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			<title>歴史（とき）は流れゆくもの</title>
			<description>　過去、現在、さまざまな時代を生きた人たちについて考察するブログです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>歴史（とき）は流れゆくもの</title>
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			<description>　過去、現在、さまざまな時代を生きた人たちについて考察するブログです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu</link>
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		<item>
			<title>坂井泉水（１９６７－２００７）</title>
			<description>　　&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;交響曲「新世界より」などで有名なチェコの作曲家アントニン・ドヴォルザークが音楽学校の教師をしていた頃の話。ある日授業中に生徒たちに向かい、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「モーツァルトとはどんな存在であるか？」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　と問うた。偉大な先達をどう形容するか。誰もが戸惑う中、ドヴォルザークは生徒の一人に窓の外を見るように言った。どうか、と問われても澄み渡った青空が見えるだけで首を傾げるばかりだった。ドヴォルザークは教室中を見渡すようにこう告げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「覚えておきなさい。モーツァルトとは太陽そのものなのです」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今振り返ってみると、私にはＺＡＲＤの坂井泉水という人はまさに太陽そのものだったのではないかと思えてならない。さもなければ、テレビのＣＭで初めて聴いた「揺れる想い」の脳天を打ち砕かれたような衝撃を説明することができない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼女がデビューして十数年も経った頃、ある週刊誌で評論家がＯＬ好みの毒にも薬にもならない歌ばかり歌っていると評したことがあった。片腹痛いとしかいいようがない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私個人の見方で恐縮だが、太陽という周りを照らし続ける大きな存在に対して、一個人が何やかやと文句をつけること自体滑稽にしか映らないのだ。もっとも山口百惠を菩薩と評した文芸評論家もいたことだし、私の欲目も容赦していただくとしよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　坂井泉水という人がメロディーに、自分の仕事にストイックだったという話は生前彼女と親しかった大黒摩季の談話で読んだことがある。が、先日ある週刊誌で彼女と仕事をしていた方の話にまさに息を呑む思いだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何十回となくレコーディングを繰り返すのはざらで、特に「息もできない」（これも私のお気に入りの一曲だが）では三十数回も納得するまでこなしたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無論プロだから努力するのは当然だし、なおかつ結果も出さなければいけない。彼女は当たり前ともいうべき基本を忠実にかつ愚直なまでに守り通して王道を歩んだ。人見知りするほどの繊細な面を持つ一方、仕事に対しては一切の妥協を排した芯の強さ。モーツァルトのようなまばゆいばかりの明るさと、ベートヴェンのように一度決めたら初志貫徹する力強さ、それらがすべてＺＡＲＤの坂井泉水の人柄と歌に集約されているのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　だからこそ思う。そんな彼女が自ら命を絶つはずがない、と。私の中ではこれは確信といっていい。切なさの中にも生きていくことの喜びを朗々と歌い上げてきた人が、癌にかかったからといって自ら死を選ぶのか。デビューしてからの数年を除いて、テレビを筆頭にすべてのメディアからの露出を極力控えてきたこと、そして不可解にも見える最期が憶測を生んだのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　恐らくこの先も、多くの人がその死の原因について言及するかもしれないが、私はそんなものには一切興味がない。すべては坂井泉水という、稀有な才能を持ったアーティストが遺した数多くの楽曲にすべて刻印されているだろうから。享年４０歳。&lt;/font&gt;　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/55441148.html</link>
