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その男、高杉晋作は最期の時を迎えようとしていた。これより約一年前の慶応二(1866)年六月、第二次長州征伐により、長州藩は存亡の危機に立たされていた。晋作はこの時村田蔵六(後の大村益次郎)らと共に、藩兵を率いて(奇兵隊など)征討軍である幕府と諸藩の連合軍を散々に討ち破った。 |
真・歴史の言霊
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十一年の長きにわたって続いた応仁・文明の乱は、京の都を荒廃させただけでなく地方にも戦火を拡大させた。たとえば駿河(現在の静岡県中部)では守護の今川義忠が戦死して家督争いが起きかけた。関東ではこれを機に駿河を自らの影響下に置こうと、太田道灌(扇谷<おうぎがやつ>上杉家家宰)や足利政知(堀越公方。伊豆の名目上の支配者)、それに上杉政憲が加わる形でそれぞれ三百の軍勢でもって駿府に入った。 |
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慶長3(1598)年8月18日、時の天下人豊臣秀吉は幼い我が子の行く末を案じながら息を引き取った。享年62歳。それから僅か二年後に関ヶ原の合戦が起きたのは、当時の豊臣政権の不安定さとそれにつけ込んだ家康の抜け目のなさにあった。秀吉の遺児秀頼とその生母淀の方を担いでいた石田三成ら(いわゆる文治派)と官僚三成の行動を専横と憎悪していた加藤清正、黒田長政ら(いわゆる武断派)の対立が、家康をしてつけいる隙を与えていた。 |
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戦国武将にとって有能な軍師は必要不可欠な存在といえる。特に秀吉のように裸一貫でのし上がってきた人間にとっては、喉から手が出るほど欲しい人材だった。彼に幸いしたのは、竹中半兵衛重治、黒田官兵衛孝高(よしたか)といった者たちを主人信長に貰い受ける形で傘下に入れられたことだ。半兵衛は病のためその後他界してしまったが、官兵衛はその後も秀吉の右腕として活躍していく。 |
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兵庫へ向かうことを命じられた楠木正成は、同行させていた嫡子正行(まさつら)を説得して故郷の河内(現在の大阪府東部)へ帰らせたという。戦前、戦中までの日本人なら知らない者がいなかったいわゆる桜井の駅の別れである。が、当時の正行の年齢を従来通り十一か既に青年に達していた二十代になっていたかと考えるかで大きく異なってくる。 |







