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㈡地球と人類の共生

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人類はその歴史の中で様々な革命を経験してきました。
  約700万年前:最初の革命はなんといっても「直立二足歩行」でしょう。
  約250万年前:次の革命は原人による「石器の使用」でした。
  約80万年前: 旧人による「火の使用」が次の”技術革新”。
  約1万年前:  そして「農耕革命」によって世界各地で食糧生産が開始しました。
  約5,000年前:それに続く「都市革命」によって文明が誕生します。
  約2,500年前:その次にくるのが「精神革命(巨大宗教・哲学の誕生)」です。 

紀元前6〜5世紀の「精神革命」とは?

「精神革命」とは、紀元前500年前後に起きた人類の精神における大変革のことです。
 驚くべきことに、
    ●ザラスシュトラ(紀元前628-551年)によるゾロアスター教の創唱
    ●イスラエルでは預言者らによってユダヤ教が誕生(紀元前586年)
    ●孔子(紀元前551-479年)による儒教の成立
    ●ガウタマ(紀元前463-383年)による仏教の創設
    ●プラトン(紀元前427-347年)によるイデア論の提唱
 などのように世界同時多発的に思想家が現れ、人間の思想に変革が起きたのです。
イメージ 2 釈迦(ガウタマ・シッダールタ)イメージ 3 孔子

この革命で、結局何がどう変わったのでしょうか?

宗教・哲学の起源という壮大な問題を1つのブログ記事に表すのは無謀なことですが、
一つの見方を示したいと思います。
(いくつかのサイト・書籍を参考にし、思いっきり単純化しています。)

  「精神革命」以前の宗教は、自然神崇拝、動物神崇拝、そして神話に基づく多神教でした。
  山河や森や海には「母なる神々」が宿り、自然の恵みを与えてくれると信じられていました。
  人々は現世利益を与えてくれる自然神に感謝するのです。

  しかしある時から、大地と自然は冷たくなり、人々を痛めつけるばかりとなりました。
  母なる自然はなぜこれほどまで厳しいのか? 母なる神々はなぜ人々を見放すのか?
  そのとき人々は何を考えたのでしょう。どう説明しようとしたのでしょう。

  人々は「母なる神々」に現世利益を求めることはやめ、
  唯一の神は、人々に試練と苦難を与えているに違いない、そう考えるに至り、
  人類は自然にすがる存在から、自然を克服する存在へと成長したのでしょう。

  それが紀元前500年前後に起きた、人間の思想の変革なのではないでしょうか。

精神革命の背景は?

では、なぜ世界でほぼ同時期にこのような「思想」が世界各地に誕生したのでしょうか?
これを説明できるのが気候変動です。人々を痛めつけた自然神の正体です。

精神革命が起こった紀元前6世紀から5世紀にかけては
まさに気候が寒冷化した時期に相当します。
イメージ 1
(縦軸は酸素同位体比による温度指標、横軸は西暦)

5-6千年前の寒冷化や乾燥化を乗り越えてイノベーション(都市革命)を成し遂げた人々は、
再び紀元前500年前後の寒冷化によって、生きるか死ぬかの危機に直面し、
人々の精神の変革が引き起こされたのかもしれません。

逆に、この寒冷期でも比較的温暖で豊かな地域では、
人々の思想の変革が起こる必然性がなかったのかもしれません。
日本の神道は、現代でもなお、風土、山河や森を守り、
農業や漁業といった現世利益をもたらす伝統ですね。

4行でまとめます

●「精神革命」とは、紀元前500年前後に起きた人類の精神における大変革。
● 世界同時多発的に多くの思想家が現れ、その後の人間の思想の基軸を形成した時代だ。
● 人々が「自然神」から離れ「唯一神」への移行・集権化が開始された紀元前6〜5世紀。
● 当時の厳しい寒冷・乾燥気候に苦しみ、それを乗り越え、克服するしていく時期に符合する。 

この記事は以下のサイト・書籍を参考にしています。
http://www.nagaitosiya.com/b/castration.html
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/nagai/history.html
http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/52e71eb9ea38274390b91fa6c8486d83
安田喜憲「気候変動の文明史」NTT出版

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おかげさまで、ブログ開設以来1年9ヶ月で訪問者が延べ1万人を突破しました。
今後ともよろしくお願いします。

このブログの主題からは少しはずれますが、今日は日本の美術史について。

日本美術の傑作とは...

