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素堂の生涯(2)

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素堂の生まれと青年時代

   昭和七年四月、功刀亀内著
   (上部に『連俳睦百韻』の抜粋を掲載)
 寛永十九年五月五日北巨摩郡蓬莱村(旧上教来石村山口)に生る。幼名重五郎。父を市左衛門と呼び、幼時一家甲府魚町に移転し、酒造業を営む。父死後襲名して市左衛門と改む。
 名は信章、字は子晋又公商、幼より風雅を好み、中年家を弟に譲り、母と共に江戸に出て、官兵衛と改称し、東叡山下に寓居す。茶を今日庵宗丹に学び、書を持明院に学び、和歌は清水谷家に受け、俳諧は京都北村季吟に師事し、其蘊奥を極む。風流諸芸に通じ、交遊多く諸藩に出入りす。屡火災に羅り、深川に庵を遷し、後葛飾安武の芭蕉庵の隣に住り。葛飾風の一派を創め門葉多く、馬光今日庵二世を継ぐ。素堂母の心に違はんことを恐れ、終身娶らず。
元禄五年母の七十七秋七月七日賀筵を開く。黒露著『秋の七草』に任し。元禄八年甲府代官桜井政能を援けて、甲府緑町に仮居して濁川を治水す。時人之を徳として蓬沢村に、政能と共に其の生碑を建て山口霊神と称す。(桜井政能享保十八年二月十四日歿、年八十二)素堂弟太郎兵衛後法体して友哲と云ふ。後桑名三右衛門に家を売り侘家に及。其の弟三男山口才助訥言林家の門人、尾州摂津守殿の儒臣、其子清助素安兄弟数多あれど皆死。其子幸之助侘名片岡氏を続。素堂号今日庵、其日庵、信章斎、蓮池翁、来雨、葛飾隠士、江上隠士、武陽山人、素堂亭。
   享保元年八月十五日没す。法号直誉桂完居士
 辞世句 ズッシリと南瓜落て秋寒し  
 
甲斐国志に谷中感應寺(今の天王寺)に葬るとあれど墓現存せず。位牌一基を蔵之。小石川区指ケ谷厳浄院に山口黒露の建し碑あり、明和元年申庚の歳四十九の春秋の成より、小碑を黒露建と刻せり。

碑面に長方形の穴にして、碑銘大□只左黒路建碑を刻せしのみ。現に穴の中に「素堂翁之墓」と刻せし小碑をハメあるは、明治三十年頃宇田川と云ふ人の、ものせしときく。甲府尊躰寺に山口家代々の墓あり、素堂の碑ありと聞くけど不詳。明治三十一年五月、内務省属織田定之金原昭善と謀り、本所区原庭町芭蕉山桃青寺内に、時の農相品川弥二郎撰文「素堂治水碑」を建てしが、震災に羅り現存せず。甲府市寿町金比羅境内に「素堂治水碑」あり。明治三十二年八月、甲府平原豊撰文、山田藍々(弘道)篆額、後裔山口伊兵衛建碑す。
谷中天王寺(元感応寺)に位牌一基在蔵す。
 (表)廣山院秋厳素堂居士  (裏)山口今日庵享保元年丙申年八月十五日
  六世 今日庵社中再興之。
 著書 『とくとくの句合』 自序 自句を自ら評せし句合なり。
  享保十二年刊行される。玉苟山人叙、百里跋。
  異板延享三年書林浅草辻本刊行、叙跋なし。
『素堂句集』 一冊 未刊 (子光編ものか不詳)
『素堂文集』 一冊 仝  (随斎編ものか不詳)
『俳聯五十韻』一冊 仝  漢語連俳
『松の奥』  二冊 仝  元禄三年編、俳諧之式法。此の書偽書の説もあり。『野のかげ』 一冊 刊行 追善集。〔その影 素丸(馬光)編。享保七年七回忌集〕
『野分集』  一冊 刊行 文久二年。百五十回忌、東都今日庵五世泰登。
『ふた夜の影』一冊 刊行 宝暦二年、黒露編。
『連俳睦百韻』一冊 刊行 安永七年、三代素堂(八年、襲名披露)
   糸梅に袖にむさし野鳥のこえ   素堂
 (短冊 一行写)
   西瓜ひとり野分をしらぬあしたかな   素堂
 (百五十周忌追善集『野分集』写)
  《註》
 功刀氏は名立たる『甲州文庫』の産みの親である。その蔵書の多くは現在山梨県立図書館に在る。記述は『甲斐国志』を基にしている。
 文中の「市左衛門』は「市右衛門」。蓬莱村は鳳来村。『連俳睦百韻』の引用文の「山
口才助調言」は「訥」。
  
