真・歴史の言霊

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第九回:面白いのう

その男、高杉晋作は最期の時を迎えようとしていた。これより約一年前の慶応二(1866)年六月、第二次長州征伐により、長州藩は存亡の危機に立たされていた。晋作はこの時村田蔵六(後の大村益次郎)らと共に、藩兵を率いて(奇兵隊など)征討軍である幕府と諸藩の連合軍を散々に討ち破った。

一年半前に第一次長州征伐で戦わずして長州を屈服させた幕府にしてみれば、考えられない敗北といえた。結果としてこの征討の失敗が徳川幕府の権威を完全に失墜させ、倒幕を画策する薩長側を大いに勢いづかせた。

  しかし晋作は、師・吉田松陰の仇でもある幕府の崩壊を見ることができなかった。海軍総督として小倉城に籠もっていた幕府軍を敗走させた直後に吐血し、床に就くことになる。自分の余命はもう幾許(いくばく)もないと悟ったのであろうか。この年の暮れ、父・小忠太へ辞世の句とも思える二つの歌を送っている。

  “人は人吾は吾なり山の奥に棲みてこそしれ世の浮き沈み”

  “うぬぼれて世は済(すみ)にけり歳の晩(くれ)”

 翌春、病床に横たわっていた晋作は紙と筆を所望し、

  “おもしろきこともなき世をおもしろく”

  と書き、そばで看病していた共に勤皇の志士として活動していた野村望東尼(もとに)に渡して続きを頼んだ。

  “すみなすものは心なりけり”

  戻された下の句を読んで晋作はただ一言、

  「面白いのう……」

  と微笑むようにつぶやいた。この後意識が朦朧とし、四月十三日晋作は逝った。満二十七歳八ヶ月の、駆け抜けるが如き人生だった。最期の言葉は、

  「吉田へ」

  とも言われているし、同志だった井上聞太(もんた・後の井上馨<かおる>)らに語った、

  「これまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」

  ともされている。




  補足事項

  吉田松陰の予言

  晋作を筆頭に、久坂玄瑞、伊藤俊輔(後の博文)、山県狂介(後の有朋)らは吉田松陰(1830−59)の松下村塾で学んでいた。松陰は後に安政の大獄で処刑されるが、僅か一年足らずの交流で弟子たちに大きな影響を与えた。

松陰は自分の弟子の中で久坂玄瑞をもっとも才能ある第一流の人物として評する一方、

  「その後(私は)高杉暢夫(ちょうふ・晋作のこと)を得た。暢夫は有識の士である。しかしまだ未熟で、すこぶるわがまま頑固な面がある」

  と晋作を久坂と同じように評価していた。また、桂小五郎(後の木戸孝允)に晋作をどう思うかと問うた。

  「すぐれた少年ですがすこし頑固な性質があり、人のことばを受け入れないのが心配です。その点を忠告なさればきっと役に立つと思います」

  それに対し松陰は、

  「僕も同感です。ただ暢夫はもう十年ほっておいたがよい。いま無理にその頑質を矯(た)めようとすれば、かえって成長のさまたげになります。暢夫が人となったときには、他人のことばに同調しないまでも、きっとその言を捨て去ることはしないでしょう。十年ののち僕が事をなすときは、かならず暢夫に相談しようと思っている。暢夫は僕の期待にそむきますまい」(高杉晋作の生涯/富成博/新人物往来社P52〜54より抜粋)

  と答えたという。松陰はこれより一年後の安政六年十月二十七日に老中暗殺の計画を立てた科(とが)で処刑されるが、彼の言葉通り約十年後に晋作は長州藩の中心人物として倒幕に突き進むことになる。

第八回:当方滅亡!

