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素堂と芭蕉 その4

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素堂の俳論

 芭蕉も素堂も共に貞門俳諧を学んで出発Lた。っまり従来の俳欝は、すべて修辞上の滑稽によっていた。素堂が後年に「続の原季合」の抜文に「狂句久しくいはず」「若かりし頃狂句をこのみて」(「続虚栗序」)と云う如く、貞門・談林の風調時代を回顧して述べている如く、俳諧は滑稽.遊びと捉えていたと見られる。従つて自分の知識である古典文学、故事来歴・古典和歌・漢詩・漢籍などを駆使して作句した。いつ頃から自分の作句法を模索し始めたかは判らないが、季吟と会吟し、宗因との会吟の後ち談林風に吹かれて傾斜したが、信章時代の素堂と桃青時代の芭蕉との会吟では、談林風に引かれた芭蕉に合わせたものの、延宝五年頃から談林調に飽足らずと思い始めていたようである。素堂が『継承すべき伝統の発見と自覚』に目覚め始めたのは、俳号を信章から来雪に改めた頃」延宝六年辺りと考えられる。この年は三月に高野幽山が立机し、それを信章が後援したことに依るのであろう。
 延宝六・七年の九州長崎への旅行後に致仕して退隠し、翌八年来雪より素堂と改号、高野幽山の編「誹枕集」の序文に、自分の俳諧感を述べて、冒頭に諜枕とは「能因が枕をかってたはぷれの号とす」として、中国唐代の司馬遷の故事、李白・杜甫の旅、円位法師(西行)や宗祇・肖柏の「あさがほの庵.牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ、是皆此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅の遍歴を良しとして「されば一見の処々にて、うけしるしたることぜのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌.連歌.俳諧等の一貫した文芸性を指摘し「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の埋木花さかぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。つまり、後の影情の融合と情(こころ)の重要性を説いている。

 この後ち芭蕉(桃青)は前述の如く水吏の職を辞め、杉山杉風の計らいで深川に退隠してしまった。素堂の「漢詩にしろ和歌にしろ、すべての情は景情一敦である」との主張に接し、心が動いたのであろう。素堂は一派に属さずをモットーに、世の風潮に合わせて談林調や天和調と云う漢詩文調の句も盛んに作った。勿論漢学者であり詩人であるから得意でもある。素堂が天和調に火を付けたとか、指導的役割を果たしたと云う事はなかろう。寧ろ求めに応じて作ったと考えられる。

 此の談林調や派生した漢詩文調の句を紹介すると

〇延宝四年  発句  梅の風俳諧国に盛なり     信章    「江戸両吟」
〇延宝五年   々  鉾ありけり大日本の筆はじめ   々    「六百番発旬合」
           茶の花や利休が目にはよしの山  々    「々」
〇延宝六年   々  目には青葉山郭公初鰹      々    「江戸新道」
           遠目鑑我をおらせけり八重桜   々    「江戸広小路」
〇延宝七年   々  鮭の時宿は豆腐の雨夜哉    素堂(来雪) 「知足伝来書留」
        々  塔高し梢の秋の嵐より      々    「々」
○延宝八年   々  宿の春何もなきこそなにもあれ 素堂    「江戸弁慶」
        々  髭の雪連歌と討死なされしか   々    「誹枕」
        々  武蔵野や月宮殿の大広問     々    「々」
        々  蓬の実有功経て吉き亀もあり   々    「俳諧向之岡」
〇延宝九年   々  王子啼て三十日の月の明ぬらん  々    「東日記」
        々  宮殿炉女御更衣も猫の声     々    「々」
        々  秋訪はばよ詞はなくて江戸の隠  々
〇天和二年   々  舟あり川の隈ニタ涼む少年歌うたふ々    「武蔵曲」
        々  行ずして見五湖煎蠣の音を聞   々    「々」
〇天和三年   々  山彦と埠ク子規夢ヲ切ル斧    々    「虚栗」
        々  浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらむ   々    「々」
○貞享二年   々  みのむしやおもひし程の庇より  々
        々  余花ありとも楠死して太平記   々    「一棲賦」
        々  亀とならじ先木の下の鐸ならん  々    「俳譜白根」
○貞事三年   々  市に入てしばし心を師走哉々        「其角歳旦帖」  
        々  長明が車に梅を上荷かな     々    「誰袖」
        々  雨の蛙声高になるむ哀哉     々    「芭蕉庵蛙合」

 以上、知られている句を全て掲出することは出来ないが、素堂は時に応じて詠んでいるが、相変わらず字余りも多い。これも余す事で詩情や余韻を良くするなど、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂的高踏らしさの感動を顕しているのである。恐らく素堂自分一代の俳諧と達観していたと考えられる。

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