…荻野清氏著。『国語・国文学』 昭和七年一月号。
 山口素堂、名は信章、字は子晋又公商、通称勘(官)兵衛(太郎兵衛・松兵衛・佐兵衛 太郎兵衛 等の異説あり、今一般の呼称に従ふ)素堂は素仙堂の略と云ふ
(連俳睦百韵)。
 別號として来雪、松子等を稱した。尚来雨の號があったと『連俳睦百韵』はいってゐるが、之は明かではない。彼は、又茶道に於ける號として今日庵・其日庵を稱している。
  一、生涯
 山口家はその祖山口勘助良侫(蒲生家の家臣)以来、甲斐国北巨摩郡教来石山口に土着した郷士であった素堂は、その家の長子として寛永十九年五月五日(一説に正月四日)に生まれたのである。即ち、芭蕉に先んずる事二年であった。かれは幼名を、『甲斐国誌』(志)に依れば、重五郎といひ、長じて家名市右衛門を継いでゐる。暫くして、家 督を弟に譲り、勘兵衛と改名して上京した。
 山口家は後年甲府に移住したのであるが、それは恐らく、素堂の少年時代であったらう と思われる。山口家は、甲府に於て魚町西側に本宅を構え、酒造業を営み巨富を擁し、(功刀亀内氏蔵 『写本酒之書付』及び『貞享上下府中甲府細見』に依る)『甲斐国誌』(志)にも「家頗る富み時の人山口殿と稱せり」と記すが如く、時人の尊敬を亭けたので あった。かゝる正しき家柄と、巨富ある家に、幼少年期を過ごした素堂は、必ずや端厳且つおっとりした気風を持って長じた事と思はれる。
 とかくして、彼は、江戸に遊学のために出づる事になった。その時期は、勿論明確な事は云へないが、先づ寛文初年廿歳頃と推測される。(以下略)
   …小澤柳涯氏著
 寛永十九年壬午、五月五日山口素堂生。甲府魚町、童名重五郎、長して市右衛門と更 む、後又官兵衛と改む。寛文十二年、此頃素堂季吟の門に入る。 元禄八年、素堂帰郷して父母の墓を拜し、代官桜井政能に謁す。政能素堂を抑留して共 に濁川の水を治む。蓬澤(西山梨郡玉諸村)に政能及び素堂の生祠あり。云々
   …清水茂夫氏著
 寛永十九年五月五日、当町字山口の郷士山口市右衛門の長子として生まれた。名は信章、字は小晋、通称官兵衛、素堂と号した。
  …小高敏郎氏著
 素堂は寛永十九年五月五日、甲斐国(山梨県)北巨摩郡教来石山口の郷士、山口市右衛門の長男として生まれた。山口家は、蒲生氏郷の家臣が仕官を廃し、この地に土着したという。地方の一名家であった。しかも素堂の少年の頃、山口家は甲府魚町西側に移住し、酒造業を営んで巨富を積み、「家頗ル富ミ時ノ人山口殿ト称」したという。素堂は、こういう地方の素封家の長子として、何の苦労もなく、大事に育てられ、幸福な幼少時代を送ったと思われる。これは、いわゆる立志伝中の人物に見るがごとき、激しい気魂をそだてなかったであろうが、苦労した人にありがちな暗さや片意地のゆがみを与えなかったはずである。たくましさや覇気にはとぼしいが、執着の少ない人生態度や温雅円満な性格は、既にしてこの時代に形づくられたといえよう。素堂は幼名を重五郎といった。長じて家名市右衛門を嗣いだという。こういう家の長男だから、素読や手習をはじめ、然るべき基礎的な教養万般を学んでいたと思われる。後年の博学多趣味の萌芽をここに認めてもよかろう。だが、しばらくして家督を弟に譲り、名も勘兵衛と改めて江戸へ遊学した。寛文初年二十歳ごろと推定される。遊学の目的は奈辺にあったか。長子でありながら遊学の折に富裕な家督を譲ったという以上、儒学を学んだ学者として立つか、あるいは幕府・大名に儒官として仕官するつもりであったのであろう。  (略)素堂は商売の家に生まれても、町人として一生を終わることに満足できず、富商の嗣子の地位を捨てて、あえて新しい人生コ−スをえらんだわけであろう。(以下略)