			<pubDate>Tue, 27 May 2008 19:27:19 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>手塚治虫（１９２８－８９）－不死鳥の如く－</title>
			<description>　&lt;font&gt;手塚が亡くなった際、マスコミの大半はヒューマニズムな作風という点と常に第一線で活躍していたということを強調して賛美の拍手を惜しまなかった。しかしこれは、あまりにも表面的な見方でしかない。まずはヒューマニズムというのは、手塚にとっては表現のための一つの手段でしかなかったということだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
手塚ヒューマニズムの代名詞の如く語られる『鉄腕アトム』にしても、本人は後に最大の駄作と断じたし（手塚特有の照れ隠しもあっただろうが）、その最期は壊れて野ざらしにされるという無惨なものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少なくとも彼の作品でヒューマニズムが絡む時、決してストレートではなくどこか屈折した光芒を放つ。誤解を恐れずに言えば、手塚作品の底辺に流れているヒューマニズムというものはガストン・ルルーの名作である戯曲『オペラ座の怪人』でファントムが口にするあの有名な言葉に象徴されているような気がする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「私はオペラ座の怪人、思いの外醜いだろう。だが、この化け物は地獄の業火に焼かれてもなお天国に憧れる」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　少なくとも十代の後半という極めて多感な時期に戦争という非日常的なこの世の地獄を見た手塚には、アメリカに押しつけられた民主主義やヒューマニズムは絶対的なものとして捉えられなかったのではないか。その点では、手塚が常に意識し自分と共通点が多いと振り返ったとされる作家の三島由紀夫と似通う点があったのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第二に、常に漫画界の第一線をリードしていたという指摘は、手塚が聞いたら調子のいい事を言うなと声を荒げたかもしれない。少なくとも１９６０年代から台頭してきた劇画の出現によって、漫画家としての彼のテリトリーは大いに脅かされた。１９６６年から７１年にかけて週刊少年マガジンに連載されていた『巨人の星』に対して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「これのどこが面白いのか、（僕に）教えてください！」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　と泣かんばかりにアシスタントたちに尋ねたというのはあまりにも有名なエピソードだ（その手塚が後年、西武ライオンズのマスコットキャラクターを手がけたというのは皮肉ですらある）。『忍者武芸帖』や『カムイ伝・第一部』で当時の大学生や左翼系の知識人の心を鷲掴みにした白土三平が後に第一線から退くと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　“あれほどの男でさえ、今では釣り三昧の無聊（ぶりょう）をかこっている”などと言わないでいいことまで言ってしまっている。裏を返せば、それだけ手塚は劇画出身の漫画家たちに苦しめられたということだ。事実、劇画全盛期の頃の手塚は作品はもちろん年収的にもトップクラスとはいえぬところまで落ち込んでいた。しかしそれにもめげず、『どろろ』などに劇画的要素を取り入れることで、彼は状況を打破しようとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　つまずきはその直後に起きた。１９７３年３月に手塚が社長をしていたアニメーション会社虫プロが倒産し、多額の負債を抱えた手塚は名実共に過去の人として消え去ろうとしていた。同年の１１月、週刊少年チャンピオンにおいて一つの作品が連載された。作品の名は『ブラック・ジャック』。当時の編集長だった壁村耐三によると、手塚から企画を持ち込まれた際これを彼の漫画家人生における花道にしてやろうと決意したという。ところが案に相違して『ブラック・ジャック』が休載された直後、何故掲載されていないのかというファンからの投書が多数あったため、壁村はその意外な人気に驚き継続させることにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　“当時は、水島新司の『ドカベン』、山上たつひこの『がきデカ』、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』といった大ヒット作がきら星の如く同誌で連載していたため、必ずしもこれらに伍するほどの人気はなかったものの、この作品と週刊少年マガジンに連載した『三つ目が通る』によって手塚はどん底から這い上がり、再び人気漫画家の仲間入りを果たすこととなる。”（“”内の文章は、ウィキペディアの記事に編集を加えたもの）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはまさしく、手塚本人が理解できないと嘆いていた『巨人の星』の主人公・星飛雄馬のように、己が身を焼いて復活する不死鳥の如く遥かなる高みを目指して飛翔した瞬間だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　※この続きは、来年２００９年の同日に完結篇を配信します。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/53738061.html</link>
