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素堂の名前

素堂の名前
 素堂の姓については「山口」で確定出来る。これは『甲斐国志』ばかりでなく、書俳書に使用している。名については異論多論で確定できない。生涯不詳の時代もあるが、素堂は号として本名として確実である。しかし国志以下の「官兵衛」は確認できず、元禄九年濁川改悛工事の折に、「官兵衛」と複名したとの記述は資料を持たない説とも言える。「とくとくの句合跋」の「ン松兵衛」は③『俳諧錦繍緞』の山松子は山口松兵衛のことであり、官兵衛より信頼できる。「太郎兵衛」についてはニ書に見えるので、確実視される。「官兵衛」は当時甲斐の来ていた武士に同様の名が見え、著者が誤認したものと思われる。
 特に甲斐国志の素堂の項は、創作講談調で他の記述と比べて突出した内容を持っている。
1)『甲斐国志』          重五郎・信章・通称官兵衛。
                     素堂(堂=道)市右衛門。
2)『甲斐国志』以前の書
①『連俳睦百韻』    太郎兵衛・素堂(素仙堂の略)
②『とくとくの句合跋』 松兵衛。
③『俳諧錦繍緞』    序文名…山松子。
④『奥の細道解』    俗名太郎兵衛・名は信章。
⑤『升堂記』             素堂
⑥『竹洞全集』     素堂
⑦『地子屋敷帳』    素堂(この古文書は国会図書館に現存する)
註…素堂の生存中に資料からは官(勘)兵衛の名は見えない。『甲斐国志』以後の書に現れるようになる。

山口素堂の家系

素堂の家系
1)甲斐国山梨郡府中魚町、山口屋市右衛門家(『甲斐国志』)(ただし、『甲斐国志』には酒造業とはない)
2)山口家は甲府に於いて、魚町西側の本宅を構え、酒造業を営みて巨富を擁し、
  (功刀亀内氏蔵、写本酒之書付及び貞享上下府中甲府細見に依る)…この項、『国語国文』「山口素堂の研究」荻野清氏著による。
3)家頗ル富ミ時ノ人山口殿ト稱セリ(『甲斐国志』)
4)素堂の鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助良侫、町屋に下る。(『連俳睦百韻』)
北巨摩郡蓬莱(正しくは鳳来村)に生まれる。幼名重五郎、父を市左衛門と呼び幼時一家甲府魚町に移転して酒造業を営む。(『甲州俳人傳』)

素堂の生まれた日

素堂の生まれた日
 素堂の生まれた日については二説ある。それは下記のようであるが、最近では1)の説が多用されているが、資料根拠を持たない説で、2)は親族の著である。
1) 寛永十九年五月五日(『甲斐国志』)
2) 寛永十九年一月四日(『連俳睦百韻』)

一、 素堂の出生地
素堂の生まれとその地については『甲斐国志』に頼る書が多い。国史ともいえる書については、盲目的に従う風潮があるが、正してよく読んでみれば、不確かな内容であり、しかも素堂没後100年以上も経てからの編纂書であることからもそれは当然でもある。素堂が歿した享保元年から甲斐国志まで、素堂について書されたものには親族百庵著『連俳睦百韻』があるが、それは甲斐国志の補充として都合よく引用されている。
従って現在伝えられている素堂の出生地など、実際に調査すれば、甲斐国志の云うような資料は全くなく、江戸編纂者の「代官桜井孫兵衛」賛辞に利用された感が強く、しかも来甲していない時期の「濁川改悛工事」指揮者などの誤伝が生々しく記されている。そうした誤伝書から素堂の正しい出生日時や出生地などわからない。私は素堂が何故去来に芭蕉以後の俳諧を委託を思ったのかその辺りにヒントがあると考えている。これについては別記とした。
1)甲斐国巨摩郡教来石村字山口(『甲斐国志』他)
2)甲斐国山梨郡府中魚町(『山梨県の地名』他)
  ○素堂は甲府魚町に生まれ先祖は上教来石山口の出身といわれる。
3)○江戸----『風俗文選犬注解』他)
4)○不明----(『連俳睦百韻』寺町百庵の言)
5)それの年甲斐の山ぶみをおもひける…………亡妻のふるさとなれば………
   ……外舅野田氏をあるじとする。云々(素堂自著『甲山紀行』・元禄八年)
6)国より帰る
われをつれて我影帰る月夜かな 素堂 (元禄二年)
7)山口家は、その祖山口勘助良侫(蒲生氏郷の家臣)以来、甲斐国巨摩郡教来石山口に土着した郷士であった。(『国語国文』「山口素堂の研究」荻野清氏著)
  註…この項は『連俳睦百韻』に『甲斐国志』をプラスした記述。
8)素堂は江戸の人、云々(『俳諧奇人談』、玄々一著)
素堂は本系町屋にして世々倣富の家なり。云々(『奥の細道解』、後素堂)