田中英道著「日本美術 傑作の見方・感じ方」(PHP新書) を読みました。要約すると、
● 日本美術には世界に通用する傑作が数多く存在する。
● しかも日本の美術は世界の芸術よりも手法や技法などで先んじていた。
● 見落とされがちな日本の仏教美術は、世界に冠たる傑作に引けを取らない傑作ぞろいだ。

例えば、
法隆寺『百済観音像』(7世紀)の中性的な微笑は、
 はるか後世のダ・ヴィンチ『モナ・リザ』(15世紀)に匹敵する。
興福寺『阿修羅像』(8世紀)の「高貴なる単純と静寂なる偉大さ」は
 ルネサンス初期(15世紀)のドナテルロの『聖ジョルジョ像』に匹敵する。
● 深く静かな怒りをあらわにした東大寺戒壇院『四天王像』(8世紀)は
 ミケランジェロの『ダヴィデ像』(16世紀)を凌ぐ。
北斎・広重らの浮世絵は、セザンヌが触発され、ゴッホが模写した。などなど...

なるほど!日本美術ってすごかったんですね。これは目ウロコです。

田中英道氏によれば、すぐれた美術の歴史には共通の"様式展開"があります。
日本の美術史も西洋と同様に(というより、むしろ先行して)"様式展開"しました。
日本美術史は様式によって9つの時代に区分されます。
1.プリミティブ/原始5800-3000年前頃土器と巨木文化
2.プレ・アルカイスム西暦200-500年頃前方後円墳と埴輪の文化
3.アルカイスム/古拙期600-710年頃法隆寺の初期仏教美術
4.クラシシスム/古典期710-780年頃仏教美術の古典期、文学・歴史書の開花
5.マニエリスム/様式主義950-1010年頃源氏物語などの宮廷様式文化
6.バロック/動勢様式1150-1300年頃鎌倉バロック文化の隆盛、絵巻と武士文学
7.ロマン主義1450-1600年頃中国風の絵画と桃山建築
8.ジャポニスム/日本様式1760-1850年頃江戸後期の町人文化
9.西洋化時代1867-1945年頃西洋の吸収と日本の自覚

この中で、世界的に傑出した「人類の至宝」と呼べる傑作が数多く生み出されたのは、
4.クラシシスム(天平文化) 6.バロック(鎌倉文化) 8.ジャポニスム(化政文化)
だけ、なのだそうです。 (他の時代の美術は世界レベルでは評価されない)

クラシシスム(天平文化)から一つだけ挙げるとすれば、興福寺『阿修羅像』
イメージ 1

バロック(鎌倉文化)から一つだけ挙げるとすれば、興福寺『金剛力士像(阿形)』
イメージ 2

ジャポニスム(化政文化)から一つだけ挙げるとすれば、北斎の『神奈川沖浪裏』
イメージ 3

飛鳥・白鳳文化から引き継いだ8世紀の天平文化は仏教美術の頂点を極めました。
  この時代の数々の傑作に匹敵する高貴な仏教美術作品は、その後生み出されていません。

その4世紀後、鎌倉時代前期に武家社会の中でバロックの美術は頂点を極めました。
  この時代の写実的かつ躍動感あるれる傑作に匹敵する作品も、その後生み出されていません。

その5世紀後、江戸時代後期に町人文化であるジャポネスク美術は日本様式を確立しました。
  西洋に影響を与えるほどの高い水準の日本美術作品は、その後生み出されていません。

詳しくは、田中英道著「日本美術 傑作の見方・感じ方」 を読んで下さい。(中古商品なら211円から)

