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山口素堂と松尾芭蕉の俳諧

  素堂と芭蕉の俳諧

 二人のスタート

 既に素堂と芭蕉のおいたちについては多くの人の論及愛もあり省くとして、素堂は寛永十九年(1642)一月十四日の生まれ、芭蕉は正保元年(1644)で月日は不詳の二年遅れである。生地にしても、素堂は甲州教来石村山口と云うが、本人が青定した記述が無いし、その証拠も無い。この伝説の発祥は「甲斐国志」のみである。芭蕉も伊貿上野の赤坂町とされているが、これとても別説が有って確定しがたいが、少小より藤堂藩の士大将(伊賀上野支城詰)藤堂新七郎家に子小姓(給金)として召し出されて、寛文初年(1661)頃に新七郎家の後嗣良忠の近習(陪臣)に直されたとされる。(藤堂藩からすると陪臣、石取りか給金取りかは不明

 素堂も少小より林春斎の私塾に入って漢儒の学を学んだと云う(「甲斐国志」)が、「升堂記」によれば素堂が林家の門人として名が見えるのは、元禄六年のことである。素堂は、桜田家の甲州代官の一人野田氏の娘を嫁(元禄七年没)にした(素堂著「甲山記行」に記載。この記行には「甲斐は妻のふるさと」とある)。まだ山口信章と名乗っていた時代である。この信章が、いつ頃から俳諧を始めたのか定かでないが、寛文七年には貞門俳譜師伊勢の春陽軒加友編「伊勢踊」に出句した。その前書から読み取ると、素堂すでにかなり江戸の俳壇で名を占めていたようである。その後、貞門の石田未得の遺稿を息子の未啄がまとめ、寛文九年「一本草」として刊行したこの集に入集している。これからすると寛文年問の前半には、当時の江戸俳諧師の重鎮高島玄札や石田未得辺りから、手解きを受けたと考えられ、北村季吟との接触は仕官して以後のことと考えられる。(素堂の仕官先については、延宝六年の九州旅行の際唐津で春を迎え、(----二万の里唐津と申せ君が春----)と詠んでいるが、この句の持つ意味は大きい。この項については別述する。既に、京都の公家との繋がりについては、述べてあるし重複を避けたいが、仕官した事と関係があると考えられる。つまり、仕官先と二条家との間のお使い役をしていたのであろう。その関係から歌学を清水谷家^書を持明院家と習ったのであろうと考えられる。でないと延宝年間の致仕するまでに、定期的に江戸と京都を往来する意味が不明になる。

 芭蕉は幼名金作の時召出されて良精の嫡子良忠に仕え、寛文の始め頃に士分として出仕となり、宗房名を名乗る事になったようである。主入の良忠は寛文五年に「貞徳千三回忌追善」を主催したことから始めは松永貞徳(承応二年没)に手解きを受けたか、貞徳に近い門人に受けていたとされる。宗房こと芭蕉も勤仕者として随行して機会があれば指導を受けていたのであろう。寛文二年の歳暮吟が初出で、良忠は蝉吟の俳号を持っているところから、寛文四年以前に北村季吟の添削教授を受け始めたようだ。宗房は良忠の小姓役とされているが、本来の役職は台所用人と伝えられるから、当主良精の奥方役で賄い役であろうか、以外とお役時以外は関職で自由がきく役職である。(大きな家ともなればお毒味役なども、小姓の中から選抜されることもある)。寛文四年蝉吟と共に松江重頼の「佐代中山集」に入集している。この時期の重頼は良いパトロンをえるため、俳諧好きの大名・良家に出入りしていたから、重頼にも措導を受けていたかもしれない。

 寛文六年(1666)良忠が没し、通説では高野山に遣いをした後から同十二年まての所在が不明で、『遁世の志をいだき致仕を願うも許されず主家を出奔』の伝は疑問であり、武家社会において、出奔となれぱ武家の体面上の仕置きがある。主人が黙殺していたとしても、領内には一歩も踏入れないし、まして実家に立ち入ることも出来ない。江戸に出て家中の親類に身を寄せるなど、身分制度の厳しい時代の中では出来ない話である。高野山から復命してからは別の役を与えられ、伊賀と京都の問を往来していたのてあろう、また、この間に儒学・医術・神道や仏教.書道などを学んだと云うが、その証がみえない。さまざまな所見があるが、著者の論が先立っていて確証は得られない。

 芭蕉は漢文12年初頭、伊賀上野の天満宮に三十番発句合「貝おほひ」を奉納して、江戸に東下したらしい(辞職してかは不明)。江戸での寄寓先は今日でも論じられているが、駿河台の中坊家(藤堂家中)に身を寄せたと見るのが妥当であろう。この出府は俳諧師になるためではなく、就職が目的であった。そうでなくてはこの期の、江戸での消息が不明で有ることが埋められない、日本橋小田原町の仙風宅に寄宿した(「杉風秘話」)というのも、この期の事と考えられる。寛文十二年春に芭蕉は出府したが、その年の十二月には良忠の後を継いだ、弟の良重も若くして没し、良忠の遺子良長(後の探丸)が嫡立され、後見の良精も延宝二年(ニハ七四)五月に没した。これより先きの三月十七日附で、季吟の俳諧免許と云はれる連俳秘書「埋木」が授けられた、芭蕉が受けたものかは不明だが、「埋木」伝授の通知は良精を経由したものと考えられ、この時に呼び戻されて、職を免じられたと見るのが穏当である。

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