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新視点、素堂と芭蕉を繋ぐ曾良
素堂と曾良は芭蕉を介しての交友ではなく、直接的の関係で結ばれていたのである。これまで数人の研究者がこれに触れているが、あまり奥行きが見れない。曾良は壱岐で死んだことになっているが、確実な資料(別記)によれば、彼の壱岐での活動と地域との歴史実証に大きな空間がある。歴史にはよくあることであるが、歴史の中を彷徨っている伝記などから、時代を遙か過ぎてから、石碑や墓で出来ることはよくある。素堂の場合においても随所にそうした傾向が見える。
『俳文学大辞典』によると、素堂「甲斐国北巨摩郡教来石山口に出生。二十才ころ、酒造業を弟に譲り、江戸に出て林家の塾に入り、また一時上京し和歌や書道を学ぶ。その後任官するが、延宝七年(1679)春、三十八才で官を辞し江戸上野不忍池畔に隠栖。その後深川に住居を移して俳譜に勤しむとある。
一方曾良は「長野県諏訪郡上諏訪(信漉国上諏訪)に生まれ、本名は岩波庄左衛門正字(まさたか)と云い、高野七兵衛の長男として生れる。姉(法号、利鏡。小平家に嫁ぐ)と弟五左衛門があった。生家は弟五左衛門が継ぎ、曾良は母の実家河西家に育つ。通称与左衛門。十二才万治三年(1660)に養父母岩波久左衛門昌秀夫婦が相次いで他界したが、曾良が岩波氏を継いだ経緯や時期は、養母が伯母にあたること以外未詳。十代の頃伊勢国長島の大智院の留守借で伯父の秀精法師のもとに養われたが、二十才前後には長島藩松平佐渡守に仕えていた。二十代後半、延宝年面(1673〜81)中ごろには同家を致任、江戸に出た。既に宗因風の俳講に手を染めていたらしが、吉川是足について神道を学んだ。貞享二年(1685)深川互間堀に住み、以後ここを本拠地とする。とある。
こうした履歴書の作成は何をもとにしたのであろうか。資料の提示が欲しい。
最近書名は忘れたが「素堂と曾良は二十才前後まで共に甲斐山口と信搬上諏訪を往来して江戸に出る機会を窺い修業を積んでいた」云々、と書された本に出会った。小説かと思ったらそうではなかった。
河合曾良については南信日日新聞が長期にわたって掲載したが、その3号記事には次のように曾良を紹介している。しかしその内容は不確かな伝承記事で展開されていて、地域資料にも乏しく思われる。
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