日本美術史と気候変動

さて、お決まりの展開です。(またか?と言われそうですが...一応比較してみました。)

芸術の歴史は、宗教、政治、社会の成熟度、風俗など様々な要因に影響を受けますから、
単純な推測はもちろんできません。でも、むりやり勝手に当てはめてみるとこんな感じです。

イメージ 4
4.クラシシスム(天平文化) 奈良時代の赤い矢印
6.バロック(鎌倉文化)   鎌倉時代前期の赤いゾーン
8.ジャポニスム(化政文化) 江戸時代後期の赤い矢印

偶然かもしれませんが、これらはいずれも温暖期か、または寒冷期から脱した時期です。
(でも、他にも温暖期のピークはたくさんあるので、この推論は「まゆつば」です。)
# ただ、温暖期に入り世の中が安定したから天平文化が開花したと言っている学者はいます。

寒冷期には衰退または変革が起こり、温暖期には食糧生産が増大し社会は安定し成熟する。
世の中が豊かで余裕があれば芸術家が活躍する場も広がるのではないか、
そんなことを考えましたが、いかがでしょう?

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古代ローマ帝国の滅亡

イメージ 1 ローマ帝国の領土の拡大 (wikipediaより)
紀元前133年(赤)→ 紀元前44年(オレンジ)→ 14年(黄)→ 117年(緑)

古代ローマ帝国はトラヤヌス帝(在位:98年-117年)の時に領土が最大でしたが、
その後周辺民族の攻撃を受け、段階的に衰退していきます。
古代ローマ帝国が終焉したのは西ローマ帝国が滅亡した476年。これが中世の始まりです。
(ローマ帝国自体は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)として1453年まで続きます)

帝国滅亡の原因は?

古代ローマ帝国滅亡の原因としては様々な説が挙げられていますが、
複合的なものが絡んでいて単純には説明できません。
ただ、帝国を疲弊させた一因として有力なのは...
(1)ゲルマン民族の侵入の頻繁化と(2)作物の不作と言われています。
この二つの現象は一つの原因で説明できます。寒冷化です。
気温が下がれば凶作となり、北方の騎馬民族は南の暖かい気候を求めて南下するからです。

フン族の西進 → ゲルマン民族の大移動

高校の時に習ったのはこんな感じだったと思います。
北ヨーロッパのバルト海沿岸地方に住んでいたゲルマン民族は次第に南へ移動。
375年に西ゴート族がローマ帝国に侵入、378年にはアドリアノープルの戦いでローマ帝国に勝ち、
帝国内での定住と自治が認められ、これを機に他のゲルマン民族も続々と移動を開始。
後にローマ帝国が東西分裂する原因の一つとなる。
では、ゲルマン民族はなぜ大移動したでしょう?
人口増加による食料不足、耕地不足なども原因ですが、直接の引き金になったのは
中央アジア方面からの「遊牧騎馬民族フン族の西進」による圧迫です。

では、なぜ4世紀にフン族がヨーロッパへ侵入したのでしょう? 
寒冷化が原因という説があります。気候が寒冷・乾燥化すれば草原は砂漠化します。
遊牧民は家畜を養うための新しい草原を求めて、より温暖湿潤な地域へ移動しなければなりません。
中央アジアの南は砂漠、北は寒帯なので、西の湿潤亜寒帯へ進むしかなかったでしょう。
(東には匈奴という別の騎馬民族がいた)

4世紀頃の寒冷化と民族移動の世界同時性

イメージ 2 AD 200〜現在
このグラフで3世紀から5世紀頃にかけて寒冷化していることが読み取れます。(青矢印)
この時代に北方騎馬民族が南下するという現象がユーラシア大陸全土で見られるのです。

この時期に中国華北地方に北方遊牧民族 (匈奴) が移住を開始しています。
そして華北は「五胡十六国時代」と呼ばれる、北方遊牧民族による割拠状態となります。

この時期の寒冷期を日本では「古墳寒冷期」と呼んでいます。
古墳時代に北方騎馬民族が日本に渡来したという説があります。

古代ローマ帝国の盛衰と気候変動

古代ローマ帝国は温暖化によって膨張し、寒冷化により収縮したと見ることができます。
イメージ 3
これは古代ギリシャの黎明期から中世初期にいたるまでのヨーロッパの気候の変遷です。