			<pubDate>Sat, 09 Feb 2008 20:27:00 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>　第九回：天下布武</title>
			<description>　&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;一体、何様のつもりだ。　光秀の進言を聞かされる度、義景はうっとおしく感じていた。先代孝景の頃ならいざ知らず、この時点での朝倉家はもはや世襲制が当たり前の家柄となっていた。安定の行き着く先には、身内や勝手知った家臣団で固め尽くした政権となっていく。少なくとも、越前一国を守るためだけならそれ以上のものを求める必要はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでも光秀が浪人の身から家臣に加えられたのは、その血筋も影響していよう。梟雄斎藤道三に滅ぼされた美濃の守護土岐氏。明智は、その土岐氏と血縁関係にあった。名族である。土岐氏滅亡後、明智は他の旧土岐氏家臣団同様道三に忠誠を誓った。が、道三が嫡男義龍との戦で敗れて死ぬと、光秀は美濃を出て浪々の身となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名族の血筋を引く者であればこそ、家臣に加えてやったのだ。義景にしてみれば、それで恩を与えてやったつもりでいるから始末が悪い。光秀にしてみれば、家臣として当然の進言をしたつもりでいる。そのしたり顔が、義景にはますます気に入らない。加えて他の家臣たちが、あの者はでしゃばり過ぎますとしばしば告げ口をする。こうなってしまえば、両者の溝は深まりこそすれ縮まることはない。光秀は次第に遠ざけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義景のあいまいな態度、光秀からの思わしくない報告を聞き義秋は苦悩で頭をかきむしった。あの者は動いてくれない。何故、この義秋を助けてくれようとはしない。越後の上杉氏、甲斐の武田氏に比べれば、越前は京からグッと近い。ましてや隣国北近江の浅井（あざい）氏は父祖以来の友好関係がある。義景さえ望めば、京への道は半ば開けたも同然だった。だが、動かない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼るべき相手を間違えた。さすがに口にこそ出さないが、義秋と光秀は同じ思いを抱いた。空しく時を過ごすうちに、中央の覇権はほぼ松永久秀によって掌握されていった。最悪である。兄義輝を殺したあの者が睨みをきかせている限り、義秋が将軍になる日は永久に来ない。いや、命すら危うくなる。上杉も武田も容易に動いてくれない。打つ手はない、か。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「いや、一つだけ……ございます」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
畏れながら、と平伏したまま光秀は進言した。朝倉が駄目なら、他の大名を頼ればよいのでございます。そう口にした瞬間、光秀は主君義景を見限った。誰が、誰がおるのじゃ。勢い込んで尋ねる義秋に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「されば、尾張の織田信長殿に白羽の矢をたててみてはと……」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
思えば紙一重であった。従兄弟の義栄が将軍になった半年前の永禄十（１５６７）年八月、信長は念願の美濃攻略を成功させていた。間もなくこの野心家は、“天下布武”の印を作らせてその気概を示した。義景が持たない大望を、この男ははっきりと意思表示している。利用せぬ手はない。数日後、密命を帯びた光秀は美濃へと向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　次回、「その男、大野心家につき」に続く。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/53232998.html</link>
			<pubDate>Wed, 09 Jan 2008 21:33:32 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>年頭のあいさつに代えて</title>
