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素堂と芭蕉 その7

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 其角の「続虚粟」が版行された貞享四年(1687)十一月、芭蕉はほどなく送られて入手していたと考えられるが、門入知友に宛てた手紙は寂照(下里知足)以外知られず、翌咋の杉風宛にもふれられてない。あるいは無視したとも考えられる。この辺りはよく論じられるのだが、素堂より芭蕉の力量が勝つていた事に起因すると云う。この説は穿ち過ぎて如何であろうか。元禄三年九月、「奥のほそ道」吟行に引き続き近江に在った芭蕉が、河合曾良に宛てた手紙で

  幻住庵の記も書き申し候、文章古く成り候ひてさんざん気の毒致し喉。
  素堂なつかしく候、重而ひそかに清書、御目に懸くべく候問、素堂へ内
  談承るべく候--中略--素堂文章、此近き頃のは御座無く候哉、なつかし
  く候。(以下略)とある。

 芭蕉は直接素堂に手紙をせず、杉風とか曾良のような口の固い門人が、それぞれ取り次ぎに入っていたことを、証明しているようである。頼まれた曾良が何を送ったのかは不明だが、折々のもの例えば前掲の書(元禄三年末から四年春まで)は入手していたと推定できる。少々まだるっこくなったが、芭蕉は素堂の俳論を知りたかったのである

 元禄二年の「おくのほそ道」のおり、羽黒で呂丸に教えた「天地固有の俳諧云々」(闇書七日草)は、のちの「不易流行論」であり、芭蕉は連句より発句に益々力点を置くようになっていたのである。素堂の句作は、芭蕉の生前と死後とでは、諸先学が論じられるように確かに量は少なくなっているが、これは歌仙等句会えの出座が極端に減じたことに起因するし、元々自ら興行すると云った事より、招かれて参加することが多かったのであり、俳人で帖あるが、俳諧を専門とする俳諧者ではない。寧ろ俳学者とも云うべき詩人とするべきであろう。これを隠者の俳諧として位置づけるには、些か疑問が生じるのである。

 素堂の俳論『松の奥と梅の奥』の上下二冊は、いつごろ芭蕉の手に渡ったのか不明であるが、元禄五年八月に桃隣の手引で芭蕉に入門した森川許六が、翌六年江州彦根え帰国する事になり、「俳諧新式極秘伝集」「俳護新々式」「大秘伝自砂人集」の伝書が与えられた、この書の奥に芭蕉の自筆で『元禄六年三月相伝』の旨が書されていた。この折に素堂の俳論も書写されて与えられたのであろう。後に葛飾派の二世素丸が入手したとされる。素堂の俳論『松の奥・梅の奥』(以後俳論)は書写されて、芭蕉の門入たち例えぱ去来や土芳らにも与えられたらしい。向丼去来は芭蕉の死後に芭蕉の語録俳論を綴った「去来抄」を元禄十一年から数年かけて著し、服部土芳は「三冊子」を十六年に成稿させたが、共に出版することなく終わった。(刊行されたのは「去来抄」が安永四年(1775)、「三冊子」が安永五年(1776)、前者が暁台の編、後者が蘭更編である。素堂が没して六十年も後であった。.二人共に素堂の俳論を引きながら芭蕉の俳論(師口)を述べている、つまり、二は素堂の俳論をつぷさに読んでいたのである、芭蕉の死没前後の素堂には、身辺に相次いで不幸が襲い、元禄六年十月以降翌年夏頃までの妹の死、晩秋頃の妻の死没、元禄八年夏(五月頃)の母の死没と続いて、句作等文筆が閑になる。


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