十一年の長きにわたって続いた応仁・文明の乱は、京の都を荒廃させただけでなく地方にも戦火を拡大させた。たとえば駿河(現在の静岡県中部)では守護の今川義忠が戦死して家督争いが起きかけた。関東ではこれを機に駿河を自らの影響下に置こうと、太田道灌(扇谷<おうぎがやつ>上杉家家宰)や足利政知(堀越公方。伊豆の名目上の支配者)、それに上杉政憲が加わる形でそれぞれ三百の軍勢でもって駿府に入った。

両軍が睨み合うなか、一人の男が妙案を携えて太田道灌の元を訪ねた。男の名は、伊勢新九郎長氏(盛時という説もある)といい義忠の側室北川殿の兄にあたった。彼は道灌に、こちらとしてはまだ六歳にしかならない龍王丸(後の氏親)に今川の家督を継がせるのは危ういのは重々承知している。そこで、龍王丸が元服するまで亡き義忠の従兄弟である小鹿(おしか)範満殿に家督を代行させるというのはどうだろうと提案してきたのだ。

幼い頃から才気煥発を謳われた道灌にしてみれば、新九郎の案もさることながらこの無名の男に才能のきらめきを感じ取ったのかもしれない。結局道灌がこれを了承して兵を引き揚げたことにより、駿河が他国に侵される危機は回避できた。

その後の道灌は、主君扇谷上杉定正の命により幕府に逆らい関東を己の支配下に置こうと画策する古河(こが)公方足利成氏一派と度々戦い、これを存分に叩き伏せた。また彼は武将としての勇猛さもさることながら、歌人としても当代随一の教養人であり主命で築いた江戸城において京から招待した公家などと歌会を行い、

“関東に太田道灌あり。”

と賞賛された。面白くなかったのは山内(やまのうち)上杉家の当主顕定であった。道灌の声望が高まるということは、その主家の扇谷上杉家の影響力が関東一円に及ぶことをさす。顕定にしてみれば、格下の扇谷にいずれは己の地位を脅かされると危機感を抱いたのかもしれない。そこで定正に、道灌めは上杉を滅ぼして自分がこれに取って代わろうとしていると吹き込んだ。

定正にとってはこの話は満更でたらめとは思えなかった。元々彼が扇谷の当主になったのは、先主で甥の政真が戦死したためで道灌が心から自分に服していると信じられなかったのだ。なにより道灌は居城である江戸城を堅牢に固め、そこで京からの公家や文化人と何事かを企んでいるかにも見える。

疑心暗鬼が悲劇を生んだ。それから間もない文明十八(1486)年七月二十六日、道灌は相模糟屋(現在の神奈川県伊勢原市)にある定正の館に招かれた。何も疑いもせず風呂に入っていた道灌であったが、突然襲いかかってきた定正の家臣曽我兵庫に斬り殺された。その瞬間まで、この名将には何故自分が殺されねばならなかったのか理解できなかっただろう。ただ一言、

「当方滅亡!」

と叫んで事切れた。享年五十五歳。道灌にしてみれば先君に対するのと変わらぬ忠誠心で定正に仕えていたつもりだった。その自分を殺してしまうようでは、当方(扇谷上杉家)の命運が終わったようなものだと無念の思いであっただろう。

それは山内上杉家の目論見通り、扇谷上杉家の勢力を殺(そ)ぐ結果となった。しかし同時に、一人の男を表舞台へと立たせるきっかけとなった。五年後(または七年後の説もあり)、一人の男が乱れていた伊豆を掠め盗り関東へ進出する機会を窺うことになる。男の名は北条早雲。かつて道灌と一度きり駿府で出会った伊勢新九郎長氏の後の姿であった。


補足事項

古河公方:室町幕府の開祖足利尊氏は、元々鎌倉に再び幕府を作るつもりでいた。しかし当時対立していた南朝方がしばしば京に攻め上ってきて政情が不安なため、京の室町に御所を構える結果となった。とはいえ、源氏の血をひく足利氏にとって関東は特別な土地であったため、将軍家の名代ともいうべき存在を派遣することにした。それが鎌倉公方(関東公方ともいう)である。本来は将軍家の代理人に過ぎない鎌倉公方の勢力を拡大しようとして自滅したのが四代足利持氏(1398〜1439)で、彼が当時の六代将軍義教(よしのり・1394〜1441)に攻め殺されたことがその後の関東の政情に暗い影を落とすこととなる。