			<description>&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;皆様お久しぶりです。遅ればせながら明けましておめでとうございます。去年の後半、公私共に忙しかったためブログの更新ができなかったことをお詫びします。これからは極力更新を怠るまいとは思いますが、歴史小説の文学賞に挑戦するなどまた忙しくなるのは必定となっていきます。一応このブログは長いスパンで継続していこうと思っていますので、どうかこれからもよろしくお願いします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、私が発行している携帯用メルマガを紹介しますので良ければ覗いてみてください。なお、登録はＰＣからも可能です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『歴史の言霊』&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
　&lt;a HREF=&quot;http://merumo.ne.jp/i/00034472.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://merumo.ne.jp/i/00034472.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;こちらでは現在、歴史小説『尊氏謀叛―江戸版太平記－』を連載中です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『日本史三十六景』&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;http://merumo.ne.jp/i/00504174.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://merumo.ne.jp/i/00504174.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;こちらは去年の八月に始めたばかりのマガで、戦国時代に活躍した人物を取り上げています。今月十五日に“上杉謙信篇”をスタートさせますのでよろしかったら読んでみてください。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/53232618.html</link>
			<pubDate>Wed, 09 Jan 2008 21:14:00 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第八回：光秀との出会い</title>
			<description>&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;久秀と三好三人衆が中央の覇権を巡って争っていた頃、足利義秋は越前の地で無聊をかこっていた。彼を迎え入れた越前の国主朝倉義景は、たしかに下にも置かぬ待遇で接してはくれた。しかし、大いに不満である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　左馬頭従五位下の官位を朝廷から得たのをきっかけに、将軍になるという決意表明をしている。だからこそ、義秋はよく動いた。無論実際の行動には限りがあるので、全国の有力な大名に書簡を送りまくった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　武田信玄、上杉輝虎（後の謙信）、果ては中国地方を制圧した毛利元就など、強大な軍事力を背景とした大名を、義秋は必死にかき口説いた。特に輝虎に対しての想いは並々ならぬものがあった。兄・義輝の要請に応えて何度となく上洛したほど忠誠心の厚い人物。北国の名将をそう信頼し切っていた彼としては、武田・北条両氏と和睦して彼らと共に上洛を目指してほしい。実力、幕府への忠誠心共に絶大といえる輝虎をなんとしても味方につけたい義秋ではあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　とはいえ、越後はやはり遠い。北条氏とは同盟を結んだものの、武田信玄との確執は輝虎としては一歩も譲れなかった。誇り高い輝虎から頭を下げてまで手を結ぶということはまず考えられない。信玄にしても、何故こちらからという気持ちは同じだ。両氏が和解をするのは、実に信玄が没してからのこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　義秋とて、身を寄せた朝倉義景が頼りになる相手であったならこんな苦労もしなかった。何度となく上洛を促したが、この越前の国主は容易に腰を上げようとはしない。義景は義景で、彼なりの言い分はあった。隣国加賀（現在の石川県南部）の一向宗徒の動向が気がかりだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　加賀の一向宗徒。天正十（１５８２）年に信長に全滅させられるまで一国を支配していたこの宗教集団の勢いは越前の地さえもおびやかしていた。仏のために死ねば極楽浄土へ行けるという思想を背景にした彼らは、戦国大名との戦いにおいてもひるむことなく立ち向かった。信長でさえ、彼らを滅ぼし尽くすのに十年の歳月を費やした。義景が手を焼くのも道理であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　義秋は、義景と一向宗徒を和睦させた。それでもなお、義景は動こうとしない。