杢柾庵便り

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お江戸物語

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秋葉原

今や世界に名をはせる秋葉原。
日本のサブカルチャーの発信地ですが秋葉原が秋葉神社(あきばじんじゃ)の杜だったことはあまり知られていません。

明治2年の神田相生町の大火をうけ 火災の頻発を憂慮した明治天皇は、皇居内の日除けの鎮火社を勧請しました。その時は単に鎮火社と呼ばれていたのでしたが、近くの住民達が鎮火社を秋葉様(あきばさま)と呼ぶようになったということです。
それというのも、神田付近では江戸時代から防火の神様として秋葉(あきば)神社の信仰があり 鎮火社を秋葉様になぞらえたからだそうです。

やがて鎮火社が設けられた火除地一帯を秋葉様の原っぱ 秋葉原(あきばっぱら)と呼ばれるようになったとか。

秋葉原(あきはばら)という読み方になったのは鉄道の駅名になったときから というのが一般的だそうですがくわしいことはわかりません。

明治21年鉄道駅をつくるために神社は台東区松が谷に移転されました。
よしのぶちゃん誘拐事件の現場になった入谷南公園のそばの秋葉神社がそれです。

ITなどハイテクの中心地が神社の境内だったなんてなんだか興味深いですね。

私の祖父は秋葉原のことをいつも あきばっぱら とよんでいたので恥ずかしかったと母はよくこぼしています。
下町にはいまだにそんなふうに呼ぶ人もいるのです。

うなぎ

 鬼平の少し前の時代は、ただ丸焼きにしたのに山椒味噌などをつけただけの調理法でしたが、まさに鬼平の時代に入って現代のような料理に進化しました。
 
鬼平犯科帳「泥鰌の和助始末」のなかに
「・・・・・・・近年、鰻を丸のままでなく、背開きして食べよいように切ったのへ串を打ち、これを蒸銅壷にならべて蒸し、油をぬいてやわらかくしたのを今度はタレをつけて焼き上げるという、手のこんだ料理になった。これをよい器へもってこぎれいに食べさせる。」
とあるなど 鬼平犯科帳のなかに鰻の記述は多いです。
文政期(1804〜1829年)には深川だけで22軒の鰻やさんがあったという記述があるほど人々に愛されたごちそうでした。
 
平賀源内は、知り合いの鰻やに商売繁盛の対策を頼まれ、「本日土曜丑の日」と書いた紙を貼るよう命じました。
丑の日はウのつくものを食べると夏バテしないといわれていたからです。
このキャッチコピーはみごと大成功となり 以来土曜の丑の日は鰻が大々的に食べられるようになったそうです。

箱膳

江戸時代には 今のように一つの食卓を皆が囲んで食事をすることはありませんでした。
一人ひとりが、お食い染めのときに贈られた、自分用の膳で食事をしていたのです。
その膳は嫁ぐときももってゆくのが普通でしたので、めいめいが異なったデザインの膳で食事をしていたのです。

膳には足のついた小さなテーブルのようなものや、箱膳といって中に食器が収納できるようになっているものなどがありました。

箱膳は主に庶民の間で多くつかわれたようです。
箱のふたをひっくり返すと膳になり、食べるときに中から食器をとりだし 食事が終わればまたもとにもどすという具合に大変便利で 時間の節約にもなりました。
特に忙しい合間にも食事が出来るので、商人達に重宝されました。

この箱膳は、禅寺の僧侶から始まりやがて 全国的に広まり鬼平の頃にはほとんどの農民や商人、町人達が使っていました。

お太鼓結び

江戸時代女性のファッションをリードしていたのは
おもに花魁と芸者さんたちでした。

錦絵や「よみうり」とよばれる今で言うタブロイド誌に登場する花魁や芸者さんが
身に着けていたものは、ファッションのいわばお手本であり、あこがれでした。
大棚のお嬢さんや奥さん達だけでなく庶民も着こなしの参考にしたそうです。

そんなファッションリーダーの深川の芸者さんの考えた着こなしのひとつは
現代の私達も使わせてもらっているものなんです。
なんだと思いますか?

着物の帯結びの定番「お太鼓結び」なんです。
江戸時代後半の文化14年(1817年)亀戸天神に太鼓橋が再建されたとき
深川の芸者衆が落成にちなんで「お太鼓結び」をしたのがきっかけだったんですって。

亀戸天神といえば受験の神様としても有名ですが
あの太鼓橋がお太鼓結びの元になったんです。

お太鼓結びにともない帯締めもそのときから着付けに欠かせないものとなったそうです。
ちなみにその頃のおびじめは「丸絎け」。
ほら、中に綿のはいっている帯締め だったそうです。
お太鼓結びが流行るにつれ帯締めもどんどん進化していったのです。

お歯黒

「魏志倭人伝」や「「古事記」にはすでにその記述があることから、日本の化粧史の中では
最も古くから親しまれたものといえるかもしれません。
 お歯黒といえば既婚女性の証として知られていますが、江戸の当時は妙齢にさしかかると
未婚の女性でもお歯黒をしました。黒は不変の色であることから、「貞女二夫にまみえず」の
意も込められていたようです。女性は結婚前夜に歯を染め、出産後に眉を剃りました。
 お歯黒が女性の間で定着したのは、歯槽膿漏や虫歯の予防に役立つと思われていたからだという
説もあります。お歯黒の原料「五倍子粉(ふしのこ)」は漆の一種でタンニンを含んでいました。
とても渋いのでつけた後は必ずうがいをしたそうです。
 明治3年華族に「お歯黒禁止令」が出され、明治6年、皇后陛下が率先してお歯黒を止めたのを
機に習慣は廃れ、今では時代劇でも目にすることはまれになりました。

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