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素堂の生涯に迫る

寛永 19年 壬午  1642  1才
  素堂生まれる   一月四日…『連俳睦百韻』 安永 七年(1778)刊。
   五月五日…『甲斐国志』 文化十三年(1816)刊。
  
…寺町百庵序文中 安永七年(1778)十二月刊。
  素堂に関する記述箇所
 抑々素堂の鼻祖を尋るに、
其の始め河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞(後呼佞翁)町家に下る。
山口素仙堂太郎兵衛信章、名来雪。其ノ後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。
其の弟に世を譲り、後の後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。
後ち桑村三右衛門に売り渡し侘屋に及ぶ。
其の弟三男山口才助訥言、林家の門人、尾州摂津守侯の儒臣、
其の子清助素安、兄弟数多くあれい皆死す。
其の子幸之助、侘名片岡氏を継ぐ。云々
  《筆者註》
 序文を書いた寺町百庵は素堂の家系にあるという。(『俳文学大辞典』百庵の項)百庵は素堂の孫素安から「素堂号」の譲渡を持ちかけられたが断わり、佐々木来雪が「素堂号」を継承する。(三世)そのことは百庵の『毫の秋』に詳しく書かれている。 (享保二十年「素堂没・享保元年)」に素堂亭及び山口素安を確認できる。)
  
…馬場錦江著 安政五年(1858)刊。
 葛飾の隠士素堂は我先師なり。芭蕉翁を友とし善、俗名山口太郎兵衛、名は信章俳号は素仙堂来雪なり。本系割符の町屋にして世々倣富の家なり。常に落葉に往来して、信徳、言水か徒舊識たり。性、詩歌を好み、又琴曲を学ひ又謡舞に長す。一朝世の常なき観相して、家産を投ち第は山口胡庵に譲り、母を供して忍之岡の梺、蓮池の辺りに隠棲をいとなみ、高養を遂けたる事は、其行牌並に発句等にも世の知る所也。老母没して後、芭蕉、其角のすすめに応じて本所今六間掘、鯉屋敷といふに草庵を営み住めり。家集に、忍か岡麓よりかつしかの里へ居を移すとて、   長明が車に梅を上荷哉
素堂是より芭蕉庵と隣也ければ、猶はた芭蕉も心をよせて、草逆の交をなせり。三日月日記、後菊の園、其外人の知る所、風流の交り今将に夕言に及はす。集物にあり。云々。
  
…「素道」の項(巻之百二 士庶之部 府中)
  文化十三年(1813)刊。   
 山口官兵衛ト云。姓ハ源名ハ信章。字ハ子晋(一云公商)。其先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス。因為氏後ニ移居府中魚町。家頗ル富シ。時人山口殿ト称ス。信章ハ寛永十九年壬午五月五日生ル、故ニ重五郎を童名トス。長シテ市右衛門ト更ム。盖シ家名ナリ。云々
 《註》…
 『国志』には山口家は酒造業を営んでいるとする記載は見えない。山口素堂の家と酒造業を結びつけてのは安政五年(1858)に七十二才で亡くなった、緑亭川柳編の『俳人百家撰』の素堂の項の「甲斐に代々酒造業を営む家に生まれ、二十才頃に江戸に出て儒学を学んだ。云々」に起因する。早いところでは、素堂が健在の宝永三年(1706)頃に森川許六が著した『本朝文選』には「山口氏江戸の産」とある。凉袋が文政年中(1819〜29)著した『蕉門諸生全傳」には、素堂は甲斐の酒折の産」とある。
 素堂の出生や生涯の事蹟については、『甲斐国志』発刊前後で大きく食い違うことがわかり、『甲斐国志』以前の甲斐の著書には素堂のことや、「濁川工事」への関与の記載は見えない。
  
…文化十三年(1813)玄々一著、青青編。
山口氏は江戸の人、常に和漢の書を嗜み詩文を善す。老母に仕えて至孝なり。ひとあるひは妻を迎へん事をすすむるに固辞してやみぬ。これ親の心に違はん事を恐るればなり。篤実の君子嘆称すべし。弱冠(二十才)より季吟の門に遊んで俳諧の達者と呼ばる。庵の名を今日といひ、又来雪とも、素堂とも言へるも、その別号なり。後にある主家を辞してより深川の別荘に蓮池を掘り交友を集めて晋の恵運が蓮池に擬せしより、俳家もっぱら社中と称するはこれこれらによってなり。みずからその社に題する句、
   池に鵝なし仮名かき習ふ柳かな
 その作、みな高尚閑雅。云々
   …文政二年(1819)夏目成美著。
   素堂は甲斐の産なり。酒折の宮の神人真蹟を多く傳へ持り。その中に「松の奥」
 「梅の奥」と號たる二冊の草紙は俳諧の教を書るもの也。云々。
《註》
 この著の中には素堂関係の著が含まれている。特に「松の奥」「梅の奥」は、多くの識者が偽書としているが、成美はその序に載せている。(元禄三年の項)   