(左上)古代ギリシャ〜古代ローマ初期の頃のヨーロッパの寒冷気候。
    地中海性気候の北限を示すライン(Mediterranean)が現代よりも南にあります。
(右上)ローマが繁栄していた頃のヨーロッパの温暖気候。
    地中海性気候のラインが現代よりも北にあります。
    ローマ人たちは地中海性気候の北上に合わせるかのように北方へと膨張していきました。
(左下)ゲルマン民族が南下して建国した頃のヨーロッパの寒冷気候。
    地中海性気候のラインの南下に合わせてゲルマン民族が南下したかのようである。

まとめ

● 古代ローマ帝国は古代温暖期に膨張し、3世紀以降の寒冷化により収縮した。
● 3〜5世紀頃の寒冷期にユーラシア大陸全土で北方騎馬民族が南下した。
● それがゲルマン民族の侵入を引き起こし、古代ローマ帝国は476年に滅亡した。
# 最近の歴史教科書は「寒冷化による民族移動」を記述するようになったのだろうか?

参考サイト:詳しくはこちらをどうぞ
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/nagai/roman_empire.html

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マヤ文明の崩壊と気候変動

イメージ 1
   (アポカリプトより)  私は観てませんが...

イメージ 2(wikipediaより)

密林にそびえ立つ壮麗な石造都市、宇宙の中心に君臨した王、
 太古の情報が詰め込まれた碑文、国家の存亡をかけた生け贄の儀式...
   謎と神秘につつまれた古代アメリカの失われた文明は人々を魅了してやみません。

マヤにはこれまで何百万人もの観光客が訪れているそうですが、私もいつか訪れてみたいです。

マヤ文明とは...

マヤ文明といえば、中米で1000年以上にわたって高度な文明と栄華を誇りながらも、
9世紀末に突如として滅んだ文明として有名ですよね。

   15世紀にはマヤの子孫の人々とスペイン人は接触していましたが、
   1839年にマヤ遺跡群が本格的に発見されるまで、約1000年もの間、
   その廃墟はひっそりと密林の中にたたずんでいました。

      そして1980年代になってマヤ文字がついに解読され、
      高度な天文学、極めて正確な暦、複雑な王室の系譜と王朝の興亡、
      生贄の儀式、交易と政略などが次々と明らかとなり、
      マヤ文明は、血統の維持や軍事征服にとりつかれ、
      たがいに競い合う都市国家の寄せ集めであったこともわかってきました。

マヤ文明の崩壊の理由は、外部からの侵略なのか?内乱なのか?飢饉なのか?疫病なのか?
全く見当がつかなかったが、マヤ文字の解読によって多くの説が唱えられるようになりました。

    数ある説の中で「干ばつ説」は最近まであまり注目されていませんでしたが、
    近年の気候変動の研究によって、干ばつの証拠が次々と報告されています。

1990年代後半から出始めた気候変動の証拠

考古学者R・ギルは、廃墟となった都市の石碑に最後に刻まれた年月によると、
都市ごとに崩壊時期が違うこと着目し、これとヨーロッパの樹木の年輪が示す寒冷期
同時性を示すことから、マヤ文明の崩壊は3度にわたって起き、
  (1) 810年に周辺2都市が、
  (2) 860年には2つの大都市が崩壊、
  (3) 最後に890-910年には中心地が陥落し、マヤ文明は終焉した
という、気候変動要因説を2000年に発表しました。

    一方、地質学者J・ハウグらは、マヤとほぼ同じ緯度のカリブ海から掘り抜かれた
    深海底の泥層を分析し、約50年の周期で襲った4度の大干ばつを突き止めました。
    深海の泥層は1000年で30cmの割合で降り積もります。
    最新鋭の機器でこの泥層を1mm毎に化学分析して、乾燥/湿潤の変動を復元したのです。
    
