歴史ってなんだ

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皆様お久しぶりです。遅ればせながら明けましておめでとうございます。去年の後半、公私共に忙しかったためブログの更新ができなかったことをお詫びします。これからは極力更新を怠るまいとは思いますが、歴史小説の文学賞に挑戦するなどまた忙しくなるのは必定となっていきます。一応このブログは長いスパンで継続していこうと思っていますので、どうかこれからもよろしくお願いします。

最後に、私が発行している携帯用メルマガを紹介しますので良ければ覗いてみてください。なお、登録はPCからも可能です。

 『歴史の言霊』

 http://merumo.ne.jp/i/00034472.html

こちらでは現在、歴史小説『尊氏謀叛―江戸版太平記−』を連載中です。

 『日本史三十六景』


http://merumo.ne.jp/i/00504174.html

こちらは去年の八月に始めたばかりのマガで、戦国時代に活躍した人物を取り上げています。今月十五日に“上杉謙信篇”をスタートさせますのでよろしかったら読んでみてください。

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西郷隆盛の歴史観

西郷さんについて、いささか触れてみたい。歴史上の人物に敬称をつけるのもおかしなものだが、筆者にとっては特別思い入れのある人だけにこの稿においてだけはお許し願いたい。

テレビ東京系列の番組に「開運!なんでも鑑定団」というものがある。島田紳助と石坂浩二が司会をやっているのだが、この中で静岡県熱海市在住のある方が父の入院費の足しにしたいということで、西郷隆盛の書を持ってきた。

巨目(うどめ)さぁの書っ!?(鹿児島では、西郷の特徴的だった黒ダイヤのような大きな目から親しみをこめてこう呼ぶ)。それが本物なら、筆者なら一千万円を出してでも欲しいくらいだ。残念ながらそんな大金はないが(笑)

結果は二百万円と出て、本物だと太鼓判を押された。南洲(西郷の号)の書というのは贋物が多く、南洲の書が発見されたらまず疑えというくらい美術界では常識とのことだそうだ。

で、肝心の書の内容はというと七言絶句で楠木正成を賞賛したものだった。詳細は確か、武辺知略に優れた天下無類の人だった大楠公(息子の正行<まさつら>と区別するため、こう呼ばれもする)は帝への忠孝のためあえて死地に赴き(湊川の合戦のことであろう)七生生まれ変わっても朝敵(足利尊氏のこと)を討つと誓った(実際に言ったのは弟の正季だが)。これほどの人が、今の世に果たしているだろうか。という意味のことだ。

現在から見ると、正成のことを忠孝の人と讃えている西郷をとんでもないアナグロニズムな存在と捉えがちになろう。しかし、明治維新後間もない当時の日本にとっては、天皇を頂点とした国家造りは急務であった。ましてや西郷は当時の日本唯一の陸軍大将としてあるいは側近といってもいい立場として明治天皇に天皇という存在はどうあるべきかと帝王学らしきものを身をもっておしえていた。

西郷の没後、皇居が火事になり明治天皇はあわてて側近に命じてあるものを火中から運び出させた。それは古ぼけた小箪笥だった。天皇は、

「これは昔、西郷が私にくれたものだよ」

と、懐かしそうにつぶやいたという。彼にとって西郷とは、父親のようなものだったのだろう。余談が過ぎた。

明治新政府云々という大仰なことを書いてしまったが、西郷の歴史観は故郷の薩摩で培われた国(この時代の感覚ではむしろ藩といったほうが適切か)への絶対的な忠誠心、水戸藩きっての国学者藤田東湖への傾倒も大きかった。水戸藩といえば、黄門さまの愛称でも知られる光圀が編纂し始めた「大日本史」があまりにも有名だ。かいつまんで話せば、要は武家(幕府)はあくまでも朝家(天皇家)に仕えている身に過ぎず、いざ世が乱れた時は幕府を倒してでも朝廷のために武家は働かねばならないというのが骨子となっている。

天下の副将軍といわれた光圀の水戸藩だからこそ行いえたイデオロギー史観の確立といえなくもない。これが他の外様大名などであれば(たとえば仙台伊達藩)、その一事だけをもって藩取りつぶしの口実とされよう。