素堂と芭蕉

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芭蕉の甲斐訪問の諸文献の紹介
……芭蕉の甲斐落ち……
引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼)
昭和十九年発行
  天和時代の芭蕉
 《前文略》
 其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であろう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護していた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。
 芭蕉庵の甲州落
 後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、
  ……池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労
いたし候へば、御難儀の程察し申候……
 と芭蕉がいっている。
 『枯尾華』に
  ……其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれ
なければ……
 といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。
 成美の『随斎諧話』
  ……芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に
掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼もの
ゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に
参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づ
けたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによ
りて宿られしと見えたり。……
 とあり、湖中の『略伝』には
  ……深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その
次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州
の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて
甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしと
ぞ……
 といひ、
  ……一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられ
し事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物
多くあり。又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼
失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべし
と、云う。……
 とも云っている。これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。
 六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、
 菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救われたのであった。
 甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なお甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるら、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。
 甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。
夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
 変手ぬるゝ瀧凋む瀧 麋塒
蕗のに葉に酒灑の宿黴て 一唱    
 弦なき琵琶にとまる黄鳥
洗ふ瀧の鏡などゝては
 さくらは二十八計けん
 芭蕉庵再建
甲斐に佗しい日々を迭っていた芭蕉は、天和三年の夏五月に江戸に帰った。江戸にいた門人等の懇請に依ったものであろう。大火後の江戸の跡始末も一片付した頃である。芭蕉は江戸に帰りはしたが、芭蕉庵は焼失していたし、門人の家などで厄介になっていたかも知れぬ。芭蕉の境遇に門人達はけ大いに同情したであろう。そこで有志の物が協力して芭蕉庵を再興することになった。その勧進帳の趣旨書は山口素堂(信章)が筆を執った。
 成美の『随斎諧話』に
 ………上野館林松倉九皐が家に、芭蕉庵再建勧化簿の序、素堂老人
の真蹟を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。