その後持氏の四男成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任するも、幕府に父親や兄弟を殺されたことを恨みに思っていた彼は徐々に中央に対して反抗的な態度を示すようになる。これに業を煮やした八代将軍義政(義教の次男)は両上杉や今川氏に命じて鎌倉を攻撃させた。こらえ切れなくなった成氏は、下総(現在の千葉県北部)古河まで逃れて古河公方を自称するようになった。かくして幕府と完全に対立した古河公方は、北条氏康(早雲の孫)に滅ぼされるまで関東争乱の火種となった。



堀越公方:成氏を鎌倉から追放したものの、依然として古河公方を僭称するさまに将軍義政は、弟・政知を新しい鎌倉公方として派遣することにした。しかし一旦は敗れたとはいえ、成氏側は宇都宮、佐竹、結城、里見など東関東の諸大名を味方に引き入れしばしば鎌倉奪還のため攻め上ってきた。

自分がこれから赴く鎌倉はいかに危険な場所かということに、政知は恐ろしくなり伊豆の堀越にて成氏勢が退散するのを待っていた。結局臆病風に吹かれた政知は、なにも鎌倉にこだわる必要はあるまいと判断し、堀越に御所を築きここから両上杉に命じて古河公方を僭称する成氏討伐を命じた。

以後政知は堀越公方と呼ばれるようになるが、その政治的影響力はむしろ関東よりも伊豆一国だけに集約されていた感がある。事実、政知の死後早雲が堀越公方を滅亡させ伊豆一国を支配下に置いても、両上杉はまったく動かなかった。むしろ、山内上杉家と対立していた扇谷上杉家が裏で手引きをしていたという説もある。二代目公方となった茶々丸の評判の悪さを差し引いても、伊豆奪取が早雲単独の戦略ではないことは、当時の両上杉氏の勢力争いからも明白といえる。



両上杉氏の関係:足利将軍家の譜代である上杉氏は(尊氏の生母が上杉の出だった)、元々犬懸(いぬかけ)、宅間、扇谷、山内と四家が一族を成していた。しかし、宅間、犬懸と二家が一家断絶、あるいは謀叛を起こして自滅すると、山内、扇谷の両家が鎌倉公方を補佐する形となった。その後、持氏、成氏と歴代の鎌倉公方が将軍家から独立した一大勢力になろうとすると、幕命によりこれを討伐あるいは追放し堀越公方を補佐していく。

中でも扇谷は、家宰の太田道灌の活躍によって古河公方陣営を敗退させ関東での威名を挙げた。山内の当主顕定(あきさだ)にしてみれば、自分よりも家格が低い扇谷が賞賛されるのは屈辱と感じたのであろう。定正をそそのかして道灌を謀殺させ、見事に扇谷の評判や勢力を落とすことに成功する。が、顕定のこの工作は二十年以上にわたる両家の不和と対立を生んだだけでなく、当時今川家の一家臣に過ぎなかった北条早雲をして関東へと版図を広げさせるきっかけとなってしまった。

 慶長3(1598)年8月18日、時の天下人豊臣秀吉は幼い我が子の行く末を案じながら息を引き取った。享年62歳。それから僅か二年後に関ヶ原の合戦が起きたのは、当時の豊臣政権の不安定さとそれにつけ込んだ家康の抜け目のなさにあった。秀吉の遺児秀頼とその生母淀の方を担いでいた石田三成ら(いわゆる文治派)と官僚三成の行動を専横と憎悪していた加藤清正、黒田長政ら(いわゆる武断派)の対立が、家康をしてつけいる隙を与えていた。

 このままでは豊臣家は家康に乗っ取られてしまう。武断派との勢力争いに敗れ一度は蟄居(ちっきょ)の身となった三成は、家康が上杉征伐と称して秀忠と共に七万以上の軍勢を率いて上杉領の会津を目指した隙に反家康の挙兵をした。盟友大谷吉継や秀頼の後見人の一人毛利輝元らを説き伏せた末でのものだった。