いずれにしろ、光圀を源流とする水戸史学は幕末における倒幕運動の一端となった。その水戸史学の権威であった東湖を生涯の師と仰いだ西郷にしてみれば、楠木正成=大忠臣、足利尊氏=朝敵という図式が基礎となっている水戸史学が血となり骨となったのは疑いない。

ちなみにTVで公開された書は晩年のものであろうとのことである。

晩年といえば、明治十(1877)年に暴発した弟子たちに担がれる形で西郷は西南戦争を起こした。ただし桐野利秋や村田新八など、大久保利通を中心とした新政府を倒して西郷を日本国の首相にしようとまで夢の虹を描いていた弟子たちに反し、西郷本人はまるで死地を求めて戦へ赴く観があった。

それを証左するのが、鹿児島を発つ前に東京へ発した、

“セイフニジンモンノスジ、コレアリ(政府に尋問の筋、是あり)”

という電報であろう。本当に西郷本人でさえも大久保に取って代わろうという野心があったなら、このような回りくどいことをするはずがない。あくまでも西郷は、かつての盟友であった大久保と膝を詰めて話し合い、それでも駄目なら刺し違える覚悟でいたのだろう。さもなければ、難攻不落の熊本城に固執せず、兵の半分を北上させてまず九州制圧を考えたはずだ(事実、西郷の末弟小兵衛はこの作戦を主張したが、西郷は受け入れなかった)。

晩年の西郷はまともな判断力ができなかったという説もあるが(司馬遼太郎が「翔ぶが如く」でそれを裏付けるエピソードを紹介している)、そんな人間に何万もの軍勢を率いることができるだろうか?なにより、西郷とこの戦争を通じて初めて接した旧豊後(現在の福岡県東北部と大分県北部)中津藩の増田栄太郎をして、

「自分は、西郷という人の人格に接してしまった。そうなってしまっては、もはや先生と生死を共にするしかない」

と、泣きながら仲間に語らせるだろうか?

暴論かもしれないが、かつて東湖を通じて学んだ水戸史学の精神、戦局がまったく見えていなかった後醍醐天皇に一切反論せず、黙って死地へと赴いた楠木正成と自身を重ね合わせたのではないか。

政府を倒そうとすることは、明治天皇に対する不忠となる。そう思えばこそ、西郷は何万もの兵を道連れに死を選び取ったのではないか。前々から思っていたことが、ふとあの書の由来を聞いた時に真実であるようにさえ感じた。

以上、やや妄想めいた内容でご容赦。

謙信、酒に敗れる

  同じ酒呑みの立場でこんな事を言うのもなんだが、深酒をしても百害あって一利はない。歴史上、有名無名を問わず酒で人生を誤りあるいは命を落とした人たちはどれだけいたことか。かつて世の酒呑みたちは医者に節制を勧められると、

  「日本画の大家横山大観は、毎日筆をとる前に酒を何合も呑み干した。晩年には飯さえ食わずに呑んでいて、それでも長生きした」

  などと、自らの不養生を棚上げにしたらしい。確かに大観は89歳で天寿を全うしたが、そんなのはごく稀なケース。命こそ落とさなくても寝たきりになってただ死を迎えることだって多々あるのだ。

  横山大観と同じくらい、いや、それ以上に大酒呑みとして日本史上有名といえば不織庵こと上杉謙信に他ならない。戦国史上最強と謳われ、武田信玄や北条氏康といった強豪とがっぷり四つに組んで戦い抜き、晩年には織田信長さえも一敗地にまみれさせた恐るべき武将。戦では無敵を誇ったこの謙信も飲酒からきた病には勝てなかった。天正6(1578)年3月13日に数え年49歳で亡くなった。

