
元禄七年(1694)五月、芭蕉が西国に向かつた時は、素堂の送別の詞などが見られず、妹の死没と関係があるらしく見送りはしなかった様である。その二ヵ月後の六月、立花不角が素堂の閑居を訪れ「芦分船」(不角編)に序(跋)を願っている。
『芦分船』跋文 六月奥
五月あめ晴過る比、芦分舟をさしよせて、江の扉たたく人有、この舟や
難波の春を始めて、玉江のあしの夏狩りものせて、是をおもしとせず。
尚、しほれ戸のからびたるも、一ふしあるはそれすてめや。しばしかた
らひて、手をわかつとき。
尚、七月には讃岐の紙小庵友鴎が東下記念の句集「芳里袋」を編んで、素堂に序文を願っているが未見のため、その俳文はわからない、これ以降、素堂が没するまで十数編の序跋文を編んでいるが、未見の竹洞清流(稲津青流)編の「住吉(墨吉)物語」や其角編の「俳譜錦繍緞」の序跋文を除き、俳論めいた文章はみられない。恐らく元禄初年ころには俳論「松の奥・梅の奥」が芭蕉の手に渡り、一応素堂が背負っていた義務を果たしたごとで肩の荷を下ろしたのであろう。
素堂研究の泰斗・荻野清氏(山口素堂の研究上)によれば
『彼の興味はむしろ詩文の方面にそそがれてゐたらしく、為に俳諧に疎くなったものであろう。--申略--元禄に至るもなほ三四年頃までは、彼は相当句作に力め、単に数の上より見れぱ天和貞享頃より更に多くの句を吐いてゐる。併し、二三のものを除けば、貞享中の句の如き至醇境には程遼いものであった。漸く彼の句風は、純蕉風とはどこやら調和せぬ所を生じきたったのであった。--中略--蕉風と一致しない彼の俳諧観が、その根抵となった事は争へない。
清水茂夫氏(昭和三十年・山梨大学学芸部研究報告第六号素堂の俳諧、三)で
元禄時代に入ってからの素堂の作品は決して多くない、しかしその多くは残菊の宴十三夜の会.年忘れの会.芭蕉帰庵や追悼追善.旅行等の場で作られてる。このような場において句作することは、自己の感動の自然の表現が特質づけらてくるのであって、蕪村から逸落だと賞される淡白な句境もそこから生れてくる。元禄二年頃から芭蕉の俳諧との間にはかなりの径程を生じて来た。云々----(元禄六年)素堂と芭蕉との交際は親密を極め、永久に変るまじと思われる状態にあつた。既にこの頃は芭蕉の俳諧と素堂のそれとの問には大き径程が生じていたのである。
とあって『追悼句は句々芭蕉への追慕の情の益々深切であるのを感ぜしめるのである』と.述べておられる。多くの識者は隠逸素堂は芭蕉なき後は、追慕に始終し、上方への旅行やらで見るべきものは無く、過去の名声をもって江戸の俳壇に隠然と君臨し、ついにば俳諮をも捨てたとされる。この説は穿ち過ぎて少々頂けない論で、前述の様に芭蕉死没前後の身辺の出来事や、蕉門内部の問題などで、その始末に追われていたらしい事などを見落としての論である。
芭蕉と素堂との俳諧の問に径程を生じて来たのは、確かに元禄二・三年頃からではあるが、これは二人の個性の差とも見るべきで、貞門俳諧に飽き足らぬ思いを持っていた素堂は芭蕉と同様、西山宗因に接してたちまち談林風に染まった。しかし素堂は主家を致仕する前後から、談林俳諧の行き詰まりを感じていたらしく、景情の融合・情の俳諧・詩は心の絵として、用語と句工案の自由などを目途に、純正風(蕉風)的句を吟じている。
一方、芭蕉も理由は確かには判らないが、素堂の退隠の翌年に職を辞して深川に屠を移し、素堂の俳論に触発されてか、俳諧新風の工案を始めた訳である。しかし談林風、これより派生した漢詩文調を容易に脱することができずに、苦悶の日々を過ごしていた様である。これを打開するべく、素堂が「誹枕の序文で述べた「古人の風雅のこころは旅にあり(是此道の情なるをや)その生き方の共通性にある」と説き、これによって触発されたのであろう芭蕉は、迷い悩みながら蕉鳳樹立に向け出発したのである。
それが天和三年の「虚栗」蕨文の新風宣示となり、貞享元年の甲子吟行(野ざらし紀行)となって結実し、これに、跋文を著した素堂の賞め方もさすがであった。煩雑になるため掲出しないが、芭蕉をのせるこつは流石である。芭蕉はこの吟行の途時名吉屋での「冬の日」は、漢詩文調を脱して、蕉風を樹立したものと評されるもので、後の「蕉風三変」と称される初頭に立つものであるが、延宝八年からあしかけ五年である。その後、貞享四年秋の「簑虫贈答」のあと、芭蕉は「笈の小文」となる芳野吟行に出発し、素堂は其角の要請で「続虚粟」の序文に『景情の融合の必要性を指摘して、情^心)の重要性を説いた』のである。それが元禄二年の芭蕉の「不易流行論」となって、元禄四年の「猿蓑」に結実して行くのである。これまた五年の日時を要している。しかしその後の三変目の「軽み」への転換は早く、元禄七年には手紙で「かるみ」を頻りに提唱する、(「かるみ」については芭蕉の俳論でふれる。)
