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素堂消息、元禄6年(1693)52才 十月、『流川集』発句一入集。露川編。(未見)
このわすれながるゝ年の淀ならん
『流川集』…四季に分けて各季ごとに、歌仙・蕉門諸家の発句を掲載。
露川
寛文元年(1661)生、〜寛保三年(1743)歿。年八十三才。
本名、沢市郎右衛門。伊賀国友生に生まれ、尾張名古屋の札の数珠屋渡辺家の婿養子になるが、後沢姓に復姓する。
元禄四年(1691)芭蕉に入門し、この集を編み、宝永三年(1706)剃髪して月空居士と号した。その後全国を俳諧行脚を繰り返した。
一たきの灰掃ながせ秋の水(『秋の水』)
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素堂消息、元禄6年(1693)52才、八月二十八日、松倉嵐蘭没。
正保四年(1647)生、〜元禄六年(1693)没。年四七才。
本名、松倉盛教。板倉侯に仕え禄高三百石の武士。致任後江戸浅草に住み、素堂とも深い交流を結ぶ。元禄六年に相模国鎌倉に遊び、帰途発病して他界。
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素堂消息、元禄6年(1693)52才「素堂亭残菊の宴」素堂・芭蕉・沾圃三物
漆せぬ琴や作るらぬ菊の友 素堂
葱の笛ふく秋風の蘭 芭蕉
鮎よはく籠の目潜る水落て 沾圃
〔俳諧余話〕
甲斐の身延に詣ける時、宇都の山邊にかゝりて
年よりて牛に乗りけり蔦の路 木節(『続虚栗』所収句)
芭蕉、十月九日付、許六宛書簡文中、(抜粋)
素堂菊園に遊びて
菊の香や庭にきれたる沓の底
芭蕉、十一月八日付、荊口宛書簡文中、(抜粋)
素堂菊園之遊
菊の香や庭に切たる沓の底
素堂、「漆せぬ……」の句について
柴桑の隠士、陶淵明のこと、薄陽縣の柴桑に隠棲したことにより、この名がある。無弦の琴云々、淵明が琴を愛して、酒間にこれを撫して「但識琴中趣何勞弦上音」と和したといふ故事。造化、自然・人見竹洞老人、儒士、林明春(?)の門人。素琴、素木の琴。淵明が無弦の琴を翫んだことを考へると菊も強ち大輪を欲して自然を矯める必要もあるまい。自分も淵明に 學んで、その自然な姿を愛するとは云へ、我が家には菊はあつても琴がないの琴が無いので、それでは淵明の愛した二物の一が欠けてゐるではないか、と云うことで、竹洞老人が素木の琴を贈ってきれたといふのが前書意である。「琴や作らぬ」とは反語である。淵明の故事を體して、うるしせぬ琴、即ち素木の琴を贈ってくれた竹洞老人をたゝへたのである。「菊の友」は竹 洞老人を指したのであって、両者の高雅な風交を象徴した言葉であり、同時にこれに依って菊の句となっている。芭蕉の句「月の友」と同例である。素堂や芭蕉を通じて見ることのできる、時代的な一の理想である隠士風の感懐である。 (芭蕉七部集『俳句鑑賞』川島つゆ著)
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素堂消息、元禄6年(1693)52才 十月九日、 《素堂菊園之遊》
重陽の宴を神無月のけふにまうけ侍る事は、その比は
花いまだめぐみもやらず、菊花ひらく時則重陽といへ
るこゝろにより、かつは展重陽のためしなきにしもあ
らねば、なを秋菊を詠じて、人々をすゝめられける事
になりぬ。
菊の香や庭に切たる履の底 芭蕉
柚の色や起きあがりたる菊の露 其角
菊の気味ふかき境や藪の中 桃隣
八専の雨やあつまる菊の露 沾圃
何魚のかざしに置ん菊の枝 曾良
菊畠客も圓座をにじりけり 馬
紫桑の隠士無絃の琴を翫しをおもふに、菊の輪の大な
らん事をむさぼり、造化もうばふに及ばし。
今その菊をまなびて、をのずからなるを愛すといへ共
家に菊ありて琴なし。かけたるにあらずやとて、人見
竹洞老人、素琴を送られしより、是を夕にし是を朝に
して、あるは声なきに聴き、あるは風にしらべあはせ
て、自ほこりぬ。
うるしせぬ琴や作らぬ菊の友 素堂
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素堂消息、元禄6年(1693)52才 蕪村書簡
『蕪村書簡集』武藤山治氏蔵。大魯宛(抜粋)
ちか頃無理成哉留之事、御尤と被レ存候。拙句ニも折々有之候。連哥者流やかましく可 相申 と存候へ共不存候。
わたの花たまく蘭に似たる哉 素堂
春の水ところどころに見ゆるかな 鬼貫
老なりし鵜飼ことしは見えぬかな 蕪村
右之類はいづれも不レ苦歟と覚申候。先頃拙句ニ
きのふけふ高根のさくら見ゆるかな
これ等は無理歟と存候へども、かまはず致置候。
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