  その約半年前、加賀は手取川の合戦で信長の軍勢を散々に打ち破った。実際には信長ではなく重臣の柴田勝家が率いていた織田軍が大敗したのだが、この一戦は信玄没後活気をなくしかけていた反信長勢力(足利義昭、毛利輝元、石山本願寺など)を勢いづかせた。事実大和(現在の奈良県)の松永久秀に至っては、一度は裏切って信長に許された身にも関わらず(信長にしては寛大な処置といえる)これを好機とばかりに再び叛旗を翻した。とはいえ、いささか動くのが早かった。頼みの謙信が勢いに乗じて上洛するどころか、冬将軍に備えてであろうすぐに越後へと引き揚げてしまったので、孤軍となった久秀は城を枕に討ち死にせざるを得なかった。謙信の劇的な勝利から僅か一ヶ月足らずの出来事だった。

  もっとも、仮に謙信が上洛したとしても謙信本人が久秀と手を結ぶかどうか。なにしろ政虎時代に謙信は室町幕府が久秀らに専横されているのを憤って三千の兵でもって上洛した際、

  「いずれ機会がありましたら、私が三好長慶(久秀のかつての主君)や久秀の如き不義不忠の輩の首をはねてごらんにいれましょう」

  と、時の将軍足利義輝(十三代。義昭の兄で、後に久秀に謀殺される)に断言したくらいである。久秀には憎悪こそ抱いていても、手を組んで助けてやろうなどとはいくら義の人でも承服できまい。

  閑話休題。

  それから僅か半年後に急逝してしまったため、一説には信長の放った刺客に暗殺されたのではとさえ疑われた。しかし厠で倒れてから亡くなるまでの数日間を検証すると、死因は脳溢血だということがはっきりしている。実際、もはや主君の死は免れないことがはっきりしてくると姉でもある仙桃院(夫は変死を遂げた長尾政景)が、

  「跡継ぎは、景勝殿(後の米沢初代藩主)になさいますね?」

  と尋ねたところ、まったく呂律が回らずただうなずくのみであったという。彼女にとって景勝は実子であるから、次の越後の国主にしたいという気持ちが死にかけの弟を利用する形になったともいえる。いずれにせよ、この時後継者問題を明らかにしなかったことが、景勝、景虎(北条氏康の八男)といった養子二人によるお家争いの元となる(御館<おたて>の乱)。

  天下や領土を広げることに欲を持たず、酒を愛したこの武将の生きざまは多くの日本人の琴線に触れた。辞世の句は、

  “四十九年一睡夢(よんじゅうきゅうねんいっすいのゆめ) 一期栄華一盃酒(いちごのえいがいっぱいのさけ)”

  と言われているが、口も利けずに亡くなったことを考えるといささか疑問の余地がある。酒呑みを、あまり持て囃したり甘やかすのもどうかと思う。

かれこれ二十年くらい前の話なので記憶違いがあったらご勘弁を。ある本によると、歴史上に名を残した天才は睡眠時間の長短で二種類に分かれるとのことだ。一つは長時間睡眠による創造的天才。こちらは確か、アインシュタインやユングが一例だと思ったがなにせ昔のことなので心許ない。一方短時間睡眠のほうは、野心的天才というタイプでナポレオンやエジソンが代表とのこと。あの本には掲載されていなかったが、漫画の神様といわれた故・手塚治虫も(旺盛過ぎるほどの創作力に裏打ちされた仕事量や、同業者に対する異常ともいえる嫉妬心を考えれば)この部類に入ると見て差し支えなかろう。

 さて、ナポレオンである。彼が強烈な野心に突き動かされた驚くべき行動家であったことは今更言うまでもない。東はロシア、西はイギリスを臨むドーバー海峡まで戦火を広げたナポレオンはそれこそ寝る間も惜しんで行動したという。一日の平均睡眠時間は約三時間。彼を賞賛する人たちはその点も模範とすべきと思い込んでいる節がある。しかし人間の身体というのは良くしたもので、やはりそれだけでは足りなく昼間政務の合間に机に頬杖を突きながらうたた寝しているさまを側近が記録に残している。