イメージ 3
    この図は、J・ハウグらの分析による、泥層中のチタン含有量の変動。
    雨量が多ければ、陸の河川から海に流出するチタン量が増えるそうです。

つまり、西暦760年810年860年910年(灰色のゾーン)に
極端に雨量の少ない乾燥した数年間(最長9年間)があったことを示しており、
R・ギルによる石碑の記録と樹木の年輪記録とぴったり一致しています。
J・ハウグらは、その原因を熱帯収束帯(ITCZ)の北限が南下したためだと考えました。

熱帯収束帯とは?

熱帯収束帯とは赤道付近に形成される低気圧帯のことで、季節によって南北に移動します。
一年中熱帯収束帯のもとに置かれる地域は湿潤な熱帯雨林気候
季節によって熱帯収束帯からはずれる地域は、乾季を持つ熱帯モンスーン気候となります。

  マヤは北緯17〜22度の範囲にあって熱帯モンスーン気候帯に属します。
  冬に熱帯収束帯からはずれるので(熱帯収束帯が南下するので)乾季になるのです。

    短期的な気候変動によって熱帯収束帯が何年間も南下したままになると
    マヤはその数年間、乾燥地帯に変貌してしまうのです。
    それが、760年810年860年910年です。
    主食のトウモロコシや豆類は干ばつによって凶作となったでしょう。

このように石碑の記録海底のデータ樹木年輪のデータ
そして(ここでは紹介しませんでしたが)湖の泥層のデータとも驚くほど一致し、
少なくとも3度の干ばつとマヤの都市文明の崩壊過程が連動していたと言えるわけです。

マヤ文明はなぜ崩壊したのか?

J・ダイアモンド著の「文明の崩壊(上)」(2005年12月初版)によれば、
マヤ文明の崩壊を招いたのは以下の5つの複合要因です。

1.人口と資源の不均衡による社会崩壊。入手可能な資源(水や農作物)の量が
  人口増加の速度に、もはや追いつけなくなっていた。

2.森林破壊によって、丘陵地が侵食され、利用可能な農地面積が減り、
  地力の枯渇による深刻な土壌問題が起こった。

3.数少ない資源の奪い合いによって内乱や都市同士の戦争が激化した。
  国境付近は危険な中間地帯となり、営農できる面積も減った。

4.気候変動による干ばつの影響。マヤは何度かの干ばつを乗り越えることはできたが、
  人口が増えすぎてしまい、耕作をやり直せるような未居住の土地はもはや無かったし、
  人口を支えるだけの水源を維持できる区域もほとんどなかった。
  (既に超えてはいけない一線を越えていた)

5.マヤの王や貴族たちは1〜4の長期的な問題でなはく短期的な問題にしか関心がなかった
  短期的な問題とは、私腹を肥やす事、戦争に勝つ事、石碑を建てる事、
  農民から十分な食糧を取り立てる事など。

なるほど、うなずける内容です。

コメント

● マヤ文明は人口と資源の不均衡によって既に社会的ストレスを抱えており、
 そこへ気候変動による干ばつがとどめを差す形で、滅亡・離散に追い込まれたのでしょう。
● 熱帯収束帯が50年周期で南下する、つまり寒冷乾燥化する原因はわかっていませんが、
 おそらく太陽活動の変動ではないかと思われます。
● もし西暦910年の干ばつさえ切り抜けていれば「中世温暖期」に突入しており、
 厳しい干ばつは減り、マヤ文明の繁栄はもっと延命していたかもしれない??