名将の誉れが高かった父・孝景と違い、この武将には上洛をして天下に号令をかけるだけの気概も野心もまるでない。あるのは自分の国だけを守り、平穏無事に暮らしたいという戦国武将らしくない思いだけだ。義秋の不満は募るばかりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　同じように、義景の優柔不断に苛立ちを感じていた男がいた。彼の名は明智光秀。浪人の身から朝倉氏の家臣に登用されたものの、世襲制でガッチリ固められた家臣団の中では充分に力を振るえず不遇をかこっていた。この光秀が義秋に忠誠を誓い、何度となく義景に上洛を進言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　次回、「天下布武」に続く。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/51553094.html</link>
			<pubDate>Wed, 26 Sep 2007 15:12:33 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>第七回：大仏焼失</title>
			<description>&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;亡き義輝の従兄弟、義栄が将軍になるには更に月日を要した。他国へ逃れた覚慶こと、義秋が自分こそ将軍になるべき人物だと宣言したためもある。いずれにしろ、彼を押し立てていった松永久秀は邪魔者を始末しなかった。始末しようにも、身動きが取れなかったためだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前将軍弑逆（しいぎゃく）の共犯者である三好三人衆が、はっきりと牙をむいてきたからだ。そもそも彼らにしてみれば気に食わないことだらけだ。主殺しという天下の大罪を行うよう仕組んでおきながら、自分は居城でのんびり茶など飲みくさっている。それだけでも腹立だしいのに、いつの間にか対等それどころか主面して命令をしてくる。本来の主家は三好一族のほうだ。それを一体何を偉そうに。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  一番頭にきたのは、将軍選びだった。義栄を推すのはまだいい。だが、何故久秀ごときがしゃしゃり出る。日を追うごとに両者の溝は深まり、ついには断交にまで至る。彼らの対立がはっきりしてきたことで、一つの決意表明をしてきた者もある。故・三好長慶の養子義継だった。義継にしてみれば、久秀についていたほうが何かと有利と思ったらしい。担ぐべき御輿にまで逃げられては、三好三人衆の立つ瀬がない。大和（現在の奈良県）にある久秀の諸城を次々と攻め落とし、久秀を始末しようと躍起になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  こうなってしまえば久秀のほうも遠慮がない。大和を舞台とした戦雲はいよいよきな臭くなる。一方、三好三人衆は東大寺において陣を構えた。思い切ったことをした、といえる。いくら久秀が悪逆非道の男であっても、寺領仏閣まで攻撃はできまい。逆にいえばそれは、三人衆がいかに久秀を恐れていたか明らかにしたといっていい。とはいえ、どうしようもあるまい。仏罰を恐れる家来や身内たちは、分が悪いと言わんばかりに久秀を顧みた。この時口にされた一言で、久秀の悪名は歴史上不動のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  「かまわぬ。東大寺に火を放て」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  誰もが腰を抜かした。まさか、これほどまでに恐ろしき人であったかと。松永軍は、東大寺を急襲した。驚いたのは三好三人衆だ。久秀め、気が触れたのか！？そう思わずにいられないほど、この攻撃は意外であり信じ難かった。折しも強風にあおられて火災は大仏殿にまで及び、大仏の首は焼け落ちてしまった。三人衆は命からがら逃げ落ちた。一時は久秀に取って代わった彼らは、以後ついに浮かび上がることはなかった。そして後に上洛した信長によって完全に息の根を止められてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  時に永禄十（１５６７）年十月、この日を境に中央の政権は久秀によって掌握されていった。これより数ヶ月後の翌永禄十一年二月、三好三人衆に担がれて阿波（現在の徳島県）へと逃れた義栄はこの地で十四代将軍に就任する。いつの日か、京へ戻れることを思い描きながら。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  だが、この頃から時代は確実に久秀たちの思惑を超えた方向へと動き始めていった。同じ頃、義秋は越前の地で彼の生涯を左右する人物と巡り会っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
      次回、「「光秀との出会い」に続く。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/51495125.html</link>
