火) 午後 9:41 [ edo*g*ngu ]