九皐は松倉嵐蘭が姪係なりとぞとして次の文を載せている。
 ………芭蕉庵庵烈れて蕉俺を求ム。(力)を二三子にたのまんや、
めぐみを数十生に侍らんや。廣くもとむるはかへつて其おも
ひやすからんと也。甲をこのます、乙を恥ル事なかれ。各志
の有所に任スとしかいふ。これを清貧とせんや、はた狂貧と
せんや。翁みづからいふ、たゞ貧也と、貧のまたひん、許子
之貧、それすら一瓢一軒のもとめ有。
雨をさゝへ風をふせぐ備えなくば、鳥にだも及ばす。誰かし
のびざるの心なからむ。是草堂建立のより出る所也。
  天和三年秋九月竊汲願主之旨
 濺筆於敗荷之下 山 素 堂
 「素堂文集」の文とは多少の異同がある。 かやうにして芭蕉庵再建の奉加帳が廻されたので、知己門葉々分に応じて志を寄せた。
その巨細が『随斎諧話』に載っている。やゝ煩わしいことではあるが、転載して当時を偲ぶよすがとする
   五匁 柳興 三匁  四郎次  捨五匁 楓興
   四匁 長叮 四匁  伊勢 勝延  四匁  茂右衛門
   三匁 傳四郎 四匁  以貞 赤土  壹匁  小兵衛
   五分 七之助 二匁  永原 愚心  五分  弥三郎
   五匁 ゆき 五匁  五兵衛  二匁  九兵衛
   四匁 六兵衛 三匁  八兵衛  五分  伊兵衛
   二匁 不嵐 一匁  秋少
   二匁 不外 一匁  泉興  一匁  不卜
   一匁 升直 五匁  洗口  五分  中楽
   五分 川村半右衛門 一銀一両 鳥居文隣  五匁  挙白
   五分 川村田市郎兵衛 三匁  羽生 調鶴  五分  暮雨
 次叙不等
   二朱 嵐雪 一銀一両 嵐調  一銭め 雪叢
   三匁 源之進 一銭め  重延  よし簀一把 嵐虎
   一銭め 正安 五分  疑門  一銭め 幽竹
   五分 武良 二匁  嵐柯  一匁  親信
  (不明) 嵐竹 五匁 (不明)  
   破扇一柄 嵐蘭 大瓠一壺 北鯤之
 かやうな喜捨によって、芭蕉庵は元の位置に再建された。再建の落 成は冬に入ってからのことであたろう。『枯尾華』に、
  ……それより、三月下人ル無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしばし、人々うれしくて、焼原の舊艸にに庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。
   雨中吟
 芭蕉野分してに盥を雨を聞夜哉   (盥=たらい)
と佗られしに堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁と
よぶことになむ成ぬ。……
 と云っている。再建の芭蕉庵にも芭蕉を植えたことは当然と思はれるが、「芭蕉野分して」の句は焼失前の作であること既に述べた通りであり、芭蕉翁と呼んだのも焼失前であった。
 『続深川』によれば、
  ……ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて
 あられきくやこの身はもとのふる柏
 といふ芭蕉の句がある。再建入庵後程なき頃の吟であろう句意は解すみまでも無かろう。
 芭蕉は約半歳ほど甲斐の山家に起臥していたのだが、その間の句が余り聞えていない。芭蕉庵俵鏡失といふ非常事件に遭遇し「猶火宅の変を悟り、無所住の心を発して」とまで云はれているのだから、悟発の句といふやうな優れた作があるべきだと思はれるのだが、それらしいものが傳っていない。前に奉げた麋塒、一唱と三吟歌仙の立向
 夏馬の遅行我を絵に見る心かな    芭蕉 
 は甲斐に行く途中吟と云はれている。夏の馬に乗って徐行してみる自分を畫中の趣と感じたので、旅路を楽しむゆとりの見える作ではあるが「夏馬の遅行」はふつゝかな言葉である。この句は風国の『泊船集』に「枯野哉」と誤っている。叉松慧の『水の友』に「画賛」として、
  ……かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て、何をむさ
ぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを
写せりとかや。さればこそ、三界流浪のもゝ尻、おちてあや
まちすることなかれ。……
 馬ほくほく我をゑに見る夏野哉
 となっている。これは後年に至りて芭蕉が自ら改作したものであるろう。
 土方の『赤双紙』に
  ……はじめは
 夏馬ほくほく我を絵に見る心かな
 といっている。兎に角改作したもので、
 馬ほくほく我は絵に見る夏野哉
 は蕉風の句である。
 勢ひあり氷えては瀧津魚   芭蕉
この句は麦水の『新虚栗』に出ている。何丸の『句解参考』には
 「甲斐郡内といふ瀧にて」と前書があり
 勢ひありや氷杜化しては瀧の魚
 勢ひある山部も春の瀧つ魚
 を挙げて、初案であろうといっている。瀧が涸れて氷柱になり瀧壺も氷に閉ざされていたが、春暖の候になりて氷も消え、瀧登りする魚も勢ひづいたといふのであろう。語勢の緊張した、豪宕な句ではあるが、どことなく談林の調子の脱けきらない、寂撓りの整はない句である。
 『虚栗集』
 芭蕉が甲斐の山家から江戸に帰ったのは、天和三年五月であったが、程もなく其角撰著の『虚栗』が板行された。
 芭蕪の政の終りに「天和三癸亥仲夏日」とあるから、五月の筆である。六七月頃に板行したのであろう。其角二十三歳の時である。その早熟驚くべきである。云々

