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素堂と芭蕉 その6

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 少々くどくなるが、素堂は延宝八年(1680)の「誹枕序」で古人をあげて生き方の共通性を「是皆此道の情(こころ)」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、此の道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。

 延宝八年の冬、深川に隠棲した芭蕉は翌年の延宝九年七月、京都の伊藤信徳らの行なった「七百五十韻」を次いで「俳諧次韻」(二百五十韻)を版行した。芭蕉研究者に依れぼ蕉風の萌芽が僅かならず見られると云う。この頃は談林風から変化し始めていた漢詩文調が俳壇に流行する気配を見せ、素堂と共に吟じていたのであるが、素堂の「誹枕序」を読んだのであろう芭蕉は、新風興起を模索していたらしい。(高山氏への手紙など後文)

 天和三年(1683)五月頃、江戸大火の後に甲斐に流寓していた芭蕉は、江戸に戻る上其角が編んだ「虚栗」に鼓舞書として跋文を書いた。その四年後に其角にねだられて、泰堂が序文を書いたわけでこの問四年、芭蕉の方は所謂「野ざらし紀行」「鹿島詣」などをはさみ「続虚粟」の時は「笈の小文」の旅に出発した直後であった、

 虚栗跋文(芭蕉)

   栗と呼ぶ「書、其味四あり。李杜が心酒を嘗めて、寒山が法粥を啜る。
   これに乃而(よつて)其句見るに遥にして、聞くに遠し。侘と風雅のそ
   の生(つね)にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾は蝕(むしく
   い)栗也。恋の情つくし得たり。音は西施がふり袖の顔(かんばせ)黄
   金鋳小紫。上陽人の閨(ねや)の中には衣桁に蔦のかかるまで也。
   下の品には眉ごもり親ぞひ娘、娶姑のたけき争ひをあつかふ。寺の児
   (ちご)歌舞の若衆の情をも捨てず、白氏が歌を仮名にやつして、初心
   を救ふたよりならんとす。其如(語)震動虚実をわかたず、宝の鼎に
   句を煉って、龍の泉に文字を冶(きた)ふ。是必ず他のたからにあらず、
   汝が宝にして、後の盗人待て。
     天和三亥年仲夏  芭蕉洞桃青鼓舞書

 要約すると、この集には四っの味があり、それが振動し虚実を分かたず融合して、俳諧の新しい世界を作ろうとしている。それは世の俳人が見残した所まで捨い集めて、未熟な所を救わんとする、世に捨われぬみなし栗の如くである。是は他の宝でなく五分の宝にして、真の理解者の現れるのを期待せよ。と謂うのである、

 この文章は跋文であるから、芭蕉の教える新しい俳諧の世界への自覚の芽生え、つまり芭蕉の新風への自覚と、談林俳諧が見失った文芸性の、再建を意図する気持ちが顕れていると見て良いようである。(解説は後文)

 素堂と芭蕉の往復書簡は、今日では殆ど残されて無いと言っても過言ではなかろう。ただ残されている芭蕉の手紙の中に、素堂苑てに手紙をしていると推定できる個所が何点かある。これからすると芭蕉は(素堂も)かなり神経を使って、手紙の遣り取りをしていたと考えられ、元禄三年十二月奥付の「松と梅序」つっいても、一考を要するところである。素堂の俳論書には『松の奥』と『梅の奥』の二冊があり、その序文が「松と梅序」であろうと考えられている。その真偽は両説があるが、偽書説は後年に素堂の一族である越智百庵が言い出した事で、甥の黒露も何も言わない事から、偽書説が今日まで優勢である。

 また元禄十年代のものと考えられる『素翁口伝』も真偽が別れており、内容を検討して見ると、いずれも偽書とは言えないと、考えざるを得ないのである。『松の置く」と『梅の奥』のうち、現在では『梅の奥』の伝書の存在が不明になつており、その内容が判らないが、『松の奥』を見る限り「俳諧奥書」と云うより「連歌の作法書」と言うべきで、素堂は俳諧を運歌の発展した、その延長線上のものと捉えている訳である。前述したが、元来俳諧は「誹諧」とも書いているが連句の称で連歌体の一種、滑稽味のある連歌を指していたのである。この『松の奥』はこの項の後でふれるが、貞門の俳諧論と連歌論を集大成し、秘伝の作法式目を集成したもので、蕉門俳論と密接な関係がある書である。