 三成起つ!この急報に家康がほくそ笑んだのはいうまでもない。かつて秀吉がそうしたように、彼が豊臣家から天下を奪い取るにはそれなりの大義名分が必要だった。三成が秀頼の幼いのをいいことに豊臣家を私(わたくし)しようとしている。今回の挙兵こそ三成が不義不忠の臣であるなによりの証拠と断じ、加藤清正、福島正則といった故・秀吉子飼いの臣であった者たちを手なずけ、一転三成討伐のための私兵へと彼らを駆り立てた。

 大坂の変事に行動を起こしたのは家康だけではなかった。豊前(現在の福岡県東北部と大分県北部)中津で隠居の身となっていた黒田如水も絶好の好機がきたと早速動いた。何年も前から吝嗇(りんしょく)して貯めた金銀米穀をこの時とばかりに放出して九州中の牢人を募って軍勢を整えた。

 天下を賭けた大合戦だから一月や二月では片はつくまい。そう読んでいた如水は、両者が死闘を繰り広げている間に九州全土を制圧するつもりでいた。約三千五百の兵でもってまず隣国の豊後(現在の大分県大半)を攻めた。十もの大名がひしめいている小勢力の地域だけにすぐに治められるかに見えたが、毛利氏の力を借りた大友義統(よしむね・豊後の前の国主)が上陸すると三千の兵を擁して如水の軍勢と睨み合った。六日にわたる攻防の末、助命と引き換えに義統は降伏した。慶長5年9月15日のことだった。

 九州制圧の土台となる豊後一国を掌中に収めた如水はこの機に恩を売っておこうと家康へ書状を送った。どちらが勝つにせよ、いずれは中央で覇権を握った者と雌雄を決しよう。気宇壮大な気概さえ抱いていた如水だったが、間もなくその思惑は打ち砕かれることになる。既に中央の合戦は家康を総大将とする東軍が劇的な勝利を収めていた後だった。僅か半日の決戦、皮肉にも如水が豊後を制圧した同じ9月15日の出来事だった。

 掴みかけていた天下への権利が幻となった時、如水は己の運のなさにため息をついたのだろうか。ただはっきりしているのはかつての名軍師は加藤・立花・鍋島氏と連合軍を組み、二ヶ月にわたって九州全土を圧して最終的には薩摩の島津氏を追い詰めるほどまでに暴れまわったということだ。

 もしも天下の趨勢が決まってなかったなら今頃は。そんな夢想が如水の胸中に渦巻いていたとしても不思議ではない。更に如水を苛立たせたのは、息子長政からの書状だった。家康を勝たせるために、自分は小早川秀秋に西軍を裏切るように促してその通りになった。自慢げな文面に、いくら歳が若くて思慮が足りないとはいえ家康に易々と天下を取らせるとは馬鹿な奴だと舌打ちした。

 父親の失望など露知らぬ長政は意気揚々と国許へ戻り戦勝報告をした。合戦の後家康殿は私の右手を三度取り、貴殿のお陰でこの度の合戦は勝ったようなものと感謝されました。嬉々として語り続ける息子に対し、如水は冷水を浴びせるような一言を口にしただけだった。

 「それならば、お前の左手はその時何をしておったのか」

 暗に、何故家康を刺し殺すくらいのことをしなかったのだと皮肉ったのかもしれない。家康も恐らく如水が自分のために働いてくれたとは思ってなかっただろう。長政にこそ三十四万石を加増して五十二万石を与えたが、大坂城に出向いた如水には労いの言葉をかけただけだという。

 自分の出番はもうこの先ない。家康に平伏しながら如水は苦い想いを噛み締めたことだろう。再び隠退した如水は晩年家臣を痛烈に罵倒する偏屈さで敬遠されるようになり(一説には、家臣の殉死を未然に防ぐための如水の計算ともいわれている)、慶長9(1604)年キリシタンとして静かにその生を終えた。享年59歳。
 

