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素堂消息 延宝3年(1675)34才 『俳諧繪合』発句二入集。高政編。
扨ハそうか夢の間おしき時鳥 信章(素堂)
富士山や遠近人の汗拭ひ 々
高政
生歿不詳、元禄十五年(1702)六十代半ばで生存。一説には元禄十六年(1703)歿とも伝えられる。
本名は菅野谷高政。号は惣本寺伴伝連社。京都の宗匠で、はじめ貞室系後に宗因門、京都談林俳諧の中心的人物で、『惣本寺俳諧中庸姿』やこの『俳諧繪合』を著した。
代表句
世の中の夢盗人のほとゝぎす
目にあやし麦藁一杷飛蛍
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2011年12月13日
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素堂消息 延宝3年(1675)34才 『宗因歓迎百韻』、素堂(信章)入集。
いと涼しき大徳也けり法の水 宗因
軒を宗と因む蓮池 畫
反橋のけしきに扇ひらき来て 幽山
石壇よりも夕日こぼれる 桃青
領境松を残して一時雨 信章
雪路をわけし跡の山公事 木也
或は曰月は海から出るとも 吟市
よみくせいかに渡る雁がね 少才
四季もはや漸く早田刈ほして 似春
あの間此間に秋風ぞふく 執筆
夕暮れは袖引次第局がた 畫
座頭もまよふ戀路なるらし 因
そびへたりおもひ積て加茂の山 青
室のとまりの其遊びもの 山
草枕おきつ汐風立わかれ 也
一生はたゞ萍におなじ 章
わびぬればとなん云ひしもきのふ今日 才
それ初秋の金のなし口 市
十年を爰に勤て袖の露 因
おほん賀仰ぐ山のはの月 春
春は花 の頃は西の丸 山
参内過て既に在江戸 賀
時を得たり法印法橋其外も 章 (以下略)
【宗因余話】
宗因
谷中宗因墓−『一話一言』−巻十六 大田南畝著
江戸谷中日暮里補陀山養福寺に、ちかき頃難波の宗因の墓をたつ(常に錠をおろして人をいれず寺僧にこひてみる事を得たり)かたはらに梅を多く植えたり、その墓を見れば
於我何有哉
江戸をもつて鑑とすなり花の樽(も猶)
俳諧談林初祖梅翁西山宗因
天和二年壬戌三月廿八日 初組 (1682)
元禄六年癸酉八月十日 二組 (1693)
元文二年丁巳正月二日 三組 (1737)
延享四年丁卯五月廿七日 四組 (1747)
明和元年甲申十一月廿八日 五組 (1764)
明和三年丙戌十一月六日 六組 (1766)
安永八年己亥十一月廿三日 古道 (1779)
右は俳諧宗匠素丸が建しと云〔十月五日〕【註】素丸は素堂門
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素堂消息 寛文12年(1672)31才『女夫草』入集。立儀編。(未見)
世相 甲斐
河内領内で行なわれた検地に対して、石高が苛酷過ぎると百姓一記揆もおこり、桜田領内の百姓江戸桜田邸に強訴する。裁許は捗らず、延宝二年(1674)甲府殿の家老新見正信は家老職罷免流刑となる。
彰考館……水戸藩主、史局を彰考館と命名する。
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素堂消息寛文11年(1671)30才 山口清勝編『蛙井集』に発句一入集。(俳号、信章)
発句 姫氏國や一女をもとの神の春
清勝
山口清勝についての資料は少なく、この『蛙井集』は当時の軽口俳諧への非難を述べている。号は「自足子」を名乗っている。
乾裕幸氏著『俳諧師西鶴』に掲載の『遠近集』の作者名に、清勝山口氏九良兵衛の名が見える。
西鶴が延宝八年(1680)に興行した、『大矢数』(西鶴独吟四千句)の役人中の脇座十二人の中に、山口清勝の名が見える。
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素堂消息 寛文9年(1669)28才 『一本草』発句一入集。未琢編。(俳号、信章)
発句 化しかハり日やけの草や飛蛍
未琢
生(?)〜天和二年(1682)歿。年七十余か。
本名、石田要之助。江戸の人、未得の息。
立圃
九月、野々口立圃歿。
文禄四年(1595)生、〜寛文九年(1669)歿、年七十五才。
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