			<pubDate>Sun, 23 Sep 2007 10:22:23 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>第六回：逃亡、逃亡、また逃亡</title>
			<description>&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;将軍義輝をまんまと葬り去った久秀は、その従兄弟義栄を後釜に据えた。義栄は前から将軍になりたくてたまらず、傀儡（かいらい）であろうが構わなかった。自分の意のままに動く人物であれば誰でも良い久秀にしてみれば、まさに渡りに舟といえた。かくして翌永禄十一（１５６６）年二月に、十四代将軍は誕生した。もっともその間、いくつかのいざこざはあった。一つは三好三人衆との決定的な対立で、これについては後でまた詳しく述べる。もう一つは、残された義輝の二人の弟たちについてだ。二人とも、既に出家していた。いずれも院の院主として、俗世間とは無縁の一生を終える、はずだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  まずは末弟の周（しゅうこう）、弱冠十七歳の彼は殺された。義輝とは一つ違いの覚慶は幽閉された。何故一方は命を奪われ、もう一方は生かされたのか？ここには、久秀のしたたかな計算が働いていた気がする。少なくともこの時点では、次の将軍を誰にするかということは決まっていなかった。久秀と三好三人衆が互いに縁を切ることになったのも、その点の主導権争いからきている。久秀にしてみれば、操り人形は誰でもよかった。その前に、相手にはっきりと教えておく必要があった。誰が本当の主人であるかを。周は、久秀のそんな冷酷な思惑で殺されたといっていい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  覚慶は震え上がった。そこまでは久秀の読み通りだった。同時に覚慶は思った。自分が生き永らえるには、久秀の顔色を窺い続けるしかない。だが、それもこちらにまだ利用価値がある時までだ。必要がなくなったら殺される。兄や弟の二の舞になどなりたくはない。兄の近臣であった細川藤孝らの協力を得ると、覚慶はただちに幽閉先の奈良を脱出した。奈良から伊賀を経て、ひとまず覚慶は近江甲賀群の地侍和田伊賀守惟政の城に転がり込んだ。後に、信長に宣教師ルイス・フロイスを紹介した惟政は、覚慶を快く迎え入れた。さて、無論身の安全を図るためだけに逃げのびた覚慶ではない。兄が死んだ今、自分こそが新しい将軍になるべき存在という自負があった。それは彼の独りよがりではなく、幕臣の中にも義栄ではなく覚慶をという声は事実あった。同時に彼は、兄にも優るとも劣らぬ将軍としての想いが渦巻いている。力の強い部下の操り人形ではない、真の実力を持った将軍になりたいという自負が。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  翌年二月、覚慶は還俗し名を義秋と改める。数年後、室町幕府最後の将軍となる足利義昭の前身であった。かくして足利家の当主たらんということを宣言した義秋は、近江矢島、若狭（現在の福井県南西部）、やがて越前（現在の福井県東部）の朝倉義景の元へ身を寄せる。高々と名乗ったものの、今の義秋にはすぐに上洛して将軍になれるだけの力などなかった。彼には、その後ろ盾となってくれる大名がどうしても必要だった。義秋の流浪と忍従の日々はもうしばらく続く。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
    次回、「大仏焼失」に続く。次回は、今週土曜日に配信予定です。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/51407157.html</link>
			<pubDate>Tue, 18 Sep 2007 10:51:20 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>第五回：二条御所の惨劇・後編</title>
			<description>&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;後年のこと。信長が五万の軍勢を率いて上洛した際、真っ先に降服したのが他ならぬ松永弾正久秀だった。機を見るに敏という点では、どこまでもしたたかであったといえる。残虐さ、ということにかけては日本史上類を見ないといっていいほどの信長であったが、その彼をして、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  「この者、誰もが恐れる天下の大罪を三つも行った男だ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  と言わしめたのが久秀という男である。信長は、自分と同じ匂いをさせたこの老人にあるいは嫉妬していたのかもしれない。それはともかく―。久秀はついに、義輝殺害の行動を起こした。この男の大胆さは、軍勢をそのまま夜襲に用いなかったことである。一献差し上げたい。その一言で義輝を油断させ、二条御所へとこの若き将軍を留めさせた。永禄八（１５６５）年五月十九日辰の刻（午前八時。巳の刻＜午前十時＞の説もある）、三好義継を総大将とした三好・松永軍は二条御所へと襲いかかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  「しまった！」