参考書籍:詳しくはこちらをどうぞ
J・ダイアモンド著の「文明の崩壊(上)」(2005年12月初版)
B・フェイガン著の「古代文明と気候大変動」(2005年6月初版)

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温暖化を生き抜いた人々

「温暖化時代」とつき合っていくためには、
「過去の温暖化」について知ることはきっと意味があるでしょう。

最も近くに経験した温暖化とは

人類が最も最近経験した温暖化は「中世温暖期」。
およそ9世紀から13世紀にかけてヨーロッパを中心に温暖だった時期です。

遷都を繰り返した8世紀後期の日本:長岡京の謎

イメージ 1
長岡京の鳥瞰図(想像図)

中世温暖期の始まりである8世紀後期の日本では、平城京から長岡京への遷都(784年)、
平安京への遷都(794年)と、わずか10年のあいだに2度の遷都がありました。
なぜ長岡京を10年で廃都にしたのでしょうか? (←まるで税金の無駄遣い)

一般に歴史学者の間で語られてきたのは、以下のような「怨霊説」です。

  1.785年、長岡京の造営使・藤原種継が暗殺され、その計画に加担したとして
    桓武天皇の実弟の早良親王が幽閉され、恨みを抱いたまま死去した。

  2.その後頻繁に起こった川の氾濫、さらには疫病の大流行、皇后や皇太子の病死など、
    数々の不幸は早良親王の怨霊が原因であると占われた。

  3.桓武天皇が早良親王の怨霊におびえるようになり、
    怨霊にたたられた長岡京を廃都とした。

実際、長岡京時代には、腸チフスや天然痘とみられる疫病が流行ったという記録、
大洪水が起きたという記録が残されています。

長岡京廃都の背景にあった地球温暖化

イメージ 2
この図は屋久島の屋久杉の年輪解析によって復元された最近2千年間の温度変化です。
中世温暖期の日本は今より1〜2度、気温が高かったと推定されています。
この時期サクラの開花が早かったという記録もあります。
(中世温暖期の原因としては、もちろん人類活動ではなく、太陽活動説が有力です。)

大化の改新(645年)や平城京遷都(710年)の時期はまだ寒冷期だったことがわかります。
その後8世紀後半から急速に温暖化し(赤矢印)、長岡京時代は「中世温暖期」に突入していました。

国際日本文化研究センターの安田教授によれば、
「桓武天皇が恐れた『怨念』の正体は地球温暖化」なのだそうです。

記録によれば長岡京時代は台風の襲来や豪雨、猛暑による干ばつの被害に悩まされ、
そして亜熱帯性の伝染病も流行したことは確かなようです。

780年頃から風水害と干ばつの発生率が急増している記録と
この時代の温暖化の傾向は見事に一致するのです。

2つの川が合流する場所に立地する長岡京は、水上交通の利便性に優れていた
(遷都の理由の一つだった)反面、洪水常襲地帯でもあり、
たび重なる洪水の来襲で都はついに完成することなく廃都となったのです。
これは地政学上の失策とも言えるでしょう。

そして桓武天皇は桂川と鴨川の扇状地に位置する京都に千年の都、平安京を築きます。

8世紀後期の温暖期に進んだ古代東北への侵略と開拓

一方、北に目を移すと、この温暖期には古代東北の開拓が進行しています。
743年に墾田永年私財法が発布され、大開墾時代の幕開けとなりました。
これもなぜか上のグラフの温暖期の到来とほぼ一致しています。

古代東北の開拓は、8世紀後半30年にも及ぶ蝦夷との闘争をへて、
日本史上かつでなかった大規模な北への移住(民族移動)をもたらしました。
言葉を変えれば、温暖化によって北方に開墾を求めた侵略だったのかもしれません。

まとめ&感想(ここだけ読めばわかります)

8世紀後期の日本は急速に温暖化が進んだ時期。ヨーロッパの中世温暖期初期に対応する。
●長岡京を廃都に追いつめた風水害、干ばつ、疫病は温暖化の開始、
そして東北への進出・開墾の開始と関連づけることが可能。
●不思議なことだが、多くの歴史教科書や歴史書を読んでも、温暖化や寒冷化と関連づけて
史実を説明している例はまずない。
●「8世紀後期からの温暖化」と「20世紀後期からの温暖化」は温度上昇のカーブが似ている。
ただし原因は違うのだろう。

参考書籍:安田喜憲「気候変動の文明史」NTT出版

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