 最近の統計でわかったことだが、人の一日の平均睡眠時間は六、七時間が妥当らしく、短過ぎても長過ぎても寿命を短くする一因になるとのことだ。他に、ガン、脳梗塞、心筋梗塞など命に関わる病気にも因果関係があるとのことで、たかが睡眠と馬鹿にできないわけだ。そういえば最後の戦争となったワーテルローの戦いでは、九分九厘勝っていながら歴史的敗北を喫してセントヘレナ島へ島流しにされる破目となった。その原因というのが、胃腸にガスが溜まるという年来の持病が悪化したためでほんの一、二時間ナポレオンが横になったために戦局が一変してしまったためだという。胃腸に爆弾を抱えているというのはいろいろ原因はあるだろうが、睡眠不足が一つの要因であったと見ていいだろう。筆者も経験があるが夜ふかしをしたり睡眠不足の翌日は、胃が張っている感覚がしばしばあった。フランス軍の総司令官として皇帝としてヨーロッパを駆け回った疲労は身にこたえたはずである。すべてを失った後ならなおさらだろう。

 乱れた生活習慣は島流し後も改善されなかったのではないのか。恐らく強度の睡眠障害に悩まされただろう。行動範囲も狭められ、ノイローゼ状態になって身体が衰弱して緩慢とした死を迎えた、といっていい。死後、遺体の毛髪から大量の砒素(ひそ)が検出されたことから毒殺説が長い間囁かれていた。死の真相についてはあえてここでは議論するまい。ただ、どちらにせよ弱りきったナポレオンの余命は決して長くはなかったことだけは想像できる。同時代を生きたモーツァルトが、当時の誤った医学知識で亡くなったことを考えると筆者にはそんな気がしてならないのだ。



 ※モーツァルトの死因について:余談だがナポレオンより十三歳年長だった作曲家のモーツァルト(1756−1791)の死因には謎の部分もあるが、当時のヨーロッパで流行していた遮血療法がその一因ではともいわれている。体内の淀んだ悪い血を抜くことで身体を活性化させるとされたこの療法は、モーツァルトの父レオポルドがしばし好んで行い息子にも勧めた手紙が残されている。病気で衰弱したところに血を抜かれたのだから、それが元で命を落としたとしても不思議はない。

常々思うこと

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 お前にとって歴史とはなんだと問われたら、どう答えようかといつも悩んでしまう。楽しみの一つともいえるし、人生で迷いが生じた時の一つの指標といえなくもない。正直、小学校の低学年の頃父親が買ってくれた偉人集(野口英世、平賀源内、牧野富太郎、滝廉太郎、宮沢賢治、西郷隆盛などが取り上げられていた)にハマッたのがきっかけだった。

 以降、偉人伝と名のつくものは片っ端から読み漁った。エジソンに始まり、リンカーン、ワシントン、キュリー夫人、ヘレン・ケラー、アムンゼン、シュバイツァー、ベートーヴェン、ナポレオン、ナイチンゲール、シュリーマン、歳を重ねて大人びてくると織田信長、武田信玄、上杉謙信、斉藤道三といった戦国大名の活躍に心を躍らせた。

人に対して素直に接することのできなかった僕にとって、本の中の彼ら、彼女らが一番親しい知人となっていた。そう、僕にとっての歴史とはさまざまな人物の生きざまに共感することだったのだ。

 その傾向は今でも変わっていない。大人になった僕はさすがに、生身の人間と付き合うことも人生においては大事なことだと認識はし始めた。とはいえ、迷いを生じた時は必ずといっていいほど司馬遼太郎の歴史小説やエッセイ、あるいはさまざまな歴史の本を読むことで自分の生きざまというものを確認してみたりする。この生き方は、間違ってはいなかったか、と。

 不思議なものだ。ややもすれば、物事を悲観的に考えがちな僕が今日まで生きてこれたのは歴史に対する飽くなき探究心や本を読み音楽を楽しみ酒を呑むという行為によって支えられたということだ。そういった意味では、僕にとって歴史というものは切っても切り離せない伴侶の如きものとなっている。

 このブログは、そんな僕の歴史に対する拙いラブレターみたいなものだ。ここでは歴史上活躍した人たちはもちろん、現在を生きる人たちにもスポットを当ててみようと目論んでいる。僕がこの世を去るまで書き続けられるかもしれないこのラブレター、興味のある方は苦笑を交えながら読んでいただきたい。





 上記の写真は、愛知県清洲城跡にある織田信長像。


 

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