山口素堂の全貌 序
 山口素堂、「目には青葉山ほとゝぎす初鰹」の一句をもって世に知られている。しかしこの句さえも松尾芭蕉の句と勘違いされている節がある。
 素堂は長い間『甲斐国志』という一級地誌の呪縛を受け、多くの誤りをもって伝えられた人物である。悲しいかな『甲斐国志』によって史実とは異なる生涯を持たされてしまった人物でもある。
 これまでも素堂の研究をしてくださった先生方は多い。しかし常に「芭蕉ありき」や「甲斐国志ありき」からの出発で、参考文献も素堂没後の偏った感のある後世資料が中心であった。また素堂抜きで芭蕉諸説を展開している研究論の多さには辟易する。
 『甲斐国志』の記述の内「素道」の項のみ 講談調で異様である。また元禄九年のかの有名な「濁川改浚工事」への関与が主に記述されていて、時の代官桜井孫兵衛政能の事蹟を「素道」の項に挿入する手法も見られる。又、宮本武蔵が甲州の出身であるとの記載(巻の百二)もあり、『甲斐国志』記述を全て是と出来ない一面もある。
 この『山口素堂の全貌』では資料をもとにして資料の無い部分は空白として推論は極力避ける方向でその生涯を綴ることにした。特に出生の寛永二十年(1642)から寛文六年(1666)、二十六才までの記載のある資料は文化十三年(1816)刊の『甲斐国志』と安永八年(1779)刊の『連俳睦百韻』の二書である。何方の書もその出処資料の提示がない。一書のみの資料は参考にはなっても全面的な信憑性は薄く感じられる。所謂誤伝に連なる可能性もある。
 素堂の生きた江戸時代は西山宗因(慶長十年・1605〜天和二年・1682)や北村季吟(寛永元年・1624〜宝永二年・1705)等の後継者として俳諧に新風を、の意気込みで松尾芭蕉や山口素堂が大きく飛躍した時期でもある。宗匠として俳諧の探究に勤しんで多くの評価を得た芭蕉と、多くの俳人を育み新風の先駆けとして活躍し文人素堂ではその生き方は根本的に違う。よく素堂の俳諧姿勢を淡泊であるとか追求心が希薄であるなどの評があるがこれは当たらない。当時の多くの俳人の多くは職業俳人である。素堂は俳諧を専業としてはいない。卓越した知識と教養の高さは専業俳人からも尊敬されていて、当時群を抜いて多い序文跋文の多さが物語っている。門閥不問の交友を深め、芭蕉と共に新風開発に勤しみ、人見竹洞との深き交友などを通じて林家との交流もあり、芭蕉亡き後の重鎮として俳諧世界を支えた。特に芭蕉への思慕は素堂晩年まで続き、それは共に活動した時代の深き想いが滲み出る結果となっている。
素堂に関する研究は荻野清氏や山梨の清水茂夫先生の研究が著名である。特に荻野先生は俳諧研究の大家であり、その著作の影響力は大きく現在に及んでいる。
 また、『甲斐国志』に埋もれていた素堂の事蹟を直視し、新たな素堂像を浮かび上がらせてくれた數多くの研究者とその著作が、私の研究を後押ししてくれた。特に戦前の俳諧研究書には芭蕉の研究が目的であっても素堂を認めた記述が多く見られた。この『山口素堂の全貌』にはそうした記述を多く取り入れた。

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