素堂は芭篭姦されたのであろう「連句俳論」を纏めたあと、芭蕉後見の荷を下ろしたと言うべきか、以前の素堂調とはややことなる「かるみ」(芭蕉のかるみとは異なるが)を増した句作が増加する。素堂の特徴は用語の取り方で、極めて自由な考えを持って、用語に対する思定観に囚われず、こころを表現するのに、適切なことばを用いることを目当てとしている。.従って句は清雅・高貴・蒼古・端正・淡白・静寂を特色とするが、その反面、芭蕉とは異なる、煮えたぎる、強く深い情熱の奔騰は感じられない。恐らく素堂の性格から来るものである。
与謝蕪村が『素堂が過落云々』と言う事もうなずかれる。清水茂夫氏が『隠者生活に徹し掃掃得た性格に基づくであろう』と解説される。また素堂の叙情は『短歌的叙情は感情の奔騰帝に即して成立するとすれぱ、俳句的叙情は対象にそくして、的確端的な認議を前提とする叙情であり、短歌的叙情の否定の上に立つ叙情が、俳句の独特の静と言い得る』とも説かれる。
甥の黒露が素堂の話として「摩訶十五夜」<まかはんや>(素堂五十回)の庵語に
京の言水歳旦に、初空やたぱ粉の輪より問の比叡といふ旬の拙か、初心の
ほど甚おもしろく思ひて素翁へ申ければ、しばらくして「問の富土とこそ
いふべけれ」との給ふを、尤の事とおもひ、ある日専吟にかく有しと出け
れぱ専吟の曰、言水もさ思はめと京ゆへ也。そこらが素堂の古き心よりの
評也と云ひしも、亦尤とおもひ、其後又翁へ専吟評をいひければ『夫々と
皆趣向を借て深く入たらぬ故の論也。予が句に
地は遠し星に宿かれ夕雲雀
とせし句、地は還しと濁りて吟ずる時は、一句すたるとおもひ、終に披露せ
ず捨てり。其句も京故ならずば捨るがよし、秋風ぞ吹しら川の関との歌の出
しせしをぱ、いかに心得たる』とて示し給ふ。(以下略)
とある。地は遠しの句は元禄初期のものであろう、言水は享保七年(1722)の没、黒露はまだ始めた頃で雁山を称していた時である。恐らく宝永年間の事であろう。素堂の句作法を伝えるひとこまでもある。
素堂には『松の奥・梅の奥』の外に俳論はない。この外には、露言門の挙堂が編著した「真木柱」(元禄十年刊)があり、素堂の句を何々体などと類別して一句づつ上げて、発句の作法書の体にしてある。露言は内藤鳳虎の門で、後に調和の門にはいった俳諧師であり、素堂とも親しくしていた人である。従って挙堂も素堂に近かったのであろう。やや年代が下がって、元禄十四五ねん代から宝永初め頃までのものと考えられる『素翁口伝』があり、伝世した九世馬場錦江が識書に、
此俳諧口伝一巻亡素翁の真蹟のよしにて曇華斎に来りしを、其格見定始
として残しけるを、其儘にうつし置かしむるもの也。但此より後きれて
見へず。素翁のしるす処の名もなしといへども、一体の意味事凡の作り
すべきものにあらず、全うしざるハ残り多き事なり。
とある。この冊子の後ろの部分が欠けているため、どの程度の規模で綴られたのかは不明である各項目に芭蕉の句を例句として掲出して、其角.野坡らを出すなどしてあり、不易流行論や支考の俗談平話などにもふれている。(以下略)
、
素堂が俳諧から遠ざかったのは、芭蕉の死没前後に身辺に不幸が集中した事と、芭蕉の門人間の対立が激化したことで、生前より芭蕉は向背・あつれき・確執などに悩まされており、芭蕉の死により蕉門の分裂を修復させようとしていたのである。素堂は江戸より京都を拠点に去来等をして蕉門新風を興させようと考えたとしても、無理はない。しかし挫折に終わったのである。素堂が期待していた去来は宝永元年病死し、丈草も同四年病死。土芳は享保十五年(1730)まで生きた。
素堂の俳論は死ぬまで本質は変わらなかった、貞享四年前後から俳諧の外に漢詩文や和歌などにも指向が広がったが、俳諧の作句に些かの揺るぎもない、寧ろ枯れた平明淡白な句が多くなる。俳文にも新味のある試みをしている。
宝永二年、京都で支考にたのまれて「寸の字」に序文を頼まれた。
(前文略)しひて風情をもとめず、はづんでしかもはづみ週ぎず、句調もま
たひくからず。つよからんとすれば、ふつつかになりやすし。今の時はやす
みの外までおだやかに、俳風もますます御代の松の、若みどりさへ立そひて、
すみよしの、
すみのすすめの
、すをかける心ちなるべし。
元禄三年の嵐雪編の「其袋」に序文を書き、未見であるが「袋尽くし」の文を書いており、これに続くもので、散文詩的試みが成されたのである。
|