素堂と芭蕉 その7

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 元禄七年(1694)五月、芭蕉が西国に向かつた時は、素堂の送別の詞などが見られず、妹の死没と関係があるらしく見送りはしなかった様である。その二ヵ月後の六月、立花不角が素堂の閑居を訪れ「芦分船」(不角編)に序(跋)を願っている。

 『芦分船』跋文 六月奥

  五月あめ晴過る比、芦分舟をさしよせて、江の扉たたく人有、この舟や
  難波の春を始めて、玉江のあしの夏狩りものせて、是をおもしとせず。
  尚、しほれ戸のからびたるも、一ふしあるはそれすてめや。しばしかた
  らひて、手をわかつとき。

 尚、七月には讃岐の紙小庵友鴎が東下記念の句集「芳里袋」を編んで、素堂に序文を願っているが未見のため、その俳文はわからない、これ以降、素堂が没するまで十数編の序跋文を編んでいるが、未見の竹洞清流(稲津青流)編の「住吉(墨吉)物語」や其角編の「俳譜錦繍緞」の序跋文を除き、俳論めいた文章はみられない。恐らく元禄初年ころには俳論「松の奥・梅の奥」が芭蕉の手に渡り、一応素堂が背負っていた義務を果たしたごとで肩の荷を下ろしたのであろう。

 素堂研究の泰斗・荻野清氏(山口素堂の研究上)によれば

 『彼の興味はむしろ詩文の方面にそそがれてゐたらしく、為に俳諧に疎くなったものであろう。--申略--元禄に至るもなほ三四年頃までは、彼は相当句作に力め、単に数の上より見れぱ天和貞享頃より更に多くの句を吐いてゐる。併し、二三のものを除けば、貞享中の句の如き至醇境には程遼いものであった。漸く彼の句風は、純蕉風とはどこやら調和せぬ所を生じきたったのであった。--中略--蕉風と一致しない彼の俳諧観が、その根抵となった事は争へない。

 清水茂夫氏(昭和三十年・山梨大学学芸部研究報告第六号素堂の俳諧、三)で

 元禄時代に入ってからの素堂の作品は決して多くない、しかしその多くは残菊の宴十三夜の会.年忘れの会.芭蕉帰庵や追悼追善.旅行等の場で作られてる。このような場において句作することは、自己の感動の自然の表現が特質づけらてくるのであって、蕪村から逸落だと賞される淡白な句境もそこから生れてくる。元禄二年頃から芭蕉の俳諧との間にはかなりの径程を生じて来た。云々----(元禄六年)素堂と芭蕉との交際は親密を極め、永久に変るまじと思われる状態にあつた。既にこの頃は芭蕉の俳諧と素堂のそれとの問には大き径程が生じていたのである。

 とあって『追悼句は句々芭蕉への追慕の情の益々深切であるのを感ぜしめるのである』と.述べておられる。多くの識者は隠逸素堂は芭蕉なき後は、追慕に始終し、上方への旅行やらで見るべきものは無く、過去の名声をもって江戸の俳壇に隠然と君臨し、ついにば俳諮をも捨てたとされる。この説は穿ち過ぎて少々頂けない論で、前述の様に芭蕉死没前後の身辺の出来事や、蕉門内部の問題などで、その始末に追われていたらしい事などを見落としての論である。

 芭蕉と素堂との俳諧の問に径程を生じて来たのは、確かに元禄二・三年頃からではあるが、これは二人の個性の差とも見るべきで、貞門俳諧に飽き足らぬ思いを持っていた素堂は芭蕉と同様、西山宗因に接してたちまち談林風に染まった。しかし素堂は主家を致仕する前後から、談林俳諧の行き詰まりを感じていたらしく、景情の融合・情の俳諧・詩は心の絵として、用語と句工案の自由などを目途に、純正風(蕉風)的句を吟じている。

 一方、芭蕉も理由は確かには判らないが、素堂の退隠の翌年に職を辞して深川に屠を移し、素堂の俳論に触発されてか、俳諧新風の工案を始めた訳である。しかし談林風、これより派生した漢詩文調を容易に脱することができずに、苦悶の日々を過ごしていた様である。これを打開するべく、素堂が「誹枕の序文で述べた「古人の風雅のこころは旅にあり(是此道の情なるをや)その生き方の共通性にある」と説き、これによって触発されたのであろう芭蕉は、迷い悩みながら蕉鳳樹立に向け出発したのである。
 それが天和三年の「虚栗」蕨文の新風宣示となり、貞享元年の甲子吟行(野ざらし紀行)となって結実し、これに、跋文を著した素堂の賞め方もさすがであった。煩雑になるため掲出しないが、芭蕉をのせるこつは流石である。芭蕉はこの吟行の途時名吉屋での「冬の日」は、漢詩文調を脱して、蕉風を樹立したものと評されるもので、後の「蕉風三変」と称される初頭に立つものであるが、延宝八年からあしかけ五年である。その後、貞享四年秋の「簑虫贈答」のあと、芭蕉は「笈の小文」となる芳野吟行に出発し、素堂は其角の要請で「続虚粟」の序文に『景情の融合の必要性を指摘して、情^心)の重要性を説いた』のである。それが元禄二年の芭蕉の「不易流行論」となって、元禄四年の「猿蓑」に結実して行くのである。これまた五年の日時を要している。しかしその後の三変目の「軽み」への転換は早く、元禄七年には手紙で「かるみ」を頻りに提唱する、(「かるみ」については芭蕉の俳論でふれる。)