 戦国武将にとって有能な軍師は必要不可欠な存在といえる。特に秀吉のように裸一貫でのし上がってきた人間にとっては、喉から手が出るほど欲しい人材だった。彼に幸いしたのは、竹中半兵衛重治、黒田官兵衛孝高(よしたか)といった者たちを主人信長に貰い受ける形で傘下に入れられたことだ。半兵衛は病のためその後他界してしまったが、官兵衛はその後も秀吉の右腕として活躍していく。

 信長の命で秀吉たちが中国攻めをしてから数年後の天正10(1582)年、天下を揺るがす変事が起きた。6月2日未明、京都本能寺にて織田信長が家臣明智光秀によって不意討ちを食らって死んだ。享年49歳。取って代わった光秀は、縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子、大和(現在の奈良県)の武将筒井順慶などに味方をしてくれるよう頼んだ。光秀は更に、亡き信長と敵対関係にあった中国地方の大大名毛利氏に書簡を送って手を結ぼうとした。

 秀吉の強運は光秀の使者が雨でさまよい捕らえられたことだ。光秀の密書によって変事を知った秀吉は当然ながら愕然とした。が、傍らにいた官兵衛はすかさず、

 「これこそ殿にとって一世一代の好機でありますぞっ!」

 光秀を倒せばこれに代わって天下の主導権を握れるということを思わず口にしてしまったのだ。もちろんこの言葉の真意を瞬時に悟った秀吉は、誤解を与えるような発言をするなと官兵衛を叱責した。すぐに毛利氏と和睦した秀吉は僅か三日で京へ向かって引き返し、山崎の合戦で光秀を敗死させる。その後信長の孫三法師の後見人となった秀吉は、四国、九州、小田原を次々と攻略して天下人への階段を駆け上った。

 姓も羽柴から朝廷に豊臣の名乗りを許された秀吉は関白となり、まさに人臣位を極めた感があった。我が世の春を謳歌していた秀吉は、ある時たわむれに自分が亡き後これに取って代わるのは誰だと思うと問いかけた。ある者は、小牧・長久手の合戦で秀吉と互角以上の戦いをした徳川家康の名を挙げ、またある者は故・信長から娘婿に迎えられるほどその才を愛された蒲生氏郷の名を挙げた。事実氏郷は、秀吉の命で伊勢(現在の三重県)松坂から陸奥九十二万石に転封された際、

 「どんなに大大名になれたといってもこのような田舎ではなんにもならない!都に近い松坂にいれば、いずれは天下を狙うこともできたものを」

 と嘆いたくらいだった。近臣たちの言葉に秀吉は何もわかっておらぬと冷笑しながら首を横に振り、

 「わしが死んだ後に天下を取る者がいたとしたら、官兵衛孝高以外にはおらぬわ」

 と吐き捨てたという。人伝にこの話を聞いた官兵衛は、未だに自分が秀吉に警戒されていることに慄然とした。折りしも朝鮮出兵の件で、当時秀吉の懐刀となっていた石田三成と対立したことで秀吉の怒りを買っていた官兵衛は、ここらが潮時と出家して如水円清(じょすいえんせい)と号して嫡男長政に家督を譲って隠居の身となる。以後秀吉が亡くなり関ヶ原の合戦が始まるまでの七年間、如水は雌伏の年月を過ごすこととなる。

兵庫へ向かうことを命じられた楠木正成は、同行させていた嫡子正行(まさつら)を説得して故郷の河内(現在の大阪府東部)へ帰らせたという。戦前、戦中までの日本人なら知らない者がいなかったいわゆる桜井の駅の別れである。が、当時の正行の年齢を従来通り十一か既に青年に達していた二十代になっていたかと考えるかで大きく異なってくる。

実際には正行は合戦に出ても恥ずかしくない年齢に達しており、桜井の駅の別れ自体創作ではと見るむきもある。とはいえ、負け戦を覚悟していた正成が、後の事を正行に託して軍に加わらせなかった可能性は充分に高い。