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  義輝は己の甘さを悔やんだがもう遅い。近臣は一刻も早く逃れて再起をと勧めた。が、密謀を重ねた上での久秀らの暴挙である。既に周りは、十重、二十重にも囲まれていて蟻の這い出る隙間もない。死のうと、義輝は覚悟した。とはいえ、ただでは死なぬ。近臣に命じて、庭のあちらこちらに幾十もの刀を突き立てさせた。一説には、義輝は剣の達人であったという。鹿島新当流の創始者である剣聖塚原卜伝から手ほどきを受けた彼は、どうせ死ぬなら敵の何人かでも道連れにしてやろうとしたのだ。やがて、戦いは開始された。一人斬っては刀を取り替え、また一人斬っては血のりでべっとりとした刀を投げ捨てていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代劇でやるように、本来日本刀は何十人となく人を斬り殺せるものではない。大概、一人か二人斬ってしまえば血のりで斬れ味は大幅に落ちる。だから当然、大勢を相手にするのであれば義輝や後の宮本武蔵のように幾十もの刀を事前に用意しておかなければ太刀打ちはできない。義輝は斬った、走った、叫んだ。久秀はどこにいる、久秀よ出て来い！せめて、あの憎い白髪首をはねてやらねば気がすまなかった。だが、ここに久秀はいない。息子の義久、弟の義重に軍の指揮を任せたこの梟雄は、己の拠点である信貴山城で義輝弑逆（しいぎゃく）の一報を悠々と待ち侘びていた。&lt;br /&gt;
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換えの刀がいよいよ底を尽いた。しまいに、相手の得物を奪い取って斬り伏せたが身体中にできた刀傷が、急速に義輝を疲れさせた。もはや、これまで……。そして正午、義輝は自ら命を絶った。享年三十歳。かくして信長をして天下の大罪と言わしめた将軍殺害を、久秀は白昼堂々とやってのけた。これより数年久秀の時代となり、情勢は急速に雪崩のように動いていく。&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
　　次回、「逃亡、逃亡、また逃亡」に続く。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/51184272.html</link>
			<pubDate>Thu, 06 Sep 2007 11:11:01 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>第四回：二条御所の惨劇・前編</title>
			<description>　　&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;三好長慶の死。義輝にとって一見朗報ともいえる出来事が、皮肉なことに彼の命を縮めるきっかけとなる。永禄七（１５６４）年、長慶は病身の上精神に異常をきたして寂しくこの世を去った。かつて直接の主細川晴元を、そして将軍義輝を追放し、京そして故郷の阿波（現在の徳島県）と畿内、四国にまたがって八カ国までを支配した男。長慶に先を見る目があったなら、この時点で室町幕府に見切りをつけて天下に自ら号令をかけていただろう。そうなればその後の歴史は、また違った展開もあり得た。天下を取っていたかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長慶の不幸は、それでもなお幕府を中心とした権威を絶対の価値観にしていたことだった。主晴元を、義輝を追い出したのも、彼らでは幕府を支え切れない。だったら、俺が代わりに幕府を守り切ってみせる。主君に逆らったということで何かと批判も多かった長慶だが、彼には彼なりの信念があった。たとえそれが、滅びゆく時代の価値観だとしても。&lt;br /&gt;
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　　松永久秀には信念など、なかった。主長慶に代わって、三好家の実権そのものを掌握していったこの男にあるのは、ギラギラした野心だけだった。いつか俺が、あんたに取って代わってやる。長慶が存命中の頃からそんな思いを胸に秘めていた久秀は、政治に嫌気がさした主君に全てを任せられると思いのままに振る舞った。長慶の実子義興、実弟十河一存、そして長慶が腹心として信頼していた安宅冬康などを、謀殺によって葬り去った（十河一存の場合、単なる落馬によるものだという説もある）。かくして三好一族を弱体化させた久秀は、主君が亡くなると待っていたかのように次の手を打った。義輝の殺害である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀にしてみれば、何一つできない飾りだけの将軍がことごとく逆らうのが気に入らなかった。考えてもみるがいい。長慶の支配力が衰えたのも、なまじ反抗する者を生かしておいたからだ。将軍だからといって、追い出すだけでは生ぬるい。&lt;br /&gt;
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　　「あの方を亡き者にすることこそが、お亡くなりになった父君への良き供養となりますぞ」&lt;br /&gt;