素堂は芭篭姦されたのであろう「連句俳論」を纏めたあと、芭蕉後見の荷を下ろしたと言うべきか、以前の素堂調とはややことなる「かるみ」(芭蕉のかるみとは異なるが)を増した句作が増加する。素堂の特徴は用語の取り方で、極めて自由な考えを持って、用語に対する思定観に囚われず、こころを表現するのに、適切なことばを用いることを目当てとしている。.従って句は清雅・高貴・蒼古・端正・淡白・静寂を特色とするが、その反面、芭蕉とは異なる、煮えたぎる、強く深い情熱の奔騰は感じられない。恐らく素堂の性格から来るものである。

 与謝蕪村が『素堂が過落云々』と言う事もうなずかれる。清水茂夫氏が『隠者生活に徹し掃掃得た性格に基づくであろう』と解説される。また素堂の叙情は『短歌的叙情は感情の奔騰帝に即して成立するとすれぱ、俳句的叙情は対象にそくして、的確端的な認議を前提とする叙情であり、短歌的叙情の否定の上に立つ叙情が、俳句の独特の静と言い得る』とも説かれる。

 甥の黒露が素堂の話として「摩訶十五夜」<まかはんや>(素堂五十回)の庵語に

  京の言水歳旦に、初空やたぱ粉の輪より問の比叡といふ旬の拙か、初心の
  ほど甚おもしろく思ひて素翁へ申ければ、しばらくして「問の富土とこそ
  いふべけれ」との給ふを、尤の事とおもひ、ある日専吟にかく有しと出け
  れぱ専吟の曰、言水もさ思はめと京ゆへ也。そこらが素堂の古き心よりの
  評也と云ひしも、亦尤とおもひ、其後又翁へ専吟評をいひければ『夫々と
  皆趣向を借て深く入たらぬ故の論也。予が句に

   地は遠し星に宿かれ夕雲雀
 とせし句、地は還しと濁りて吟ずる時は、一句すたるとおもひ、終に披露せ
 ず捨てり。其句も京故ならずば捨るがよし、秋風ぞ吹しら川の関との歌の出
 しせしをぱ、いかに心得たる』とて示し給ふ。(以下略)

 とある。地は遠しの句は元禄初期のものであろう、言水は享保七年(1722)の没、黒露はまだ始めた頃で雁山を称していた時である。恐らく宝永年間の事であろう。素堂の句作法を伝えるひとこまでもある。

 素堂には『松の奥・梅の奥』の外に俳論はない。この外には、露言門の挙堂が編著した「真木柱」(元禄十年刊)があり、素堂の句を何々体などと類別して一句づつ上げて、発句の作法書の体にしてある。露言は内藤鳳虎の門で、後に調和の門にはいった俳諧師であり、素堂とも親しくしていた人である。従って挙堂も素堂に近かったのであろう。やや年代が下がって、元禄十四五ねん代から宝永初め頃までのものと考えられる『素翁口伝』があり、伝世した九世馬場錦江が識書に、

   此俳諧口伝一巻亡素翁の真蹟のよしにて曇華斎に来りしを、其格見定始
   として残しけるを、其儘にうつし置かしむるもの也。但此より後きれて
   見へず。素翁のしるす処の名もなしといへども、一体の意味事凡の作り
   すべきものにあらず、全うしざるハ残り多き事なり。

 とある。この冊子の後ろの部分が欠けているため、どの程度の規模で綴られたのかは不明である各項目に芭蕉の句を例句として掲出して、其角.野坡らを出すなどしてあり、不易流行論や支考の俗談平話などにもふれている。(以下略)

 素堂が俳諧から遠ざかったのは、芭蕉の死没前後に身辺に不幸が集中した事と、芭蕉の門人間の対立が激化したことで、生前より芭蕉は向背・あつれき・確執などに悩まされており、芭蕉の死により蕉門の分裂を修復させようとしていたのである。素堂は江戸より京都を拠点に去来等をして蕉門新風を興させようと考えたとしても、無理はない。しかし挫折に終わったのである。素堂が期待していた去来は宝永元年病死し、丈草も同四年病死。土芳は享保十五年(1730)まで生きた。

