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2011年12月10日
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<参考資料>
<芭蕉の生まれと周辺>
(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)
<生まれた年>
芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。
ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。
正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。
ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書「天水抄」の稿を書きあげた年である。
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芭蕉の誕生
芭蕉は寛永二十一年(一六四四)年に生れた。西鶴より二つ年下、近松より九才年長ということになる。私の研究している山口素堂より二才年下である。
もっとも、これは没年と時の年齢から逆算して知り得ることで、多くの著名
人にも適用されている。したがって生れた月日はわからない。この年は十二月二十六日に改元があり、芭蕉の誕生がこの日以後であれば、正確には正保元年生れということになる。
徳川三代将軍家光の治世、江戸開幕以来僅か四十年を経たばかりであるが、幕藩体制も漸く整い、島原の乱も平定し鎖国が始まり、徳川幕府三百年の太平がはじまった頃である。
生れた所は伊賀上野の 赤坂町 、現在の 三重県上野市赤坂町 である。四方を山に囲まれて静かに眠る伊賀盆地、その中央やや北よりの台地に位置する上野の街、それが芭蕉の故郷である。
上野の街の東のはずれ、柘植方面からの街道が上野に入る坂をのぼり切った
ところ、 赤坂町 に現在も芭蕉生家が遺っている。建物は安政の地震後の再建というが、位置は変っていないはずである。芭蕉の生れた頃の上野は藤堂家の領地で、藤堂家は伊勢の安濃津(津市)を木城として、伊勢伊賀をあわせ領し、上野には七干石の城代を置いて、伊賀一国を治めさせた。
しかし僅か七干石の城下として上野のイメージを描いてはならない。上野の
地は、元来戦国の世には筒井定次(十二万石)の城下であったのを、江戸時代になって、慶長十三年(1680)に、藤堂高虎が四国の今治から二十二万九百石をもって伊勢に移封され、この地をあわせ領することになったものである。
幕府が名将籐堂高虎をここに移したのは、当時まだ反抗勢力の中心であった大阪方に対する戦略的配慮の結果といわれる。上野はその位置からも、大阪の東国進出に対する隆路口を掘って、要衝の地である。土木築城の名手高虎は、新たに城取り縄張りをして城郭を改修構築し、城下町を拡張整備して、大いに新しい街づくりに努めた。その結果上野の町は、城も街も、優に数万石の城下に相当する威容を備えていることになる。
現在も遺る白鳳城の雄大な遺構、深い濠、高い石垣、あるいは長屋門に武者窓の旧武家屋敷のつづく整った街なみは、往時の威容を想像させるのに十分である。
芭蕉の生まれ育ったころの上野の町も、街の規模は大きく整っていて、しか
も実質は人少なで物静かな、一種古都に似た落ちつきと風格をそなえていたに違いない。芭蕉の出自、周囲の肉親の関係などは、すべて確実な資料を欠き、従来の伝記などの推測でとりまかれ、おぼろげな伝承を書く人の主観や臆測に覆われている。
これとても絶対の正しさは有していないが、芭蕉の父は松尾与左衛門、母は名はわからないが、四国宇和島の人で、桃地氏の出だという。半左衛門と名乗る兄のほか、姉一人妹三人があったらしい。松尾家の家系は元来平家の流れをひき、父与左衛門の代に、柘植から上野に移って来たものと推定されている。身分家格もはっきりしないが、藤堂家でいう無足人という身分ではなかったかという説がある。無足人というのは、武士と農民との巾間的な身分、郷士(上級の農民)であったらしい。(確証はない)
当時の古絵図を見ても、生家のある赤坂は農人町と接しており、身分職業によって居住区域を分かつ城下町の通例を考えると、この推測は当を得たものと思われる。父は手習いの師匠をしていたと伝えられ、芭蕉も藤堂家に出仕するし、全くの百姓ではなかったことは事実であるが、普通に考えられるような武士社会の環境とは、よほど違った、もっと土の匂いの濃い生活環境が彼のものであったと思われる。
幼名を金作、藤堂新七郎家に仕えて甚七郎宗房といった。幼名通称については異説も多い。宗房というのはその名乗りで、これをこのまま俳号として用いることになる。
☆ 正保元年(1644)1才
● 伊賀国阿拝郡小田郷上野赤坂(現在の 三重県上野市赤坂町 )に松尾与左衛門の二男として生まれる。幼名金作、長じて忠右衛門宗房。
●伊賀国上野 赤坂町 に出生。幼名金作、長じて忠右衛門宗房。父は松尾与左衛門。母は伊予国から名張に来た人の娘。姓氏不詳。 兄は半左衛門命清。他に一姉三妹。
<割注>
芭蕉の実家は白鳳城のすぐ東側にあたる 赤坂町 にあった。現在も 上野市 赤坂町 三〇四番地にその実家のあとが残っていて、「芭蕉翁誕生之地」と刻んだ石標が建っている。(1979年当時・「芭蕉入門」今栄蔵氏氏著)
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芭蕉と素堂の蜜月時代貞享 二年(1865)
素堂と芭蕉の綿密な関係は芭蕉が死去する前年の元禄六年まで続く。死去する七年は素堂も妻を亡くしたり、前年には林家に正式に入門するなど多忙を極めていた。素堂は自らの晩年まで芭蕉を想い事あるごとに墓所を訪れたり句を詠んだりしている。芭蕉が甲斐を訪れた前後は最も交流の深い時期に相当する。
筆註 春、素堂は水間沾徳の立机を援助する。
「野晒紀行」道程
『野晒紀行』の帰りに芭蕉は唐突に甲斐に訪れている。これを秋元藩国家老高山麋塒の所に再度寄寓したとの説もあるが、その道順や奇遇先は紀行には記されていない。多くある説は仮説である。
芭蕉は貞享二年八月に江戸を出立して、伊勢に松葉屋風瀑や他を訪ねて、九月八日に故郷の伊賀上野に着、四五日逗留して亡母の墓前に手を合わせ、その後大和の国に行脚する。 当麻寺−今須−山中−不破−美濃大垣−木因と伊勢に数日滞在−桑名−尾張国熱田−美濃路−伊賀に戻り越年−奈良−鳴滝秋風宅−伏見−大津−桑名−熱田−鳴海−熱田−四月、鳴海知足宅−四月中旬、甲斐山中−江戸帰庵 『野晒紀行畫巻』 濁子畫(幸田露伴『芭蕉真蹟集』より)
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