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　　残された長慶の子義継、長慶の親戚筋にあたる三好政康、同長逸（ながゆき）、岩成友通といった三好三人衆を前に、久秀は平然と言い放った。なんという恐ろしいことを。さすがに聴いていた者たちはゾッとした。しかし、新しい将軍を奉ずることが三好一族のためになり、ひいては幕府のためにもなる。詭弁としかいいようのない久秀の言葉に、欲で目の濁った者たちは心を動かされていった。この時交わされた密約を反故にされたのが原因であろう。後に久秀と三好三人衆は、醜い勢力争いで戦火を交えることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　騙した者、騙された者、立場の違いこそあったが彼らの目的は一致した。目指すは、将軍義輝のいる二条御所。軍勢が夜陰にまぎれて、確実に死への秒読みを打とうとしていた。&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
　　次回、「二条御所の惨劇・後編」&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/51021502.html</link>
			<pubDate>Tue, 28 Aug 2007 20:21:49 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>第三回：すれ違う思惑</title>
			<description>　 &lt;font size=&quot;4&quot;&gt;結論から言ってしまえば、景虎は義輝を助けることができなかった。まず、一回目の上洛の際には将軍家を助けるというより、朝廷に拝謁することが重要だった。前年に受けた官位への御礼などを兼ねてのものである。当然、連れていった手勢もほんの僅かで、千五百どころかほんの数十人の供を伴っただけではという説もある。仮に、義輝に泣きつかれたとしてもどうしようもないわけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　つけ加えて、永遠のライバルである武田信玄の存在があった。同天文二十二（１５５３）年九月に、川中島で初めて戦った信玄としては景虎がお忍びで上洛したと聞いて指をくわえて見てはいなかった。得意の謀略戦によって、景虎を快く思っていない連中を煽動した。国元で内輪揉めが起きたと聞きつけて、景虎は急いで越後へ帰るしかなかった。景虎こと後の謙信が、生前ついに信玄と和睦することがなかったのは、この手の謀略で何度となく痛めつけられた恨みのためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　さて二回目の上洛時のこと。この頃、義輝に代わって幕府の最高権力者となっていた三好長慶にも、ようやくその勢いに陰りが見られていた。前年の永禄六（１５５８）年、近江の六角義賢（よしかた）の軍事力を背景に義輝が上洛すると、これと和睦せざるを得なかった。一時は京を中心に畿内の大半をその勢力下に治めた長慶も、徐々に表舞台から退き始めようとしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ、この時点ではまだ長慶の存在は脅威であった。五千の軍勢をもって再度上洛した景虎ではあったものの、地の利は三好側にある。これに対するにはやはり数万の大軍が必要となる。もっともこの時期の景虎の力では一万数千が限度であったし、武田信玄という大敵を背後に残していたのでは五千を率いただけでも上出来といえた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　何より景虎自身が多少楽観視していた向きがあった。今でこそ、憎っくき信玄に邪魔をされているがいずれ彼奴めを退治した暁には、必ずや三好長慶らの首もはねてご覧に入れましょう。自分の軍勢に絶対の自信を持っている景虎は、何度となく胸を叩いてみせた。頼もしき奴と、義輝は思った。しかし同時に、もう少し急いでほしいともやきもきしていた。景虎自身が楽観的な物の考え方をしていたせいもあったろうが、越後という遠国にいる彼と、実際京にいる義輝とでは明らかに危機感に温度差があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　永禄四（１５６１）年、四度目の川中島の合戦で景虎（この時期、上杉政虎と改名）が信玄と痛み分けとなるともうじっとしていられなかった。己の一字を授けて輝虎と名乗らせたり、北条や武田と和睦するように勧めるなど、義輝はもう一度彼を上洛させようと必死になった。だが、輝虎は意地になって和睦などしようとしない。そうこうするうちに、三好長慶が他界した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　次回、「二条御所の惨劇・前編」&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/50864225.html</link>
			<pubDate>Mon, 20 Aug 2007 12:43:29 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
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