 湊川にて新田義貞の軍と合流した正成は、尊氏を仕留め切れなかった自分を恥じていた義貞を慰めて酒を酌み交わしたと「太平記」は記している。翌5月25日、瀬戸内の水軍をも味方に引き入れた足利の軍勢が和田岬へ上陸しようと迫ってきた。正成最期の戦いとなった湊川の合戦の始まりである。

 この後義貞は、敵方の陽動作戦に引っかかり軍勢を分断させてしまうという致命的なミスを犯し楠木勢を孤軍にしてしまった。後醍醐天皇の命で尊氏追討のため鎌倉へ向かいながら箱根で返り討ちにあったり、九州で勢いを盛り返そうとしていた尊氏追討の際に、尊氏に寝返っていた赤松円心に激怒してこれを討とうとして時間稼ぎをされて戦機を逸するなど、義貞の戦略眼のなさは正成の苛立ちだけでなく朝廷側の泣き所といえた。

「太平記」はその後、義貞は勇猛果敢に足利勢と戦ったと弁護しているが、一個人の武勇だけでどうにかなるほど戦というのは甘くはない。

 むしろ悲壮といえたのは楠木勢であった。僅か七百の手勢しか従えていなかった正成は、十数万はいると思われる足利勢を相手に三刻(六時間)余りも死闘を続けたという。

一時は尊氏の弟直義(ただよし)の命が危うくなったほどで、もしもこの時直義が討ち死にしていたら尊氏は室町幕府を開くことが叶わなかったかもしれない。これは、武将としては尊氏が、政治家としては直義にその天分ともいうべき才があったためで、後の室町幕府が安定政権になり得なかったのは兄弟不仲となった結果尊氏が直義を毒殺したためである。というのは、あくまでも余談。

 勝敗は既に明らかだった。十分の一の七十余騎にまで減った楠木勢は、追撃をかわしてどうにか近くの民家へと身を落ち着けた。正成以下、全員が十ヶ所あるいは五ヶ所以上の傷を負っており、もはや思い残すことはないとばかりに正成は弟正季(まさすえ)と刺し違えることにした。その時の会話が以下のものだという。

 “「人が死ぬ時の一念によって、その人の後世がきまると言うが、今そなたは何を願うか。」

 と問うたところ、正季は大声で笑いながら、

「七度まで人間に生れ出て、朝敵(尊氏のこと)を滅したいと思う。」

 と答えた。正成は嬉しげに、

 「まことに罪深い悪念だが、私も同じである。さあ、同じように生をかえてこの念願を達成しよう。」

 と約し、兄弟刺し違えて死んだ。“

 (「新訳 太平記を読む 第二巻」 安井久善=訳 おうふう P239より)

 楠木一党の結束は強く、全員が自害した可能性が高いためこのエピソード自体「太平記」の創作ではとも疑われる。いずれにせよ、正成や新田義貞、後醍醐天皇没後に書かれたとされる「太平記」はその後広く読み継がれ(北条早雲の愛読書だったともいわれている)、江戸時代には文字の読めない庶民のために、太平記読みという者たちまで出たほどだった。

 水戸光圀(ご存じ、水戸黄門)に至っては、正成を天下の大忠臣と絶賛し湊川に顕彰碑まで建立させた。光圀から始まった天皇家こそ日本の統治者だとする水戸史学は、後に明治以降の政府に受け継がれ悪名名高い皇国史観にまで発展する。

 正季が言ったとされる「七度生れ変わって・・・」も、いつの間にか正成の言葉としてすり換えられ、“七生報国”という言葉の元に多くの日本人が太平洋戦争(1941−1945)で戦地に駆り出されるという悲劇を生んだ。正成にしてみれば、迷惑このうえない話といえよう。

 時の為政者というものは、いつの時代でも自分たちの都合のいいように歴史を解釈しそれを己が政策に利用するようだ。これは、その最も典型的な一例。
 

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