 素堂の俳論は死ぬまで本質は変わらなかった、貞享四年前後から俳諧の外に漢詩文や和歌などにも指向が広がったが、俳諧の作句に些かの揺るぎもない、寧ろ枯れた平明淡白な句が多くなる。俳文にも新味のある試みをしている。

 宝永二年、京都で支考にたのまれて「寸の字」に序文を頼まれた。
  (前文略)しひて風情をもとめず、はづんでしかもはづみ週ぎず、句調もま
  たひくからず。つよからんとすれば、ふつつかになりやすし。今の時はやす
  みの外までおだやかに、俳風もますます御代の松の、若みどりさへ立そひて、

  すみよしの、
  すみのすすめの
 、すをかける心ちなるべし。

 元禄三年の嵐雪編の「其袋」に序文を書き、未見であるが「袋尽くし」の文を書いており、これに続くもので、散文詩的試みが成されたのである。

素堂と芭蕉 その7

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 其角の「続虚粟」が版行された貞享四年(1687)十一月、芭蕉はほどなく送られて入手していたと考えられるが、門入知友に宛てた手紙は寂照(下里知足)以外知られず、翌咋の杉風宛にもふれられてない。あるいは無視したとも考えられる。この辺りはよく論じられるのだが、素堂より芭蕉の力量が勝つていた事に起因すると云う。この説は穿ち過ぎて如何であろうか。元禄三年九月、「奥のほそ道」吟行に引き続き近江に在った芭蕉が、河合曾良に宛てた手紙で

  幻住庵の記も書き申し候、文章古く成り候ひてさんざん気の毒致し喉。
  素堂なつかしく候、重而ひそかに清書、御目に懸くべく候問、素堂へ内
  談承るべく候--中略--素堂文章、此近き頃のは御座無く候哉、なつかし
  く候。(以下略)とある。

 芭蕉は直接素堂に手紙をせず、杉風とか曾良のような口の固い門人が、それぞれ取り次ぎに入っていたことを、証明しているようである。頼まれた曾良が何を送ったのかは不明だが、折々のもの例えば前掲の書(元禄三年末から四年春まで)は入手していたと推定できる。少々まだるっこくなったが、芭蕉は素堂の俳論を知りたかったのである

 元禄二年の「おくのほそ道」のおり、羽黒で呂丸に教えた「天地固有の俳諧云々」(闇書七日草)は、のちの「不易流行論」であり、芭蕉は連句より発句に益々力点を置くようになっていたのである。素堂の句作は、芭蕉の生前と死後とでは、諸先学が論じられるように確かに量は少なくなっているが、これは歌仙等句会えの出座が極端に減じたことに起因するし、元々自ら興行すると云った事より、招かれて参加することが多かったのであり、俳人で帖あるが、俳諧を専門とする俳諧者ではない。寧ろ俳学者とも云うべき詩人とするべきであろう。これを隠者の俳諧として位置づけるには、些か疑問が生じるのである。

 素堂の俳論『松の奥と梅の奥』の上下二冊は、いつごろ芭蕉の手に渡ったのか不明であるが、元禄五年八月に桃隣の手引で芭蕉に入門した森川許六が、翌六年江州彦根え帰国する事になり、「俳諧新式極秘伝集」「俳護新々式」「大秘伝自砂人集」の伝書が与えられた、この書の奥に芭蕉の自筆で『元禄六年三月相伝』の旨が書されていた。この折に素堂の俳論も書写されて与えられたのであろう。後に葛飾派の二世素丸が入手したとされる。素堂の俳論『松の奥・梅の奥』(以後俳論)は書写されて、芭蕉の門入たち例えぱ去来や土芳らにも与えられたらしい。向丼去来は芭蕉の死後に芭蕉の語録俳論を綴った「去来抄」を元禄十一年から数年かけて著し、服部土芳は「三冊子」を十六年に成稿させたが、共に出版することなく終わった。(刊行されたのは「去来抄」が安永四年(1775)、「三冊子」が安永五年(1776)、前者が暁台の編、後者が蘭更編である。素堂が没して六十年も後であった。.二人共に素堂の俳論を引きながら芭蕉の俳論(師口)を述べている、つまり、二は素堂の俳論をつぷさに読んでいたのである、芭蕉の死没前後の素堂には、身辺に相次いで不幸が襲い、元禄六年十月以降翌年夏頃までの妹の死、晩秋頃の妻の死没、元禄八年夏(五月頃)の母の死没と続いて、句作等文筆が閑になる。

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