 『松と梅 序』

  長袖よく舞ひ、多銭よく商ふ。ぜになしの市立とや笑はれん、それも糸
  瓜の皮財布と。かたげて出たつ市も、我またしらぬ。大和ことのはなが
  ら、俳諧の道芝、わけゆふすゑの一助もやと、寒燈のもとに、例の拙き
  をわすれ申に候。また曰、松と梅とは、かの御自愛の木陰なるをとなぞ
  らへて、ここに冠きせ侍るならし。(以下略)

 元禄三年『曠野集員外詞書』に

  誰か華をおもはざらん、たれか市中にありて朝のけしきを見ん。我東四
  明の麓に有て花のこころはこれとす。--中略--むかしあまた有ける人の
  中に、虎の物語せしに、とらに追はれたる人ありて、独色を変じたるよ
  し、誠のおほふべからざる事左のごとし、猿を聞て 実に下る三声のな
  みだの といへるも、実の字老杜のこころなるや、(下略)

 元禄四年「俳諧六歌仙序」鋤立編-

 前文略
  そも花山の僧正(遍昭)は貫之(紀氏)もはじめに沙汰せらつれば、今なほ
  是に随はるべし、君きかずや、京風黄門(藤原定家)有る人にこたへら
  れしことを、其まことなく、なきこそ他の及ばざる所なれと。
  (ふるき法語より此心狂句の骨隋なりとぞまで略)
  次に在五中将(在原業平)のことばたらざるはいかにぞや、書にいはずや
  (伊勢物語)こと葉は心をつくさずと。又いはずや、天物いはず。万の物
  は心を心として、心あるものをや。常に心あまれりやたらずや、其つよ
  からぬも、身におもはぬも、猶弁あらんかし。其花に休む山入のさま、
  其雲にあへる暁の月、他の時をまちて今いはず。其いふところを。

 元禄五年の『俳林一字幽蘭集叙』では

  人心如面而不一 或是自非他漫為説 誰知其真非真是 各不出是非之間
  耳 至若世人多費新古之弁 是何意耶・云々・想夫天地之道変以為常
  俳之風体亦是然 (以下略)

  読み下し
 人の心は面の如くにして一ならず、或は自らを是れとし、他を非なりとして漫りに説を為す。講か其真非是知らん。各々の是非の問を出ざるのみ。しかのみならず、世人多く新古の弁を費す、是れ何の意ぞや。思うに夫れ天地の道変は以って常と為す。俳の風体も亦た是れ然り、寒に附き熱に離るるの勢いは、自ずから然る事を期せずして然る者なり、強いて論ずべからず。

 同年『芭蕉庵三日月日記序』

  我が友芭蕉の翁月にふけりて--中略--むかしより隠の実ありて、名の世
  にあらはるること月のこころなるべし。我身くもれとすてられし西行だ
  に曇りもはてず、苔のころもよかはきだにせよと、かくれまします遍正
  もかくれはてず、人のよふにまかせて僧正とあふがれたまふも、なお風
  流のためしならずや。此翁のかくれ家も、カナラズ隣ありと、名もまた
  よぷにまかせらるべし。

 ここまでが芭蕉の生前に書かれた分だが、其角の「絨虚粟序」の後は、翌年の「芭蕉帰庵」に、「素堂亭残菊宴」・「芭蕉庵十三夜」と続くが、詞書などには俳論めいたことは記述していないが、体の弱い芭蕉の身を気遣う気持ちがにじみ出ている。この頃であろうか、恐らく芭蕉は素堂に、新俳諧作法書を編纂して欲しいと頼んだのであろう。

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